第3話 移植による変化その一
入り口を出ると、正面にある西の空の、天と地の境界付近に、雲が接線を作り出していた。
まあ間違いなく雨が降るだろうという、雲の警戒色であった。
入り口の方向と最寄りの駅は同じ方向だったので、自ら曇り空に向かって歩くことになった。
駅までの道を歩いていると、歩道のコンクリートがひび割れて少し隆起している部分を見つけた。
行きでは気付かなかった自分に驚きながら、最後に医師が発した言葉について考えていた。
「また連絡します」と彼は言った。
現代は社交辞令が日常会話にまで流行している。
人間が会話するというよりは、定番のフレーズをお決まりの流れで使うという、ゲームのノンプレイヤーキャラクター同士が、定められたプログラムに従って話していると言った方が適切だ。
別れ際の医師の言葉はその最たるもので、いつもなら自動音声に切り替わったなとすぐにわかるのだが、先ほどのそれは未だに社交辞令だと確信できていない。
約一日関わってみて、社交辞令などあの組織はコスト削減計画で真っ先に切り捨てそうだという印象を抱いたのは確かだが、自分の外側からの影響というよりは内側からの後押しが弱い感じがする。
近頃弱まったものと言えば感情だけである。それならば感情が確信に関わると見ていいだろう。
よく考えてみれば嘘か本当かは本人にしかわからないので、他人が確信するのはおかしな話なのだが、その根拠が感情なのだとしたら滑稽にもほどがあるではないか。
フェザータッチな恥ずかしさで精神的にくすぐったくなった。
ところで、空洞さんの方だが、もちろん社交辞令など口になさらない。
少し歩くと、一段の幅が約二歩分の階段があった。歩行者が歩くにはリズム感が悪く、車椅子の方にはあと少し困難なものだった。バリアフリーのさなぎなのだろう。
こちらも行きで通ったはずなのに初めて見た印象を受けたので、無意識に敬意を表して一歩一歩噛み締めて降りると、少し先に歩行者用の橋が現れた。さすがに橋は気づかずに歩ける距離ではないので、再会である。
一つ違うのは、帰りは妙な不安定感を覚えたことである。感情の中の恐怖や不安とは別のものだ。
こちらは、薄まった感情よりも、頭角を現し始めた空洞によるものだと思う。
感情が想像する未来以外の全てが空洞に入っているような感じがする。
行きは、この橋は渡れると確信していた。
というより、渡れない未来が全く心になかった。
ただ、橋が落ちそうで怖いというような明確な思いではないので、足がすくむようなことはないのだが、人間の存在など塵にも満たないというようなどうしようもなさがあった。
いつもより歩く重みを感じながら渡り切り、さらに歩を進めていくと、飲食店がぽつぽつと現れ始めた。駅が近づいている証拠だ。
駅が近づくに従って歩いている人の数も増えてきた。駅へ向かう人々によって生じる見えない引力に引っ張られ、電車に吸い込まれた。
電車の中では別の力が働く。それは慣性力だ。加速する力と減速する力の反対向きに働く。
発車して加速すると、学校や会社に行きたくない想いから反対向きの力が働く。
目的地が近づき減速し始めると、そのまま止まらないで通り過ぎて欲しいという想いから、今度もその反対向きの力が働く。
私の未来を決めるものは私の意志ではなくタイムリミットだ。
大切な人がゾンビに噛まれて感染しても、楽にさせる決断ができないまま発症し、襲われる中で正当防衛的に息の根を止めることになるタイプというわけだ。
電車で通学していた頃は、同じ電車に乗る見ず知らずの顔見知り達を勝手に仲間だと思い込んで居心地の良さを感じていた。
今は偶然乗り合わせただけだからか、あまりそれを感じることはない。
しかしそれだけではない。
大勢の人間と同じ空間にいて気付いたことだが、居心地の良さどころか、自分が存在しているという感覚が揺らいでいる気がする。
自分はここにいるという確固とした実感に流動性が生まれている。雨が降った後のぬかるんだグラウンドに立っているようだ。
電車の揺れでそうなっているなら良いのだが、残念ながらその振動は心まで揺らすことはできない。
ただ、私を乗り物酔いさせるには十分な揺れだった。
幸い乗り換えする駅までもうすぐだったので、できる限り力を抜いて、電車と一体化することを心掛けた。
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