夜が降りてくる

海野しぃる

第1話 真夜中のコインパーキング、それに頭のおかしい若者たち

 深夜、運転席のリクライニングシートをゆっくり倒す。靴を脱いで、ゆっくりと息を吐く。ネクタイを外し、ワイシャツの首のボタンも外す。ペットボトルのぬるい水を飲んで空を見る。

 深夜の駐車場は都市部のど真ん中なのにやけに静かで、ビルとビルの隙間からタイヤがアスファルトを擦る音まで聞こえてきた。


『よる』


 充電されたスマホのチャットアプリには、友人の“むつ”さんからのDMが入っていた。

 友人、と言っても実際に会ったことがないまま十年近く付き合いのあるちょっと特殊な仲なのだが――それがかえって良いのかも知れない。

 きつい仕事の後も、飲み会の後も、婚活のデートの後も、あるいは他のゲーム仲間と遊んだ後も、楽しくても楽しくなくても何気ないことを気兼ねなく話せる友人という奴だ。


「よる」


 スマホの音声入力機能で、アプリには俺が言った通りの文面が打ち込まれる。

 ちなみにこの『よる』というのは挨拶だ。


『今どこだよ』

「車だよ。今日の宿~」

『車中泊? また? 金無い訳じゃないだろ? もう学生じゃないんだから』


 ひどいことを言う。エアコンが良く効いているし、電源もすぐ近くにある。多少寝床が硬いのと、換気しないとすぐに空気が籠もる以外は文句なしの宿だ。まあ今晩に限ればトイレも少し遠いか。


「金はあるけどGWでミチミチになっている上にサービスの悪いホテルに払いたくねえよ。てかこっちのホテル、嫌いなんだよな。ムダに高い。そんな金あったら車のタイヤに使うわ」

『タイヤは去年変えたのに?』

「去年は手元に金が無いのにトラブルで変えなきゃいけなかっただけだから。それで国産の安物かアジアンタイヤの二択……安物使って高速道路で俺が吹っ飛んで死ぬか、アジアンタイヤをのびのび使って一年で殺すか究極の選択を迫られて俺は後者を選んだ。そういう話だ。今お金があるからタイヤとシートを交換する。また俺の車は速くなる」

『そのために車中泊か』

「そうだ。車中泊は良いぞ杏寿郎。大都市と一つになるんだ。アスファルトが昼のうちに溜めた熱気を解き放ち、汚い空を貫いて光る星とネオンを見る。暴走族が警察に追いかけられているのも良い。安全圏から他人が馬鹿やってるのが一番良いよな」

『免許気をつけてね』

「俺はマナーを守って走るゴールド免許保有者だから……」

『世界の歪みの体現者がよ。暴走族居るようなところで寝て大丈夫なんか?』

「ヒヤッとすることもあるけど、俺だってそうそうヘマはしない。それに駐車場ってのは人生の交差点なんだ……車から降りて歩き出す人、歩き終えて車に乗る人、離れる人、出会う人、暴走族……」

『……成る程ね?』

「仕事で遠出した後の道の駅や高速道路のSAで車中泊とか、駅前のビルの屋上で車中泊とか、分かるだろ……人生がいくつもあるんだよ。今日みたいな繁華街から少し離れたマンションの近くでの車中泊っていうのも良い。コンビニが遠いけど安い……」

『異常独身男性化が進んでるな』

「インターネット怪物になったら殺してくれって昔は言ってたけどさ」

『うん』

「もう現実怪物だからこのままでいいかな……という気持ちだ」

『確かに変わったよ、お互いに』

「もう夜が怖くないんだよな。むしろ落ち着くんだ」

『知らない街のコインパーキングでのびのび宿泊している奴が言うと実感あるわ』

「だから後はもうゆっくり寝るだけ。GWももうすぐ終わりだしさ」

『おう、ゆっくり寝るんやで』

「おやすみむつさん」

『おやす~』


 これで本当に一人ぼっちになった。

 少し歩いたところにあるコンビニに行って、トイレと飲み物の補給を済ませよう。

 さっきウーロン茶と一緒に胃袋に放り込んだ激ウマ生レバーと生ハツがまだ腹の中でパンパンだ。

 今度、この街に遊びに来たらお腹ペコペコにして鳥刺し五点盛りセットを頼もう。

 靴を履き、車のドアを開けて、コンビニへと歩き出す。酔っ払いの集団が前から歩いてきた。


「結婚式なんてこんなクソ田舎でやるなよ」

「ほんとそれ、東京とかなら集まりやすいのに」

「ホテル無駄に高いんだよな。患者の相手でクソ忙しい上に給料なんて全部税金で持ってかれるのに洒落にならんわ」


 結婚式帰りの酔っ払いたちとすれ違う。

 身なりは良い。この辺りは近くに医師会の建物もあるし、豪華な造りの古い民家も多いから、この人たちも普段は処方箋とか書いているのかもしれない。

 正直なところ俺は安心していた。

 車中泊において大事なのは治安の良さだ。

 酔っ払いたちの隣をすり抜けて、コンビニへ向かいながら、俺は安堵のため息をついた。

 トイレを済ませて、ガムとお茶を買おう。

 明日は早起きして、早朝営業の銭湯に入り、フェリーに乗って家に帰る。GW最後の一日は寝て過ごすと決めていた。

 ゴキゲンな連休だ。

 夜も笑っているようだった。


     *


 ドンッ、という音で目が覚めた。腕時計を見る。運転席でまぶたを閉じてから一時間しか経ってない。

 来たか……コインパーキングホテルの宿敵“真夜中の珍客”。十二時を過ぎてから突如現れて大きな荷物を運び出したり大声で喧嘩したりし始める最悪の輩だ。たまにガチの犯罪に関わっている可能性もあるから、こういう時には鍵を閉めて車の中で気配を殺すに限る。酔っ払いが寝転がっていたところでこういう時間に動き回る連中が一々ちょっかいをかけてくることはないから、大人しくしていれば無事に帰れるのだ。


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 それにしてもやかましい。

 ドアの開け閉めなんて静かに一度で終わらせろ。

 ご近所の皆様の迷惑も省みることができないのならば深夜の駐車場なんて使わないで欲しい。

 どこの馬鹿がこんなことを?


 ギャハハハハハハハ


 若い男女の声だ。

 こんな時間に?

 なんで?


 ドドドンッ ドドドンッ ドドドドドドンッ


 なんで?

 なんでドアの開け閉めをこんなに繰り返してるの?


「ヤバいわ、むつさん、深夜の駐車場にヤバいの居る。住所は――」


 むつさんとのチャットに返事はない。

 とはいえ、万が一の時は警察に連絡とかしてくれるだろうからこうやって事態の報告をしておいて損はない。今の俺の所在地まで伝えたのだ。

 リクライニングで限界まで倒していたシートからそっと身体を起こして、ドアの開閉音を繰り返す輩の方を見た。


「駐車場……じゃないな。コインパーキングの隣だ。マンションの駐車場に若者がたむろしてる? そういう感じだ。さっきからずっと車の扉を開け閉めする音が聞こえている」


 ここからだとコインパーキングとマンションの間に聳える塀が邪魔でよく見えない。ただ、塀の隙間や上の端っこから途切れ途切れに見えるのだが、やっぱり二十代前半くらいの男女が白いワンボックスカーを取り囲んでいる。

 どいつもこいつも意味のある言葉を喋っていない。

 笑っている。

 あはは、ぎゃはは、きゃはは、がはは、なんでもいい、笑っている。

 鳴き声のようなものをあげている者も居る。

 だが誰一人として、日本語は喋っていない。

 どんな馬鹿な奴でも、酔っぱらいでも、興奮していても、泣いていても、日本語は喋る筈なのだ。支離滅裂になってしまった日本語を。

 めちゃくちゃな事言われた時に、たとえで「日本語じゃない」ということはあるが、そういう喩えではない。土地の訛でもない。言語じゃないのだ。

 言語未満の鳴き声と白いワンボックスカーのドアの開け閉めでコミュニケーションを続ける謎の集団が俺の寝泊まりする深夜のコインパーキングの隣に居る。警察が来る様子はない。マンションの駐車場なんて場所であんなことを続けているのに、警察が来ない。この程度の騒音、街の中でならありふれている? だからか? 酔っ払いも車の量も多い場所だから、誰も気にしない? だとしたっておかしいだろ。誰も気づかないのか? 気づかないのか、音だけ取り出せば日常だ。


「ヤバい、どうしよう、むつさん。ヤバいのが出た。とりあえず逃げるわ。様子は続けて報告する」


 車のドアを静かに開ける。

 コインパーキングの決済は案外静かだ。

 当たり前だ。町中にあるのだからクレームが来たら困る。

 だから俺は車からそっと抜け出してコインパーキングの機械に駐車場の番号と300円を入れて精算のボタンを押せば良い。

 コインパーキングは塀に囲まれいる。大丈夫、まだ大丈夫。


 アハハハハッハハハハハッハハハハハハハ

 ドンッ ドンッ ドンッ

 ドドドドドンッ ドドドドドンッ


 俺は車からそっと抜け出した。

 騒音はまだ続いている。

 運転席、助手席、後部座席、バックドア、ほぼ同時に閉まる音がまだ隣のマンションの駐車場から聞こえる。

 つまり、大丈夫だ。まだ大丈夫。俺の存在は気づかれていない。

 マンションの駐車場を占拠する異常者様御一行もまさか隣のコインパーキングをホテルだと思いこんで寝泊まりしている奴が居るなんて気づいてはいない。大丈夫。

 靴は寝る前に脱いだ。靴下だけで静かに歩く。駐車場に落ちている小石を踏まないように、静かに、静かに。


 アハハハハッハハハハハッハハハハハハハ

 ドンッ ドンッ ドンッ

 ドドドドドンッ ドドドドドンッ


『精算を開始します。こちらの番号でよろしいでしょうか。300円になります』


 思った通り、コインパーキングの機械は最低限の音声で300円を要求する。

 いいぞ。すでに財布から抜き取っていた300円をすぐさま放り込んでやった。


『ありがとうございました』


 静かな音声だ。今どきのコインパーキングはしっかりしている。この街のホテルの受付よりも顧客サービスに対して真摯に取り組んでいるんじゃないだろうか。

 まだ隣のマンションでは異常者たちが乱痴気騒ぎを続けている。まだ大丈夫。まだ大丈夫。


「むつ、俺はここから逃げる。朝起きた時、俺が死んでそうだったら連絡頼んだ」


 チャットの音声入力を終了させ、俺は周囲の様子をうかがった。

 まだ笑ってる。白いワンボックスカーのバックドアがパカパカとよく喋る口みたいに上下したままだ。

 リクライニングを操作して、運転に最適のポジションへと調整をかける、これでいい。加速を受け止める為の真っ直ぐなシート。経年劣化でオンボロだが、誰よりもアクセルを踏み込む為の“形”になる。なった。

 ハンドルを握る。経年劣化でズタボロのハンドルだが、何より手に馴染む。汗はかいていないからグローブは不要だ。それよりも急ごう。

 靴は履かなくて良い。急いでいるし、なによりもペダルの感覚をできるだけ生で感じたい。ブレーキを強く踏み込んで、エンジンスイッチを入れた。


 刹那、笑い声が消えた。


「おいっ」


 塀の向こうで、若者の一人が日本語を喋った。

 日本語だ。あいつは俺と同じ言葉を話している。俺の存在を意識している。俺に向けて声をかけている。


「誰だ!」


 これは寝不足で見ている悪い夢なんかじゃない。愛車に搭載された水平対向エンジンは淀み無く爆音を立て、特有のくぐもった音を真夜中に向けて深く吐き出す。

 精算を終えたコインパーキングは俺達のチェックアウトを邪魔しない。

 並ぶ車たちの隙間に通じる狭い通路を、4.7mの車体がすり抜けたかのように走り始めた。リニアトロニックのギアが一瞬で上昇したエンジンの回転数を淀み無く推進力に変換し、駐車場はおろか一般道でも出てはならない速度を愛車に与えた。

 ゲートの無いコインパーキングだったのが幸いした。ハンドルを切り、車の鼻先を進行方向に対して傾けた。アジアンタイヤの生命がまた少し縮む音。アスファルトの上をすべりながら、駐車場から路地に飛び出す愛車。愛車の後輪が中央線を踏みそうになっているのは、見なくたって分かっている。すでに両腕はハンドルを逆方向に切っており、車体の重量バランスは後輪の悲鳴が俺の耳に届く頃には調整し終わっていた。

 アクセルを更に深く、深く、深く踏む。


「おいっ! おいィ!」


 遅い。背後で声が聞こえた。50mくらい背後だ。バックミラーから声の方を見る。一瞬バックミラーを覗いた間に彼我の距離は100mくらいまで離れていた。

 まだ交通量の多い大きめの道路につながる交差点へ差し掛かった。

 今度はブレーキを早めにかけて減速衝撃を殺しながらウインカーを出す。

 またバックミラーを見る。90mくらい後方を男が二人走っていて、120mくらい後方のマンションの駐車場の出入り口から若者たちがこっちを見ている。きっと間抜け面だ。

 とにかくナンバープレートを見られていないことを祈りながら、俺は左折した。

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