緋き瞳の被り狼
針機狼
プロローグ 英雄・被り狼
新星歴五十六年 ギルバード帝国のとある街路で少年と少女が慌てた様子で走っている。
少女は先頭を切って何処へ繋がると知れぬ道を進み、少年は少女の手を引かれて走っている。
「は、は、は、お、おねえちゃん。ぼくもう走れないよ」
「泣き言いわないで、今止まればどうなるかくらいアンタでも分かるでしょ」
走り疲れた様子で息を切らしていた少年に向かい姉と呼ばれる少女が怒鳴る。普段この様に声を荒げることのない少女の様子に少年は驚きながらも、黙って後を付いて行くだけだった。
少年と少女には、今や猶予は残されていない。立ち止まればどうなるか、それは逃げ遅れた仲間達が身をもって教えてくれた。自分達もあんな目に遭いたくは無い。善悪の区別もまだ定まらない少年でもそれだけは理解出来ている。
「うっ。ッ――――――」
足の裏に突如痛みが走り小さな悲鳴が漏れるも、目の前を走る少女の耳に届いた様子はなく手を引かれ続ける。だから少年は、もう倒れてしまいたくても走るほかない。
両手両足、そして首に冷たい鉄の枷を嵌められた二人は夜を照らす星の明かりに導かれるように走り続けた。
そのすぐ後ろからは声が聞こえて来る。野太く、そして恐怖を再起させる。そんな声が。
「逃がすな、追え。もし逃がせば今度はお前達が商品だぞ」
熊のような巨体の屈強な男達。そのすぐ後ろで、対して鍛えていないような筋張った体付きで全身を宝石のアクセサリーで着飾った老人が手にしたステッキの先を地面に叩きつけながら、一人声を荒げている。
前を行く屈強な男達はそんな老人の声に怯え、そして一層の圧をまして先を走る少年と少女に迫る。
「――――っひ。あっぐぅぁ」
そして二人と後を追う男達の距離が縮まった時、少女に手を引かれていた少年が思わず見てしまった背後の鬼気迫る存在に萎縮し足がもつれてしまう。
盛大に転んだ少年、そしてそれに伴なって倒れてしまった少女。
少女は直ぐに立ち直り、少年を助け起こそうとする。だが、少年は起きようとはしなかった。
「おねえちゃん。逃げて」
「な、なに言ってるのよ。アンタを置いて行けるわけないじゃない」
「ダメだよおねえちゃん。僕もう動けない。動けないんだ」
少女は少年の声に耳を貸さずに立ち上がらせようとする。だが、そこでようやく気が付く。少年の足はもう限界であることを。
鎖に繋がれてはいないとはいえ足枷があり、その上で裸足。街路は舗装されているとはいえ、靴を履かない素足を傷付けるものなんて幾らでも転がっていた。
少女は先頭を切って走っていた。だから、それらを避けることは難しくは無かった。でも手を引いていた少年のことまでは考慮が出来ていなかった。
血まみれになった少年の足を見て、少女はようやく涙を目に浮かべる。もうダメだ。そう解った瞬間に我慢していた感情が溢れ、涙は止まらない。
頼りにし、そして慕っていた少女の涙を見て、少年も同じように涙を流す。これまで抱えて来た不安と恐怖が堰を切ったように泣き崩れ、すっかりと心が折れかけた二人。そこへ苛立ち気味の男達と老人が遅れてやって来る。
「まったく、手間をかけさせやがって。商品の分際で」
老人が二人の前までやって来ると、躊躇いもなく座り込む少女の腹を手にしたステッキで殴る。
殴られた少女は痛みの箇所を抑えてうずくまる。それでも、せめて少年には手を出させないと言わんばかりに少年を背に立ち上がり、老人をギロリと睨み付ける。
「なんだその目は。商品の分際で。まだ自分の立場ってヤツが分かってないらしいな」
一瞬苛立ちで茹蛸のような顔になった老人はステッキを振り上げたが、突如妙案を思いついたかのようにその表情をにやりと薄気味悪い笑顔に変える。
「そうだな、立場が分からないなら分からせれば良いだけか。お前達、そいつのせいで今回のオークションは台無しだ。おかげでお前達に払う分の給金も無くなった。後は分かるな。いつものようにそいつにお前達に支払われる筈だった給金分の働きをさせてやれ。ああ、勿論そこの倒れているヤツの目の前でな」
その言葉を聞いて、男達の顔が緊張していた面持ちからにやけた顔にゆがむ。それと同時に少女の背筋にさぁっと寒気が起こる。少女は既に知っていた、先に捕まった仲間がどうなったのかを何をされたのかを。
今逃げ出せば自分は助かるかもしれない。でも、それは少年を見殺しにすることも意味していた。
少女は歯を食いしばる。立ち向かう勇気を奮い立たせる為に、逃げる言い訳を嚙み殺す為に、そしてこれから起こることを覚悟して。
拳を握り力の無い手で迫る男達の一人を殴る。だが、殴られた男はびくともしない。当然の反応だった。少女はそれを理解していたそれでも抗わずにはいられなかった。こんな理不尽に反抗せずにいられなかった。
なぜ自分達がこんな目に合わなければいけないんだ。私達はただ、一緒に平穏に暮らしていたかっただけなのに。
怒りと嘆き、悲しみで少女の顔がゆがむ。男達と老人はそれを楽しむように眺め、一人がその腕を掴んだ。他の男達もそれに続くように少女へと手を伸ばす。
少年はその光景を見ていることしか出来ないでいた。
大好きな姉がこれから酷い目に遭おうとしているのに、立ち上がることもままならない少年に出来ることは助けを求めることだけだった。
「だれか、だれでもいいから。だれかおねえちゃん。を助けて」
「無駄だ。まだ分からないのか助けは来ない。この街の衛兵は上客だし、法竜の連中はこんな些事では動かん。冒険者だって金にならないことはしないさ。つまり、お前達が助かることなんてないんだよ」
少年の祈りを嘲笑するように老人が言う。それでも、少年にはそれしか出来ないでいた。
「お願いします。誰か、おねえちゃんを助けて」
「だから、だれもこないと言っているだろうが、お前達見たいな負け犬を助けるヤツなんてこの世に誰もいないんだよ」
老人の声が街路に響く。だが、それを搔き消すように一瞬星の明かりが消えた。
その場にいた誰もその事を気には止めていなかった。倒れ天を仰ぐ少年以外は。
少年は見る。空を掛けるアカイ焔の様な煌めきを。
『この世に誰もいない? 面白い冗談だ。それもと知らないだけか。まぁどっちでも良い。知らなかったと言うなら今ここで覚えてから無に還れ。誰も救わねぇヤツを救う粋な英雄ってヤツをなぁ』
「だ、誰だ」その場にいた誰かがそう叫ぶ。
『誰かと呼ばれたなら、あえて答えてやるのが英雄ってヤツよ。まぁ、聞く前に倒れている自衛もまともに出来ないワンコどもにまでは教えてやる気は無いがな』
声が聞こえると同時に老人以外の男達が全員倒れた。少年は何が起こっているのか理解できずにいたが、直ぐに少女の無事を確かめる。
少女は倒れる男達の中心で腰を抜かしたかの様に座り込んでいた。ボロボロだった服は、既にその形も残ってはなく素肌をさらした状態。だが、それを隠す様にアカイ外衣を纏う人物が老人と少女の間に割って入る。
『神亡きこの世。善も悪もが意味を成さず、強欲な獣だけ我が物顔でのさばる此処で、唯ひたすらに獣を狩る獣。誰もが讃える偉業は成さず、誰もが羨む賛美も無く、獣は唯獣を狩るのみ。されど憑いた異名は被り狼。故にあえて名乗ろうオレこそが英雄・被り狼であると』
「英雄だと。馬鹿々々しい。正義の味方の真似事がしたいだけならなぜ邪魔をする。ワシは貴族でそいつらは奴隷だぞ。手助けすると言うならそいつらではなくワシの方だろうが」
『正義の味方だぁ? たく、せっかく言ったのに聞いて無かったのか。この世に善も悪もが意味を成さないと。オレは正義の味方じゃねぇよ。強欲な獣を狩る獣だ。強欲な獣から守る英雄だ。オレは唯そうしたいからしているだけの被り狼様だ』
被り狼。自らをそう名乗った彼は、言い終わるよりも先に老人の腕を斬る。
コロンと転がった手から落ちたステッキが静かな街路に音を鳴らす。それと同時に老人は自らに起きた出来事をようやく認識し、遅れて反応する。
「ア゛ァァ。腕が、腕がぁぁぁ」
先程までの少年と少女がそうであった様に、老人がみっともない程に取り乱しながら涙を流し叫ぶ。
だが、その様子に興味が無いかの様に被り狼を名乗る彼は、手にした刃を老人の首元に突き付ける。刃先が皮膚をじんわりと裂き血が滲みだすと取り乱していた老人の目が恐怖に変わる。
「の、望みはなんだ。金か、女か、地位か。幾らでも用意してやる。だから命だけは」
「拠点は何処だ」
「えっ、そ、それは」
「拠点は、何処だ」語気を強め、刃を更に押し込めながら彼は問いを続ける。
老人は目の前に居る人物の害獣でも見るような目を見て、背筋を凍らせ、思わず口が滑る。それが、これまで共にあった仲間を売り、今後の商売人としての人生を終わらせると知りながら老人は、追っていた少年と少女を捕らえて居た精確な場所を事細かに伝えた。自らが助かる為に。
それを聞いていた被り狼を名乗る彼は、情熱を宿すような緋い瞳をしながらも、老人に向ける視線は情報を聞き出す度に、宿る熱を捨て去るように冷ややかな視線を送り続け最後まで老人の言葉を聞く。
「これで、知っていることは全部話した。見逃して」
老人が言い終わるよりも先に、彼は頭を掴み首を斬る。まるで、加工する家畜を処すかのように躊躇いは無く一瞬。ほんの一瞬で少年と少女が恐れてい居た存在の終わりを告げる。
「見逃すわけが無いだろうが。自分だけが助かるだなんて勘違い、これまでどんなぬるま湯に浸かっていたのだか」
被り狼。そう名乗るアカイ外衣を纏う人物は、ぼそりと呟きを残した後に切り離したそれを足元に棄て、手にした刃に残る血を己の外衣で拭い納めると、カツカツとこちらへ歩み寄って来た。
そして『よく頑張った』それだけを口にして、彼は事態が呑み込めず呆然としていた少年と少女の二人を抱き寄せ頭をわしゃわしゃと撫でる。
すると少年と少女。二人は自らが助かった事を認識でき、恐怖では無く安堵により涙を流し泣く。
夜が明ける頃、少年と少女の二人は、アカイ外衣の彼に連れられて街はずれの小さな教会に連れられていた。
『ま、そう云う訳で後は頼むよニコラウス』
「まったく、あなたは此処を孤児院にでもしたいのですか。こうも毎晩の様に新しい子を連れて来るとは」
『子供どもの世話は嫌いじゃないんだろ。だったら良いじゃねぇか。それに後もう少しなんだよ。拠点も支援者も必要な情報は手に入ったからな、残るは元締めだけだ。それじゃもう一回行って来るぜ。追加で預けるヤツがいたらまたよろしく頼むわ』
それだけを言い残してアカイ外衣の人物は、狼の様な耳が付いたフードを目深に被り、また街の方へと向かって行った。残された少年と少女はポカンとその後ろ姿を身ているだけしか出来ないでいた。
そして彼の姿が見えない程遠くへと消えた後、少女が「あの人は?」と尋ねる。
「彼も言っていたでしょう。英雄ですよ。でも、あんなものに憧れを抱いてはいけませんよ。でないと文字通り火傷してしまいますので」
そんな二人の後ろで、先程まで追って来ていた男達と同じ様に熊の様な巨体でありながら、一切の恐怖を抱かせない糸目の眼鏡を掛けた神父が含み笑いを浮かべて口にする。
それからしばらくして、神父の元で平穏な暮らしを手に入れた少年と少女の耳にある噂が聞こえて来る。
近くの街を牛耳っていたさる貴族の家が没落したと。何でも裏で国が禁止している筈の奴隷商売を行っていたのがバレたのだとか。切っ掛けは裏帳簿等の売買を裏付ける証拠が匿名で送り付けられたことらしい。
それを皮切りに、その貴族に協力していた人物や組織が追われるように成ったのだとか。
そんな噂と同じくして、もう一つの噂が街で流れる。夜な々々夜の街を駆け回る焔のような瞳を煌めかせるアカイ狼がいたのだと。
少年と少女はその噂を聞いてあの夜に見た人物の姿を思い浮かべる。獣を狩る獣、自分達を救った英雄の姿を。
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