赤ちゃんむにむに師

津多 時ロウ

第一話 赤ちゃんむにむに師法成立の巻

「退屈だ……」


 私は齢七十五にして、生きることに飽いていた。

 子供たちは立派に独り立ちし、いつも笑顔だった妻はもういない。

 だからといって孤独というわけでもなく、今までいくつもの事業を手掛けた中で培った人脈から、そこそこの人付き合いもあった。

 家はある。世間から見れば間違いなく豪邸だろう。

 遊戯施設専用の部屋も、ミニシアターのような部屋もある。

 だが、退屈なのだ。

 何もかもがありきたりで、つまらくなってしまった。

 生きようとする気力を失ってしまったのだ。

 かつてあれほど世のため人のためと事業を起こした情熱は、あのエネルギーはどこへ行ってしまったというのか。


『今年も赤ちゃんの出生数が過去最低を更新しました』


 ネットニュースにいつもの見出しが踊るのを見たとき、私は俄かに閃いた。

 私に足りないのはこれだと、天の声がした。

 この大金おおがね持男もちおが死ぬまでに実現してみせると決意した。



 *  *  *



『赤ちゃんむにむに師法が成立しました。この法律は――』


 私はそのニュースに小躍りをした。

 閃いてから何年経っただろうか。

 あっという間過ぎて覚えていない。

 ともかくあれからというもの、人脈と有り余る資金を使って、あらゆる政党や省庁のトップに、この通称・むにむに法の素晴らしさを力説したのだ。

 もちろん、一人では手が足りない。同志を募り、ときにはロビイストを金で雇って政治家へのアピールを絶やさなかった。

 それが、遂に成った。素晴らしいではないか。

 簡単に言ってしまえば、この法律は一定の資格を持つ者が、好きな時に好きな赤ちゃんをむにむにできるというものだ。

 ただ、大きすぎる力には責任が伴う。


 まずは一定の資格、つまり赤ちゃんむにむに師は年に一回の過酷な筆記、口述、実技試験に合格したエリートだけしか名乗れない。その上、受験料は高額だ。一般的な労働者の年収の四分の一ほどはするだろう。

 更に、この資格は継続しない。

 一年経てば勝手に消える。

 だから、赤ちゃんむにむに師を続けたい者は、毎年、心を新たにして試験に挑戦しなければならないのだ。


 それではこれからこの資格の使い方を紹介しよう。

 まだ法律が成立したばかりじゃないかという疑問を持った君には、人生の先輩として教えてあげよう。

 歳をとると、一年、二年なんてあっという間に過ぎるものなのだよ。


 さて、色々あって第一回赤ちゃんむにむに師試験に合格した私は今、散歩を楽しんでいる。そして反対側からは、都合の良い事にベビーカーを押す夫婦が歩いてきているのだ。

 ベビーカーの庇の下にある丸いお目目と目が合った。その頬っぺたは実に福々しい。

 これを運命と呼ばずしてなんと呼ぼう。


「もし、そこの紳士とご婦人」


 初対面の人間にお父さん、お母さんなどと声を掛けてはいけない。見知らぬ人間にそう呼ばれることを嫌う者もいるだろうし、場合によっては、赤ちゃんに結婚を申し込みに来た変態だと思う者もいるだろう。これは試験にも出る大事なポイントだ。


「はい、なんでしょうか」


 紳士がベビーカーとご婦人を隠すように前に出てきた。

 顔は実に柔和だが、見知らぬ者から配偶者と子供を守る心構えたるや素晴らしいものである。


「私、政府公認の赤ちゃんむにむに師でございます。あなた方のかわいいお子さんを見て、是非ともむにむにさせて頂きたいと思い、声をかけた次第です」


 そう言って、私はジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出し、赤ちゃんむにむに師制度専用アプリ――通称むにむにアプリを開いては、三次元バーコードがある資格画面を見せつけた。

 紳士、いや、父親は訝しげにじろじろと見るが、パリッとしたジャケット、ワイシャツ、スラックスで清潔感のある身なりをしている私に死角はない。

 やがて母親が「あ、お願いします」と言って、スマートフォンを見始めた。


 実は、この赤ちゃんむにむに師制度には、二つの狙いがある。

 一つは赤ちゃんとの出会いが減った高齢者の生活に潤いを与えること。

 もう一つは、子育て家庭への金銭的支援だ。それも、非常に高額な受験料を原資としたものと、今、こうして私がしているような直接的な支援の二本立てである。

 なに? 意味が分からない?

 まあ、落ち着き給えよ、君。すぐに分かることなのだから。


 スマートフォンを操作していた母親は、じきに金額が表示された画面を私に見せてこういうのだ。


「あの、これでいかがですか」と。


 私はもちろん二つ返事で「はい」と言い、母親のスマートフォンで私のスマートフォンの三次元バーコードを読み取ってもらう。

 これが、直接支援だ。

 両親が提示した金額を赤ちゃんむにむに師が払うことによって、初めてむにむにすることができるのだ。

 とんでもない金額を要求する親もいるだろうし、無料でむにむにさせろと脅すむにむに師もいるかも知れない。だから、両者の合意が必要で、かつ記録が残る方法でしか支援が出来ない仕組みになっている。


 この仕組みも、国会の審議の際は随分と揉めたものだ。赤ちゃんのむにむにを金で売らせるのか、売春ならぬばいむにではないかとか、赤ちゃんのむにむにはお金持ちだけのものじゃないとか、そのような批判が多く集まった。

 結局のところ、当事者同士の話し合いで決まることだからと、そして記録を全て残せばいいのだと押し切って、成立したものだった。


 さて、話を戻そう。

 無事にご両親が提示した、平均的な会社員の月給の半分ほどの金額を、むにむにアプリを通じて決済した私は、その福々しい御尊顔と向き合っている。

 涎と鼻水のテカリが見えるが、それも味があって良いものだ。

 さあ、むにむにするぞと勇みたいところではあるが、その前に大事なことがある。

 まず、手指の確認。爪が伸びていれば、赤ちゃんのお肌を傷付けてしまう。

 次に、手の消毒。消毒というよりは、水と石鹸で洗うのだが、これはお付きの者を呼び出し、タライを使って路上で済ませる。

 二つとも形式的なものではなく、本質的に大事な儀式だ。

 これを疎かにする人間には、赤ちゃんむにむに師になる資格はないと、教本にもしっかりと書いてある。

 そもそもいくらお金を貰おうとも、無神経に汚い手で我が子を触られるなど、親にしてみればたまったものではない。

 だから私は、ご両親を安心させるためにも、目の前で確認し、洗うのだ。念入りに。


 さて、これで準備は整った。

 待ってろ、天使の頬っぺちゃん!


 むにむに


 うっほー!

 たまらん!


 むにむに


 たまらん!

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