第37話 報告とゾンビ化
JUNさんにわかったことを伝えるため、携帯を操作しやすい姿勢にするべく、机の方に体が向くよう座り直した。
「先日は、細やかかつ力強いお心遣いをいただき、本当にありがとうございました。
その日以来、誠の人間の人格に触れ、また長遠なる熟慮の末、昨今話題になっている、ポジティブな感情によってネガティブな感情を排除するという実験を受けると決め、本日行いました。
ここからは、その結果判明したことを報告してまいります。
まず、空虚な何かの正体は無でした。
以前までは、感情が薄く残っており、ガムシロップの溶けた水を通して見るような不明瞭さがあったのでわかりませんでしたが、今回の実験で取り除かれ、はっきり見られるようになったため、それを知ることができました。
ただそれ以上は、穴の向こうに際限ない無が広がっていることぐらいしかわかりません。
なぜ無が有るのか、その目的や意味が何なのかは全くもって不明です。
次に、その空虚な何かこそが、心の本体でした。
今まで、感情が薄くなっていくにつれて感じる力が高まっていったことから、感情以外に心を司るものがいると思っていました。
空虚な何かが空洞や重りのように見えていた頃は、この考える意識とも言うべき自我がそうなのだと思っていましたが、重りが穴となってから、空けられているものがいると考えざるを得なくなりました。
そこで、感情が全てなくなれば、眼球のような姿をした、心の穴である空虚な何かとその周りを囲むものが残り、それこそが心なのだろうと予想して実験に臨みました。
ところが、いざ目覚めてみると、穴の内側の空間、空虚な何かしかいませんでした。
他に残っているのは肉体と自我意識だけですが、その後、肉体は心の一番外側にあり、出口と入り口を担っている存在だとわかり、自我意識に関しては心で感じていることと相反する結論を出すことが増えたため、心の本体にはふさわしくなく、空虚な何かが本体であると認めざるを得なくなりました。
しかしこちらも、なぜ無であり止まっているようにすら見える存在が心の根源となれるのかはわかりません。
わかったことでよりわからなくなりましたが、もしや私はパンドラの箱を開けてしまったのでしょうか。
箱の中身どころか差出人も書かれてなかったものですから……。
長文になってしまったこと、お詫びします。
ところで、そちらはお変わりありませんでしょうか?」
もし本当にパンドラの箱だったのだとしたら私は、ゾンビ映画で言うところの初めにウイルスに感染してその上それをばら撒く、ゾンビより悪い奴ということになる。
そしてそういう奴は決まって凄惨な割に虚しい死に方をする。
私はせめて死ぬなら、味方を逃がすためにしんがりを務め、主役よりも印象に残る偉大な死に方がいい。
開けた箱がサプライズ用のびっくり箱でありますように。
ドッキリなら、もうネタバラシをしてもいい頃なのではないだろうか。
漫画版の[レ・ミゼラブル]を読みながら待っていると、ほどなくして返信が来た。
「ご無沙汰しております! 生きておられるようでなによりです!
そうでしたか!
長久なる熟慮の末決めたことなら、それは歩むべき道なのでしょう!
空虚な何かの正体は無で、それが心の核だったと……。
確かに、パンドラの箱を開けてしまったのかもしれませんね……。
それでも、箱の中身や差出人どころか、開けるなと書かれていても、いつかは誰かが開けていたでしょうから、遅いか早いかの違いしかないと思います!
とにかく、開けてしまった以上は希望を見つけなければなりません!
引き続きオペレーション『一』を進めてまいりましょう!
私の方も、わかったことがあります!
これからは、空虚な何かを心実と呼ばせてもらいますが、その心実と感情の関係についてです!
以前、心実と感情に主従関係があると伝えたと思うのですが、どうやら、心実の状態によって感情が変化しているみたいです!
例えば喜怒哀楽で言うと、喜は心実が認められている状態で、怒は心実が否定されている状態で、哀は心実が孤立している状態で、楽は心実が小さくなっている状態になります!
あなたは、心実は止まっているようにすら見えるのに、時々刻々と変わる心の根源であることに疑問を抱いているみたいですが、ダンスを踊る人間のように考えるのはどうでしょうか?
振り付けこそ変転極まりないですが、踊る人間はその人のままです!
それと、ダンスで思い出したんですが、感情はそれ自体にサインやコサインの波形のような、かなり正確な周期性がある気がします!
それも心実が軸になっているのかもしれません!
少し話は変わりますが、実験後のあなたの状態はどうですか?」
ゾンビ化確定のようだ。
早く私の側から離れろとの思いで周りを見たが、誰もいなかった。
それよりこの方は、できる限りネガティブを見ないようにしてポジティブだけを求める楽観主義ではなく、全てを受け入れてそれでも前を向く稀有な楽天主義の方だ。
感情移植によって生まれた関係だが、海老で鯛どころか全てを釣り上げていたのかもしれない。
「心実と感情にそんな関係があったのですか。
だとすると、心は万華鏡に似ていますね。
心実の姿によって感情が変わるのは、オブジェクトの配置によって鏡に映った像が変わるのと重ねて見ることができます。
そう考えると私は、鏡に映ったオブジェクトを取り除こうと、必死に表面の銀を剥がしていたことになります。今はただのガラスになってしまったのでしょうか。
私自身の方は、悲観主義に寄りかけていたのが、虚無主義に寄り始めている気がします。
心実という無の世界への入り口が常に開かれているため、既に無の世界と有の世界との板挟みに遭っています。
中間管理職は大変そうです。
総司令の方はお体の調子はいかがですか?」
「万華鏡は良いモデルですね!
そうなると周期性は、朝昼夕夜の日光がそれぞれ入っている感じでしょうか!
もう一度銀を張り直すことは出来ないものなんでしょうか……。
こちらではなかなか心を治す術が見つかっていません……。
私の方は、忙しいですがなんとかやっていますよ!
それよりも、総司令呼びなんて、早速中間管理職が板に付いてるじゃないですか!
あんまり無理しないでくださいね!」
やり取りを終え、そのまま本を最後まで読んでいると、昼食の時間帯になっていた。
日の光が横から差そうが上から差そうが、蓮の池の時間は止まったままだった。
本をリュックにしまい、池を離れた。
木によって道が二つに裂けた場所まで歩き、行きと異なる方の道を進み、神社にありそうな階段を降りて、そのまま家に帰った。
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