第2話 原 樹雄澄

カタカタカタカタカタ・・・・

無機質なタイピング音がオフィスのあちこちから聞こえてくる。


「次の要件についてですが、お客様から業務開始時刻には端末の通信が遅くなるからどうにかしてほしいという要望がきています。そのことを考慮し・・・・」


要件定義の工程に入っているであろう案件の打合せをする声も聞こえる。


現在の会社に勤めて8年目となる俺は、3か月前に30歳となり世間的に区切りの年を迎えている。

現実には特に何も変わることはなく、いつもと変わらず淡々と業務をこなす毎日が続いている。

正直この会社にいれば給料面では問題がないため、生活に困ることはないだろう。

しかし、人手不足があらゆる業種で叫ばれる中で、樹雄澄の会社だけ例外となることはなく、しっかりと人手不足の波に飲み込まれて溺れかけている。

だから残業なんて当たり前であり、ワークライフバランスなんて品のいい言葉は、自社の重厚なセキュリティ教育の前に門前払いを受けてしまうのだ。


クリアデスク、端末へのUSB差し込み禁止、Webサイトの閲覧検閲けんえつ、メールでのファイル送信禁止、飲み会へはパソコンや社給携帯を持って行くこと禁止・・・などなど

セキュリティ遵守に関する文書だけで、林間学校のキャンプファイアーが3学年分は行えるだろう・・・と言っても最近ではペーパーレスとなり、パソコンの中のデータ管理にうるさいのが常である。


そんなセキュリティや資料の品質を頑張って保ちつつ、納期を守って残業する生活にも疲れを感じてきている。

それでも転職や副業で収入アップ・資産形成をしていないのは、する暇がないというよりも、続かないからだ。

動画配信やブログの執筆は、やってみたことはあるもののどちらも投稿するまでの過程が面倒になり1ヶ月も続かなかった。

転職についても思い立ったのは良いものの、自分のキャリアを見つめ直すと、転職できるほどキャリアが高くはないと思ってしまい、転職活動をする前に辞めてしまうことがほとんどだった。


要するに俺の性格は熱しやすく冷めやすい、器用貧乏の典型なのだ。


そのため、今の仕事に多少の不満や将来への不安を感じてはいても、給料自体はちゃんと貰えるし、休みもあるのだから過労死する3秒前とかでもない限り職を変えることはないだろう。

本当に自分に合った副業でもない限りは、趣味程度でやって気づいたら辞めているみたいなことを続けていく人生なんだと思う。

だから、世の中で成功している動画配信者やブロガー、インフルエンサーみたいな人たちは、本当に凄いと思うので頭が上がらないどころか逆立ちで脳天をドリル回転させて地面にめり込ませるくらい尊敬している。


「手止めて何考えてんの?」


自分の不甲斐なさを痛感していると、左隣に座る同僚の宇随 京成うずい けいせいが話しかけてきた。


「ああ、ごめん。次の案件の方式設計書の構成を考えてた。」


「方式設計書書くのムズイよなあ。要件定義から落とし込むのも、どのトポロジーにするかとか、どのプロトコル使うかとか色々考えて穴を埋めてかないといけないもんな。」


京成は俺の悲痛な妄想には気づかず、都合のいいように解釈してくれた。


同僚の京成も1ヶ月前に30歳になった同期であり、同じ仕事をする同僚でもある。

性格は明るく人当たりも良いため、仕事仲間からの人望も厚い。

感情表現が豊かなため、嬉しいことがあれば顔を輝かせて喜び、悲しいことがあると人一倍落ち込んだりするところもあるので、一緒にいて退屈しないことも好かれる要因なのかもしれない。


京成とは新入社員の頃からずっと一緒に仕事をしてきたということもあり、仕事の関係者の中では一番仲がいいと思っている。

仕事終わりに飲みに行くこともしばしばあるが、京成が26歳の時に結婚してからは、その頻度も以前よりは少なくなった。

京成の奥さんは、料理が好きで相当な腕前のようだから、しっかりと胃袋をに首輪をされて飲みに行きたくても足が自動で自宅に向かうようになってしまったのかもしれない。


「なあキオ、今夜久しぶりに飲みに行かない?」


「奥さんの料理に胃袋がっちり掴まれてんじゃないのかよ。」


「どんなに頑丈な首輪でもたまには緩くなることもあるってことよ。」


俺が妄想していることを察知したかのような返しに、思わず瞳孔が開いた気がする。


「まあ、今日は早く上がっても大丈夫そうだし、テキトーに店探していくか。」


「よっしゃ!それじゃ仕事頑張りますか。」


「うい。」


そうして俺は方式設計書の思考の海へと潜っていくのだった。

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