第二章:舞い上げろ

第十二話:小山が愛した数式

 ――ジャンボジェット

 正式名称をボーイング747というそれは、20世紀の空の遺産であり、夢の飛行機だった。世界をより小さく、より狭くした旅客機と言える。コックピットの方が、ちょうどアヒルの頭のように盛り上がっており、その巨大さと愛くるしい見た目からジャンボジェットと呼ばれ、日本で、いや世界中で親しまれていた。


 だが、持ち前の燃費の悪さに石油価格の高騰が重なり、小規模で複数回輸送する方が安上がりである。という見立てからボーイング777などの、近年の燃費の良い航空機にとってかわられつつある。


 だが、その飛行機は僕たちに夢を見せるかもしれない――もう一度あの頃のように


‐ボーイング747は宇宙飛行の夢を見るか?‐

 

「もう2時か....」


 僕は三日月が描かれている、時計を見つめる。コンピュータ制御で時間を刻む秒針は、そろそろ深夜二時へと僕をいざなおうとしていた。


「ふぅ....」


 僕はプリントや教科書が、雑多に置かれた部屋を見渡して一息つく。しかし、なんでこんな夜中に、ナビエストークス方程式なんて使わなきゃならんのだ....

 現在、僕がやっているのは簡単に言えば、飛行機部分の設計。つまりは、”栗原プラン”で言うところの、母艦となる飛行機から分離して、揚力によって超高空に行く部分だ。


『飛行機はなぜ飛ぶのかよくわかっていない』


 という言説を聞いたことはあるだろうか? これは半分正解で半分間違いである。なぜ半々かと言えば、工学的には解明されていて、数学物理的には解明されていないためだ。


 ではまず、工学的に飛ぶ原理を言うと、クッタ・ジュコーフスキーの定理という揚力、つまりは空を飛ぶための定理が存在する。この定理におけるいくつかの条件を満たすと、翼には循環流が発生する。ここにベルヌーイの定理という運動、位置、圧力のエネルギーの和は一定とする式を当てはめると、翼の上下で圧力に違いが生まれ、揚力が発生し空を飛べるという具合だ。


 以上、簡潔に言うと、翼の上下で圧力の差が産まれるため、空を飛べるのだ。

 だが、これを数学の世界に持ってくると、未解決問題を解く羽目になる。それこそが以下の命題。


『3次元空間と(1次元の)時間の中で、初期速度を与えると、ナビエ–ストークス方程式の解となる速度ベクトル場と圧力のスカラー場が存在して、双方とも滑らかで大域的に定義されるか(Wikipediaより引用)』


 ミレニアム懸賞問題の一つであり、これが解けたら1億円ほど賞金がもらえる。

 しかし、パソコンという1と0の世界で表現するには、この問題を解かなければならない。


 解くかって?

 馬鹿なことを言っちゃあいけない。

 こういうのには必ず裏道があるのだ。


 説明するとくそ長いうえに、専門用語のジャングルになるため割愛する。

 簡潔に言えば、”こういうものだ”とありとあらゆる仮定をして、強引に解を導き出すというA型が見れば発狂する方法だ。


「めんどくせえ....」


 僕は天井を見て力を抜いて体の緊張をほぐす。そりゃそうだ、もう2週間も缶詰なんだ。方程式やら、定理やらを解いて、パソコンで宇宙ロケットの設計をしている。3Dモデルを作り、それを簡易な数学モデルで演算して、数十分待って答えを得る。ただ、それだけの繰り返し。


 ロケットエンジンみたいな馬鹿推力があれば、簡単に宇宙に行けるのに....


「やっぱ、箭内ってバカだと思うな....」


 結局この日は午前4時までかかって、いくつかの候補に絞り込むことができた。だが、やはり僕の作った数学モデルの完全版はあそこに行かなきゃいけない....



「ひっさしぶりやなー!」

「やっぱこの辺って都会よね!」

「あんまりはしゃぐな」


 奥内を除く僕ら三人は、岡山大学津島キャンパスまで足を運んでいた。なぜ奥内が来なかったかと言えば、彼女の姉がここの文学部に通っており、バッタリ会うことを危惧したためである。


 せっかくだし、と何とか一緒に来るよう説得したが、断固拒否されたため三人で来ることになった。


「んで、そのお前の父親の知り合いってのはどんな人なんだ?」

「工学部の偉い教授らしいぜ」

「へー」


 僕は、この数日前に意外な事実を知らされていた。

 彼の父は、この大学の工学部博士課程を卒業しているらしく、当時の専門は分子工学だったそうだ。友人が流体力学系の専門で、そのまま大学に残り、現在はナビエストークス方程式の一般解を全力で探しているらしい。そして、あのボーイング747のラジコンを設計した人物でもある。


 僕から言わせてみれば、かなりの変人。というより変態だった。


「メールでちゃんと送ったのか?」


 僕は箭内の方へ視線をやる。


「もちろん! 確かに送ったわ。ほら、見て!」


 僕の方にメールボックスの『送信済みボックス』を見せる箭内。相変わらず無邪気なもんだ。

 今歩いているこの道は、岡山大学へと続いている長い一本道である。幅広い車道には、車がひっきりなしに往来し、両サイドには学生向けのお店が、ずらりと並んでいる。


 『岡山大学生以外入店不可』と貼り紙がされた潰れたカフェの残骸、本格インドカレーが食べられるインド人のお店などなど、中にはコンビニエンスストアなどの普通のお店もある。


「すっげえ気になってることがあったんだが....」


 栗原が僕の方に向き直って言った。


「どうしたんだ? 突然真面目になって」

「お前、なんで、そんな難しい計算ができるんだ?」

「何をいまさら....」


 僕はため息をつく。だが、箭内も突っ込んできた。


「そういやあそうよね、とても普段のあんたからは想像できないわ」


 お前もか....


「....まあ、趣味だしな」

「趣味?」


 栗原が首をかしげる。


「昔から、数学とか物理の難しい問題を解くのが趣味だったんだ。いい頭の体操になるしな」

「なんで隠してたの? そんなの聞いたこともないけど....」


 箭内が聞いてくる。


「紆余曲折あったんだよ....」


 僕は口ごもる。言ったらこの二人のことだから厄介なことになる。特に箭内には言いたくない。こいつの哲学トークを聞くのはごめんだ。


「紆余曲折って何よ? 水臭いわね!」


 誰にでも知られたくないコトはある。多分、それは箭内にも....

 箭内はなおも食い下がる。だが、救いの女神は僕のもとに舞い降りていたようだった。


「....ほら! 着いたぞ! あのカフェ。あそこが待ち合わせ場所だ」

「....次は理由を言ってもらうからね!」


 箭内は、敗戦の将のように吐き捨てる。

 門を抜けてすぐの場所に、ガラス張りで中が丸見えのカフェが建っていた。そして幸いなことに、中にはそれらしき人も見え、隣にもう一人座っている。入口の前にある黒板をパッと見るとメニューと値段が書かれている。


 え、結構高い。


 箭内は、そんな黒板には目もくれず、先陣を切ってドアを開けた。

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