第13話 Vanilla Sky

 足元に広がる血の海に、陽大は呆然と辺りを見回す。奥にあるベッドの上に、ロープで縛られた足首が見えた。ゆっくり近づくと手の方を縛っていたロープがほどけて片手がだらりとベッドから垂れ下がり、その手首には陽大はると蒼空そらに贈ったブレスレットがはめられていた。

 蒼空……!

 陽大は慌てて駆け寄ろうとするが、血に足をとられて前へと進めない。

 なぜ? なぜ蒼空が?

 泣きそうになりながら電話を取り出し、蒼空にかける。

 なぜ俺は電話をかけている? 目の前に蒼空がいるのに? 

 いや、あれは蒼空じゃない。あのブレスレットは別のものだ、俺が買ったのはきっとあれじゃなかったんだ。

 だんだんと電話の音が高くなっていく。

 陽大はあることに気づいた。

 これは呼び出し音じゃない、着信音だ……。

 

 陽大がはっと目を覚ますと、耳元でスマホが鳴っている。慌てて画面を見ると蒼空からだった。

 「もしもし、蒼空? 無事か?」

 「は?」

 「蒼空? 大丈夫なんだな?」

 「寝ぼけてんの?」

 「え?」

 「それとも何、もう仕事行ってるとか?」

 「え、いや、まだ……だが」

 「あっそ。じゃ、来ないってことか。わかった。もういい」

 「あーっ、待て、待てっ!」

 ようやく陽大は自分が寝坊していることを理解した。

 「ご、ごめん!昨日遅くて、服着たまま寝落ちしちゃって、けど今すぐ行くから待っててくれ」

 「別に来たくないなら来なくていいけど」

 「そんなわけない」

 「だったら5分で来い」

 「いや、さすがにそれは無理だけど、俺史上最速で行くから待っててくれ」

 慌てて服を脱ぎ、シャワーを浴びる。

 よりによって、何でこんな時に寝坊なんか……。

 ふとさっきの夢を思い出して、陽大は身震いした。

 もしあんなことが現実にあったら……。

 ぶるぶると頭を振る。

 あってたまるか。あいつは絶対に俺が守る。

 熱いシャワーを顔にかけ、陽大は手早く髪を洗い始めた。


 久しぶりの蒼空の部屋に、陽大は妙にドキドキしていた。大学時代に何度も来たことがある見慣れた部屋なのに、まるで今日初めて来たかのような感覚だった。

 「まったく……せっかく作ったのに全部冷めたんだけど」

 「悪い……ホントにごめん」

 「そんなに疲れてたの?」

 「毎日走り回って頭使って、出口のない迷路に迷い込んだ感じだよ」

 「俺の推理は? 少しは役にたった?」

 「めちゃくちゃ助かってるよ」

 「そう」

 温め直したパンを皿にのせ、湯気の立つマグカップを置いた手首に、ブレスレットが見えた。

 「それ……」

 蒼空は慌てて手首を隠した。

 「何で隠すんだよ」

 「……なんとなく」

 今朝の夢が頭をよぎる。陽大は思わず蒼空の手首を掴んだ。

 「なに、どうしたの」

 「夢を見たんだ」

 「夢?」

 「おまえがこのブレスレットをつけて…」

 「俺が陽大の夢に出てきたの?」

 「ああ」

 「それで? 俺は何をしてた?」

 蒼空の細い手首を掴む手に自然と力が入る。

 「陽大、痛いんだけど」

 蒼空が顔をしかめる。しかし陽大はその手を離すことができなかった。

 「陽大……?」

 不意に陽大は立ち上がり、掴んだ蒼空の手を引き寄せた。陽大の胸に抱き寄せられるような形になった蒼空は、驚いて身を引こうとしたが、陽大はそのままもう一方の腕で蒼空を抱きしめた。

 「陽大……どうしたんだよ……?」

 「夢を見たんだ」

 「だから、どんな?」

 「おまえが……」

 ベッドからだらりと垂れ下がった腕、足元に広がる血の海、縛られた足首……。

 「……悪い夢だった?」

 陽大は掴んでいた手を離すと、両腕できつく蒼空を抱きしめた。蒼空は陽大の肩に頬を寄せ、優しくその背中を叩いた。

 「陽大、大丈夫だから」

 「蒼空」

 「事件のことばかり考えてるから、夢に見ちゃっただけだよ。大丈夫、その悪い夢の中の俺は、俺じゃないから」

 「……おまえは俺が絶対守る」

 「うん」

 「誰にも、指一本触れさせたりはしない」

 「今、誰かさんにがっつり抱きしめられてるけどね」

 わざと明るく、おどけたように蒼空は言った。陽大はようやく抱きしめていた腕の力を少し抜いた。

 「俺だけがいい」

 「え?」

 「俺だけにしてくれ」

 「何を?」

 「おまえに触れていいのは、俺だけにしてくれ」

 「何言って……」

 「おまえに触れていいのは、俺だけだ」

 抱きしめていた腕をほどき、驚いた表情の蒼空を見つめる。

 いつも、おまえがそばにいた。ふざけたり笑ったり、時には喧嘩したりして、いつも二人で一緒にいた。いつもおまえはその綺麗な黒い瞳で、優しく俺を見て笑ってくれていた。食事が不規則な俺に、俺のためだけのモーニングサービスをしてくれて、仕事の愚痴を聞いてくれたり、事件の解決を手伝ってくれたり、そうやっていつも……。

 そっと柔らかな頬に触れる。

 なぜ俺はおまえを見るとドキドキしていたのか。他の奴におまえを可愛いと言われると、なぜ俺は腹が立っていたのか。

 両手で蒼空の頬を包み込むようにして顔を近づけ、額と額を合わせる。

 わかっていた。でも気づかないふりをしていた。本当は、きっともっと前にわかっていたんだ。

 「おまえが、好きだ」

 「……遅いよ、ばか」

 蒼空はそっと目を閉じる。そのピンク色の唇に、陽大はゆっくりと自分の唇を重ねていった。

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