第37話
「まあ、枢機卿の娘が名乗り出たから他の者がおおっぴらに動くのも対立を深めると思って様子見をしていたというところだな。本当にそうなら、派閥の均衡も含め結婚を調整し直すことも考慮にあったろうが……何よりもロビンが好いているのは夫人であると証明されたのだし」
揶揄うような王弟のその言葉に、アナは頬が熱くなる。
だが、ロビンの言葉を思い出して嬉しくなり、彼女は控えめに王弟の言葉に頷いて見せた。
「これ以上ロビンに迷惑はかからんだろう。母上も詫びに言及していたから、今後とんでもないことでもない限り、マグダレア男爵夫妻の味方になってくれるだろうから今は安心しておくといい。無論、俺もロビンの味方だからな、安心してくれ」
「……ありがとうございます」
「そういえば二人は家紋も新たに作ったとか?」
その言葉に顔をロビンがそっとハンカチを一枚取り出し、差し出した。
丁寧な刺繍の施されたそれを受け取って、王弟はそっと指でなぞる。
そこには愛らしい鳥が羽ばたく意匠が縫われているではないか。
「ふむ……なるほど、ニンフをモチーフにしたのかな?」
「さすがの慧眼、おみそれいたしました」
「まあ、なんですの? ニンフって」
「ジュディス嬢が知らないのも無理はない、ニンフというのはあくまで人々がそう呼んでいるだけでな。……先の暴動の地で親しまれる、名もなき小鳥のことだ」
ロビンとアナも、いろいろと考えたのだ。
国を守る役割を担うため、そういった意匠が良いのではないか。
あるいは縁戚となったのだから、ベイア子爵家の紋に似せるのも良いかもしれない。
しかし、今回二人が選んだのはこの〝名もなき鳥〟だ。
実際には学名もあるし、よくいる鳥といえばそうである。
かの暴動が起きた地では暴君と化した領主のせいで人と土地が痩せるまでは、春の季節に、秋の実りに、この〝名もなき鳥〟――ニンフと呼ばれた小鳥が彼らと共にあったのだ。
寄り添う存在、そんな領主になりたい。
そしてあの地のことを忘れたくないというロビンの願いを込めて、二人で決めたのだ。
「といっても、俺のとりとめもない話を聞き、鳥のことやあの地のことを理解して結びつけてくれたのは妻なんですが……」
「以前、学園にいた頃に読んだ本の中にあった記述をたまたま覚えていただけですわ」
そう微笑んで事もなげに言うアナに、王弟は目を丸くする。
確かに、あの暴動が起きた土地の情報も王立学園ならばあるだろう。
学生たちが経営を学ぶのに、各地の情報を記した記録書があれば役に立つからだ。
しかし必要に応じて見つけ出して役立てるには、それ相応に能力と根気がなければできない。
それは学園の蔵書量が、とんでもない量だからだ。
この国
領地の運営についての詳細こそないものの、何が特産で土地がどのような土壌で、環境は、どのように推移しこれまでどのような厄災に見舞われ、どのような対処をしたのか。
それ以外にもその土地柄でどのような生き物がいるのか、土着信仰、そのほか……まあ調べれば調べるほどに細かい内容があるのだ。
(本当に、
ちらりと視線を向けられたジュディスが、にこりと微笑んだ。
そう、アナは読書クラブだった。
それ以外にも妙な噂に辟易した彼女は授業以外の多くの時間を図書館で過ごしたのだ。
元より読書家であり、努力家であったアナ・ベイアは控えめでそれこそ目立たない存在だったが――学内の順位は常に数百人のうち十位圏内におり、教師たちの覚えもめでたい才女で、そして貴族なのである。
「……本当にモーリスのやつはデカい魚を逃がしたものだなあ……」
ロビンに返されたハンカチの刺繍は、アナが施したものでまず間違いないだろうと王弟は思う。
なぜなら大事に大事に、ロビンが抱え込むからだ。
貴族令嬢の嗜みとして夫や婚約者に贈る品へ刺繍を施すのは作法の一つ。
ましてや、騎士のように前線に立つ者たちにとってはその刺繍一つで無事を祈る家族がいてくれると心を強く持てることもあることを彼は知っている。
(貴族家の出身で、実家が金持ち、そして刺繍の腕が確かで知恵があるのにひけらかさない。……正直、ロビンには勿体ない人材だったな)
自分も妻帯していなければ、求めていたかもしれない。
そう王弟は心の中でだけ呟いて、ロビンに向かって「新妻を大事にしてやれよ」と朗らかに笑ってみせるのだった。
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