異界潜

澁谷晴

■■1

 銅門どうもん如月きさらぎ駅。壁や天井を這う配管や電線が日増しに本数を増し、先日は見覚えのない路線図が増設された。そのうち、改札やホーム、そこから発信する電車まで増えていても不思議ではない。異界化が進んでいる。それは駅の外でも同様だった。


 ある瞬間、空が真っ赤に染まっていて、驚いて顔を上げるとその毒々しいほどの色は消えている。幻覚なのか、何らかの気象現象なのか不明なその〈昼焼け〉が見られるようになって久しい。今日も、通行人たちが時折この現象を認識してか空を見上げる中、白衣を着た青年が如月駅北口の、コードに絡めとられた人型の像――地元の偉人なのか架空の誰かをかたどった芸術作品なのか今となっては不明――の前にやって来る。ほどなくして、晴れなのにレインコートを着た中学生くらいの少年が現れて近寄って来て話しかける。「先生、まずブツをくれよ」青年は頷き、紙幣と引き換えに小さな品物を手渡す。


 〈先生〉と呼ばれた白衣の青年の本名は折戸結河おりべゆいが。最初はハンドルネームとして〈ドクソン〉と名乗っていた――唯我独尊・・・・――略して〈ドク〉と呼ばれるようになり、それを聞いたリアルの知り合いから〈ドクター〉なのだと解釈されて、〈先生〉と呼ばれるようになった。ある異界干渉作戦MTGの際、「これ先生のですか?」と手渡された白衣を何気なく着たところ、いつしかそれが結河のトレードマークとなった。


 異界潜マグの使う呼び名や用語は、こういう迂遠で不可解な経緯を経て決定づけられる――異界の探索者や単にたむろしている人々や関係者を〈マグ〉と呼ぶ理由も謎で、雑誌マガジンを手にしていることが多いから、とか、鎧谷駅の近くにあったクラブ〈マグノリア〉に由来するとか、マグネシウム錠剤が異界からの悪影響を防ぐために用いられていた、という説など様々だ。彼らは異界のある所はどこでも現れて、くだを巻き、異界産のパーツを仕込んだ怪しげな機器類を弄繰り回す。彼らが希薄なコミュニケーションをとる過程でも、意味不明ないくつかの習慣が介在する。


 結河が少年に売ったのはキャラメルの箱で、中には界域計算機ネストのパーツが入っている。同時にキャラメルも半分残っている〈半キャラ〉と呼ばれる形式で、場合によっては二個だけ残す〈二キャラ〉という場合もある。ジンクスなのか何らかの効果が発生するのか知らないが、これをわざわざ希望して、空箱にパーツを入れて売るよりも色を付けてくれる客が大半だ。


 少年はぼそぼそと、鎧谷の方で起こったという出来事について話し始めた。向こうでは異界に侵食されてビルや高架がいくつも意味不明な機器群に飲み込まれ、人の住めない状態になった地区さえあるらしい。そこに集う異界潜たちも危険極まりない異常者ぞろいで、敵対するグループのメンバーを刺したとか、配信にウィルスが仕込まれてて見ただけで狂うとか、異界内で侵入者を殺して内臓を抜き取って密売してるとか、物騒な評判が流れていた。


 中には呪術を使ってネット回線越しに首を刎ねるとか、怪獣を召喚して一区画丸ごと更地にするとか、現実を書き換えて気に入らない相手が最初からいなかったことにしてしまうとか、荒唐無稽な超能力を使う異界潜もいると囁かれている。結河は、鎧谷が治安が悪くて汚い街なのは事実だが、断片的な情報をもとに誇張されていたり、誰かが悪ふざけで大袈裟に話したりしているのだと解釈している。


 鎧谷で有名な異界潜マグについて、銅門の若者たちは芸能人か未確認生物みたく不明瞭な情報を囁き合う――往田いくたチヅル、ニジュウ、円間えんまさん、ヨミ、七階の人、総長――ネット配信や掲示板の書き込み、口コミなどによってその虚像は拡大していく。異界潜たちにはネットの映像や音声をわざわざビデオテープやカセットテープに移したり、紙に書き写して取引する妙な習慣がある。時にはスクリーンショットよろしく、モニターを使い捨てカメラで撮影して現像するといった手間すらかけ、情報は劣化・変質して伝わっていく。それはある種の呪術的プロセスであり、この変容の過程で異界から新たな情報が紛れ込むのを期待しているのだ。


「そうだ、スミレさんからの依頼で……〈往田チヅル〉を一振り、欲しがってる人がいるってさ。状態はどうでもいいって」


 結河は頷き、用意できるともできないとも答えずに去っていく。少年は空を見る。雨が降りそうな気配はない。そのことを少しばかり残念に思いながら、彼は駅の中に入っていく――雨が降るからレインコートを着るんじゃなく、レインコートを着るから雨が降ればいいのに。逆に・・ね。駅の通路の半分は、無数のコードと積み重なったブラウン管テレビ、その他用途不明の機器類で埋まっている。ざらついた画面に映し出された天気予報が、今日明日と全国的に晴れるでしょう、と告げる。

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