第6話 経過観察と不思議な縁
大学が始まり、七週目の日曜日となった。
報酬は振り込まれ、口座残高は潤ったが、感情が潤うことはなかった。
薄々そんな気はしていたが、空洞が埋まることもなかった。
私の中で、お金に目が眩むのは私だけだったようだ。
もう少し庶民的になっても良いのではないでしょうか。
結果的に、悪魔と契約した者の末路みたいな感じになり、少しナーバスになった。
それを原因にして良いのか定かではないが、入学式の前にスーパーのアルバイトを始めたものの全然慣れることができなかった。
もしかすると、少しずつ移植の反動が出始めているのかもしれない。
入学式も色々と煩わしく感じ、出席を辞退した。
行っても大して変わらないだろうと高を括っていたのだが、すぐにそれが過ちであると気付かされた。
授業が始まる時には既に、友達の輪がたくさんできていたのだ。
初めて教室に入ってそれを認識した時、戦う前から勝負は決しているという言葉が脳裏に浮かんだ。
学生生活は戦争だったのだ。
そもそも戦いとすら認識していなかった者を、孫子はどう思うだろうか。
式次第を見ても、誰かの話と合唱ぐらいしかなかったはずなのに。合唱がそれほどまでに盛り上がったのだろうか。
今更後悔しても仕方ないのだが、未だに時々孫子に指を差されて爆笑される夢を見る。
この大学では、私のような戦う前に負けてしまった者のための救済措置がある。
「MOLE」というSNSのアプリだ。これは所属している学生限定で、学籍番号とセットでアカウントが一つ支給される。
このアプリは少し変わっている。
一対一のダイレクトメッセージしかできないのに加え、会話のやり取りが他の誰でも閲覧可能になっているのだ。
そのため、たとえ友達作りに失敗しても、わからないことを調べたり聞いたりして解決できる。
ちなみに、私も現時点で既に何度も命を救われている。
アカウントから個人が特定できないようになっている上に、個人の特定につながる具体的な会話や直接会う約束に使うのも禁じられているので、友達を作るのは困難なのだが、一つだけ不思議な繋がりが生まれた。
それは、私が色々質問をしている時に、誤って移植の件を口走ってしまったために起こった。
移植について興味を持って質問してきた人が現れたのだ。
それは「JUN」さんという方で、この方はどうしても心の中に空虚な何かがあるらしく、このまま社会人になるのが不安で悩んでいるようだった。
個人がわかることは話せないので、可能な範囲で意見交換をしている。
このような相手からの連絡で始まった。
「お忙しいところ突然失礼します!
感情移植のドナーをされたと知り、詳しくお伺いしたくご連絡しました!
移植の影響など、もう少しお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「ご連絡ありがとうございます。感情が減った影響としては、現時点で大きく分けて三つあるように思います。
一つ目は、思いの後ろ盾が減ったことです。
五感から生じた思いだけでなく、考えたこと、更には自分が存在しているという確信に至るまで、よく考えてみると根拠が不十分なわけですが、その穴を感情が埋めているのかもしれません。
そのため、この仮説さえ自信がありません。
二つ目は、ネガティブな感情が見えにくくなり、その代わりに心の痛みとして感じるようになったことです。
精神をゴリラのいる檻だとすると、暴れているゴリラが半透明になり、攻撃を受けた檻の傷の感覚が強くなった、というような感じでしょうか。
三つ目は、以前から感じていた心の中の空洞のような部分をよりはっきり認識するようになったことです。
私は昔から、喜怒哀楽いかなる感情の時でも、心の中に空虚な、空洞のような何かがある感覚を抱いていました。
そこで、移植を決めたきっかけの一つでもあるのですが、初めは感情が減れば空洞も小さくなるのではないかと思っていました。
しかしながら当てが外れてしまい、逆に存在感が増す結果となりました。
ちなみに、いくらか給付金が貰えたのですが、お金でゴリラの機嫌は取れても、色が濃くなるわけでもなく、空洞に至っては風穴の前の紙切れに過ぎないようです。
せめて感情を受け取った方が回復されていれば良いのですが。」
「ご丁寧にありがとうございます!
じつは私も、心の中に、空洞というか、空虚な何かの存在をいつも感じていて、このまま社会人になって生きていくと思うと不安で、どうにかできないものかと悩んでいるところで……。
ところで、ゴリラをキングコングにまで育てることで、空洞を破壊するというような作戦は上手くいくと思いますか?」
「そうでしたか。
私のゴリラは現在半透明なので、中々キングコングまで育つ想像ができないのですが、敵はゴジラより強敵かもしれません。」
「ご意見ありがとうございます、一度挑戦してみます!
ゴリラが元に戻ることを祈っております!」
「お気遣いありがとうございます。
健闘を祈ります。」
今のところ、これ以降の返事はない。
医師が言っていた通り、空洞のような何かは誰しも抱えているのかもしれない。
それは感情によって征服されるものなのだろうか。
そんな光景を想像することができない。
何はともあれ、大学生活のスタートダッシュには失敗してしまった。
感情が戻らずエネルギー不足だったのもあるが、今考えると心の空洞が足手まといになっていたようにも思う。
今まで上手く気持ちを切り替えられなかったのは、奴の仕業だったようだ。
いかなる場面においても、どれだけ自分に鞭を打っても、ついて来られない自分がいた。
だとすれば、自分を引きずって歩くことに疲れ始めたのかもしれない。
敗者なりに、一応は授業で同じグループだった子と知り合いにはなったが、中途半端に面識だけあるのは赤の他人でいるより虚しい。
なんとか表面だけでも友人であるように努めるために、かえって余計に他人であることが露見してしまう。
外堀を少しずつ埋めていくことで、いつかは内側まで辿り着けるだろうか。
明日は化学の授業で当てられる番だ。
「MOLE」を見たら、教授は間違える人間に対して冷酷なようだ。今まで当てられた学生は全員答えられていた。
失敗できないという空気が緊張の風船をパンパンに膨らませていた。
受験のような長期的な緊張なら、自分でも気付かないほど緩やかに蝕まれていくが、短期的な緊張は激しくて変化がわかりやすい。
そのため、体感的にはこういった緊張の方が大きく見える。
それでも、感情があまり元に戻っていないために、飲み込まれずに済んでいるようだ。
いつも無反応な空洞が、逆に緊張から自分を守る最後の砦になっている。
狭い空洞の中で、大学始まって以来の予習をすることにした。
頭に入るかわからないが、付け焼き刃でも丸腰よりはましだろう。
切れない刀で華麗なるホームランをお見舞いしてやろう。
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