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夕星 希

第1話

「南向きじゃないんですか?」

方角、それは竹嶋笑里(えみり)には切実なことだった。


不動産屋は間取り図をくるくる回して明かりがともる部屋中を相対させた。

「…ここはたしか南西向き、いや西向きだったかなァ。いやいやこの薄暗い様子だと北西向き、いや北向きかも知れませんねェ…」鼻が頬にうもれている小太りの男は風水師のような面持ちで裏鬼門に浮かぶ月影をちらと見た。


ここのアパートは上から見ればクロス十字の形をしており、当たり前だが南、東、西、北と部屋がうまっていく。学生の自分としては日当たりは関係ないといえばそうなのだが、日中、電気をつけなければならないような部屋だけは避けたいと、事前にいったはずだ。(ひと月半のネカフェぐらしで鬱になりそうなのが理由でもある)


ここ数年のうちに三度も引っ越しをしたのでいよいよ貯金も目ぼしくなってきた。生活のことを考えると光熱費用だけでも浮かせたい、と笑里は足もとを見られてもいいような発言をした。


不動産屋は携帯でしぶしぶ大家に連絡を取り、この部屋の方角がどの向きにあたるのかを聞いた。「ええ、はい、そうなんです。101号室です。ええ、そうです。わかりました。ではまた明日にでも。ではよろしくお願いします」


背の高い笑里は何度も鴨井に頭をぶつけながら方角を確認するように部屋中を見歩く。垣根の奥の風のない感じからすると、北向きかもしれないし、窓に桜の花びらが張り付いているのを見ると南向きかも知れない、とあれこれ想像しながら、花冷えのする夜、窓がひとつの6畳間を歩くのはなんとも心細い。


「日が暮れてしばらくたちますから、また明日にでも来てみてくださいませんかねェ。大家さんが直接説明にお伺いしたいと」不動産屋の持つコンビニの袋には弁当が入っているらしく匂いが部屋に充満した。笑里はマスクをしても漂う黴と油のにおいに辟易し、すぐさま「わかりました」と了解した。


―――賃料・共益費込み三万円。ユニットだが風呂とトイレは部屋の中にちんまりしてある…


ここは東京だ。故郷からの仕送りなしで奨学金とバイトで生計を立てている自分にとっては、この部屋は奇跡に近い存在ではないか。方角がどうのといっている場合ではない。ひとつき半にもなるネカフェ暮らしを終わりにしたい。足をのばして眠れることを考えたら、たぶん、この部屋に決めるだろう。いや、決めなければならない。


ずり落ちた眼鏡を掛けなおすと、笑里はそう心に決めた。


酔っぱらった客のあいだを縫うようにしてたどり着いたドヤ街の端にあるネカフェ。深夜にもかかわらず、隣の住人は起きているようで夜が更けるまで機械音が鳴りやまなかった。携帯と連動させているのだろうか。バイブ音が寝不足の頭にはキツイ。鴨井にぶつけた頭を冷やしながら、これからのことを考えるとなかなか寝付けなかった。上京して後悔したことは二度や三度目ではない。


笑里のかよう大学の学生は裕福な帰国子女が多い。高級ブランド品に身を固めた18歳そこそこの彼女たちは、親が看過しない超過激なブラックジョークをとばしていたし、ゲイのマイク(下がマイクのように長いと噂の)やブット(尻の扱いが軽妙)がやたら身をくねくねさせて途方もない早口で卑猥なことをしゃべりまくっている。教官の梅木が「youー gotー killed…」とつぶやいたのを笑里は聞き漏らさなかった。これが日本でも東大につぐ学業の優秀な大学の現状なのだ。三浪しても入りたかった大学がこれだとは。笑理は入学して早や後悔をしている。


4月×日

今日からキャバクラのバイトだ。演劇研究会の新歓コンパと重なったが初出勤だから、休むわけにはいかない。4限後ネカフェに戻り、一張羅のミニのスカートスーツを着てパンプスを履いて美容院へ向かう。カリスマ美容師らしき男が「お仕事はなにをされていらっしゃるんですか?」と聞いてきた。さすがに学生兼キャバクラ嬢ですとはいえず、適当にアパレル関係ですと答えておいた。7800円也。その後銀座線に乗った。黴くさい車内には、自分のような闇がつまったような女たちが等間隔で座っている。目の前のガラス窓には案山子のような生気のない自分の姿。胸は扁平、丸見がないごつごつとした体のライン。膝上15センチのミニスカートからのぞく枯れ枝のような太ももは、客らの情欲を掻きたてるどころか一気に失せさせるだろうと想像した。女性本来の柔らかさ、しなやかさという姿かたちはそこにはなく、これではクビは時間の問題だ。相手をのせておだてて、上機嫌にさせなければ。演技をしよう。本心を隠した見せかけの芝居を!


デイパックから演劇研究会でつかう小道具をふたつみっつ出してみた。営業1時間前にはキャバクラ『マタタビ』の店の裏口にたどり着き、ディオールをまとった全身がゴールドの店長、野伊朝子の前に笑里は挨拶に行った。


「よろしくお願いします!」


野伊朝子は、30代後半で肉付きが良く、気の強そうな顔に真っ赤なルージュを塗った口角はサバンナで獲物を食したあとの獣にも見えた。腕組をして笑里を上から下まで査定するように見た。


「なあに?その化粧と髪型。ダメダメ。帰って出直して頂戴」と笑里を見るなり一蹴した。


「わかっていると思うけど、ここに来る客は一流企業の社長や芸能人が殆どなの。そのお釜を被ったようなウエーブなしの髪。カラーもしていないじゃないの。それにあんたのその化粧。ほぼスッピン。家のかーちゃんのお酌のほうが良いわ帰るわってなるわよ。あはははは」

野伊朝子はけたたましく笑った。


「そういわれると思いました。少々おまちくださいませ!」

笑里はすぐさまタントミールの姿に自分を変え、再び店長の前に登場した。そこには全身がスパッツで妖艶な猫の姿があった。胸と尻にはパッドを何枚も重ねていた。


野伊朝子はキツネにつままれたような顔をして、笑里を見た。


「お店が『マタタビ』という名前なので、こんな格好も受けるんじゃないかなって♪」


「あんた、さっきとおんなじ娘?」


笑里は必死になりながら、朝子にへつらう。


「ま、そこまでやるんなら、あんたを社長に引き合わせてあげてもいいわ」朝子はいちいち恩をきせるようないいかたをした。どうやら『マタタビ』のキャバ嬢の第一面接はクリアしたようだ。


朝子は「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた札が下がったビルの裏口の引き戸を開けた。「土足厳禁」と書かれた紙が壁に貼られている。ヒールを持ち、廊下の突き当りの従業員控室に進む。


キャバクラ『マタタビ』の営業が始まるのは20時。当然のことながら控室は誰ひとりおらず閑散としていた。窓のない8畳ほどの部屋が二部屋。壁いっぱいに掛けられたキャバ嬢たちのドレスは、支払いの済んでいない代償として持ち帰りは許されず、ローンが終わるまでここに預けられている。ベビーパウダーのような甘っくるしい匂いと、丸テーブルの上の丼の残り汁の臭いが現実を感じさせた。


朝子は笑里をスツールに座るよううながす。笑里は面接にのぞむ新卒の書くような履歴書をバッグから取り出して緊張の面持ちで待っていた。


30分ほどして社長と思われる40代なかばの細面の女がパンタロン・スーツに身をつつんで入ってきた。笑里と同じくらいの背丈がある。身のこなしが優雅で品性が感じられる。つば広のストローハットの奥でささやくように話す。社長は本村一露子(ひろこ)といった。


笑里は本村社長に丁重に挨拶をした。履歴書を社長に渡そうとした。が、社長は「結構よ」と辞退した。


「笑里さんっていったわね。まったくの素人のあなたにはわからない世界ですけれど……」と一露子は前置きをした。


「この界隈には、私たちのことを業界の『軽業師』なんて揶揄するような人間がいます。お客様に色目を使って、ある程度媚びを売ればお金になる、と間違った思想をお持ちの方たちが。でも、本当にそれだけでお客様がこのお店にいらっしゃると思うかしら?銀座界隈でナンバーワン・ナンバーツー・ナンバースリーと言われるお嬢さん方は、人間の深層心理ともいえる深い知識・経験・ノウハウ・見識を持っていらっしゃる。さて、これらのことを踏まえて、お客様たちが私たちに求めているものって何だと思われる?」

笑里はことばに詰まった。一露子の二次面接は、自分の浅はかさを露呈させうるものであった。街の喧騒が戻ってくる時間になった。

 

「こんな簡単な答えに窮するようでは、残念だけど……」と一露子が席を立とうとしたときだった。笑理が訴えた。


「……私は子どもの頃から地方の舞台に立っていました。あるとき著名な演出家のワークショップがあり、そこで本当の演劇というものを知りました。「東京へ」という思いはなんとか叶いました。でも現実は厳しくて…今の私は住む場所はおろか、生活費も底をついてしまって……三浪して入った大学なのに、学費が払えていないので、明日にでも除籍になるかも知れません。……」笑里は二人の前で恥を忍んで切々と訴えた。


「それでは全然答えになっていませんわね」


「お客様が私たちに求めているもの…それはリアリティな日常から、幻想的な非日常へと変化することが出来るこのキャバクラ『マタタビ』でのひとときです。私ならそんな時間を提供できる自信があります」


一露子は身に着けていた腕時計を外して、テーブルの上に置いた。


「あなた、この時計がおいくらかお分かりかしら?自慢しているわけではなくて、あなたの価値判断が知りたいだけよ」


ダイヤモンドが数百もちりばめられている時計を見た野伊朝子は、ゴクリと唾を呑んだ。東京のすすけた夕日にも麗しく時を刻んでいる。


「……申し訳ございません。よくわかりません」


「経営者や実業家であればなおのこと、この時計は最低でも一億円と分かる。あなたは『お金』に対して悪いイメージを抱いていらっしゃるから、この時計の値段が分からない。でもその『お金』こそが、今のあなたの人生を悩ませているものではなくて?そんな方に接客をされたいなどど思う殿方など、いらっしゃるかしら…?」


「悪く思わないで頂戴ね。あくまで最終決定権は社長だから」

笑理はけんもほろろに帰された。


再び来た道を戻ると、都内では逆パワースポットで有名な通称『悲しが丘』といわれる場所に出た。怨恨の残る人間の名前を書いた焼物を思い切り割り砕いたものが、丘を形づくっている。SNSにあげられるたびに評判となり観光客ふくめ全国各地からの巡礼者、観光客が絶えない。


携帯カメラのフラッシュの閃光だろうか。蛍のようにあちこちに飛交ってる。ピースサインで笑顔の女性やカップルが多い。『悲しが丘』というより、それを取り囲んで喜ぶ客たちが多い。悲しく暗い感じはまったくしない。笑里も「悲しが丘」をバックに、タントミールの姿でSNSにあげてみた。すぐにイイねがついた。


笑里がネカフェに戻ったのは夜の10時を過ぎていた。携帯には着信が残されていた。大学の事務部と不動産屋からだ。どれもこれも待ったなしの金銭的案件だ。


―――あなたは『お金』に対して悪いイメージを持っていらっしゃる。


笑里は一露子の言葉を再び思い出していた。

ふるさとの両親の顔が浮かぶ。会社経営に失敗して破産した父は蒸発したまま行方知れずだ。債権者のために自宅を競売したと銀行から連絡をもらった母は病に倒れた。小学生と中学生の妹二人は親戚の家に預けられている。そんな実家の状況に回りからは「なぜ働かない?」と説教を受けた。父と同じように逃亡したと思われても仕方がない。


―――お金さえあれば……


来栖アパートオーナーの蓮杖(れんじょう)は、

笑里が内見した101号室について不動産屋の木下と連絡をとった。


「方角?北向きだけど適当にこたえておK!」


「いいんすかね。後からクレーム入っても」


「賠償案件になったって弁護士費用を考えたら相手も訴訟は避けるだろ。今時風呂トイレ付3万円台で東京23区で住める場所なんてないぜ」


「それじゃ、適当に答えときます」


「ちなみに、なんて答えるんだ?」


「北向きじゃ断られるんで、北東向きっていっときます」


「ほとんど同じじゃねーか。まあいい。それで」


「それから、あそこの部屋は…いいんすかね、このまま話をすすめて…」


「お前にまかせる」


蓮杖は面倒くさそうに話を切り上げ電話を切った。


名称:来栖(クルス)アパート

所在地:東京都××区××町××番地 S駅徒歩3分

築年数:50年(1974年築)

総戸数:50

構造:木造2階建

備考:耐震化・大規模修繕は行われていない。耐震度は危険度Aランク相当。住宅扶助専用で賃料の未納はないので安定した経営状況である。

『101号室』のみ「××の事情」で数年ほど空室。


木下が勤めるNB不動産の情報ファイルにはそんな文字が躍る。


「勧める方も気が引けるよなぁ……」


竹嶋笑里はNB不動産にいた。

雑居ビルのテナントの地下にあるためインターネットの地図には載っておらず、事務員の電話の誘導のみで、客が来訪する。水をしばらく替えていないらしくしおれた花が一輪挿しに刺さっていた。カウンターには先客の飲み残しの茶わんが残されていた。


「やっぱり北東向き、だった…」


笑里の落胆した表情を見逃さなかった木下はすぐさまセールストークをはじめた。


「通常、ほかの部屋は5万円!今なら101号室だけ3万円!その差なんと2万円ですよー」


「でも、いくら方角が北東向きだからといって、101号室だけ3万円って…ほかに何か安い理由があるんでしょう?」


想定の範囲内の笑里の問いに焦りながらも、木下は説明を始めた。


「これは周辺地図なんですが……ほかの部屋よりもお安い理由はこれです。来栖アパートの北側敷地内は、『無縁墓地』があってですね。101号室のご入居様はそこの管理人として業務を担うかわりに賃料がお安くなっているんです」


「ムエンボチ?それはいったいなんですか?」


「親族がいなくなったお墓のことです。納骨堂の管理や、毎年のお盆やお彼岸には住職様を呼んでお経をあげたり…まあ、そんなに手間はかかりませんよ。何かあれば私共も手伝います」


「そんな仕事は無理です。私学生ですし。すみません…」

笑里が席を立とうとした時だった。


「失礼します。良ければもう少しお話をさせて頂けませんか。はじめまして。僕は来栖アパートの大家をしている、蓮杖といいます」落ち着いた物腰で、笑里に椅子に座るように促す。


「なにも、あなたに報酬なしに無縁墓地の管理人になってもらうつもりはございません。敷金・礼金・管理費なし、賃料3万円のみでお願いしているのです。毎年の法事にはまとまった謝礼もあります」


「ご存じのように、『来栖アパート』は身よりのない生活困窮者の方々が住まわれています。突然体調を崩して他界するかたも少なくありません。そんな方が安心して成仏できる場所といえば、住み慣れたこのアパートに隣接した来栖墓地しかありません。彼らはこの墓地があるからこそ、わざわざこのアパートを選んで来られます。そのお客様のお気持ちを汲んで差し上げられるのは、笑里さん、あなたしかいらっしゃいません」


蓮杖はゆっくりとした語りで、子犬をてなづけるように笑里を説得した。


「……ひと晩、考えさせて頂けませんか」笑里はそういうのがやっとだった。


「もちろん。良いお返事を、お待ちしております」蓮杖は入口の外まで笑里をエスコートし、見送った。


「……十中八九、落ちたな」


「さすが、蓮杖さんだ。いやぁようやくあのおどろおどろしい仕事から解放されると思うとゆっくり眠れますよ。ありがとうございます」


「なにがありがとうございます、だ。少しは女を欺くテクニックでも勉強しろ」


―――生活困窮者のためのアパートの墓地管理人か……


笑里は、

蒸発した父、自殺未遂をした母を思い出していた。世界的な感染症の影響で父親の営んでいた建築会社が倒産したのは2年前だ。経理を担当していた母親は会社の帳簿類を持って海に飛び込んだ。漁船が波間に漂う母親を引き上げてくれたので、一命は取り留めた。今後も命を絶つ恐れがあるからと、医師の進言で数年たった今も、措置入院をさせられている。


自分の代で苦労して築き上げた会社が、たった一夜で破産の事態に陥った。不可抗力であったにもかかわらず、頼みの綱だった銀行に「危機管理の甘さの現れ」といわれ、追加融資はうけられなかった。さまざまな要因が父親を破滅に追いやってしまったのだと笑里は推測する。


無縁墓地の管理人をすることで、両親が命を懸けた「経営」というものが何だったのかを知る手がかりとなるかも知れない、と。そして、一露子に諭された「金銭の価値判断」とは何かが分かるかも知れないと。


笑里は覚悟を決めた。大胆な柄を装ったマネキンが夏の到来を告げている。ショーウインドウをしばらく見たあと、店に入りヴィヴィッドなホルターネックのトップスとショート・パンツを購入し着替えた。足もとはアンクル・ストラップ・サンダル。自転車を乗りこなすのは手間取るが、気分がよい。髪もオレンジブラウンのカラーにした。キャップを被り、大学へと向かった。


笑里の姿は人目を誘った。ランチを食べていると、演劇研究会の部員たちや、クラスメートに声を掛けられる。何かを失うことは何かを得ることなのだ。キャバクラのバイトは得られなかったが、住まいを得た。徒労感があったが、ようやく東京での新生活がスタートしたのだ。


6月×日

ほうぼうで紫陽花が咲き始めた。アパートの居住者にはまだだれ一人会えていない。一度挨拶に回ったが居留守を決め込まれているようだ。全室空き部屋のようにしん、としている。生存確認は区役所の仕事なのでそこまですることはない、と大家の蓮杖からはいわれている。


墓地の管理は草刈りに始まり草刈りに終わるというぐらい草が生える。今朝も大学の授業の始まる前に納骨堂の周辺を刈った。昨日抜いた場所からは、もう小さな草が芽を出している。ツバメのヒナも無事に旅立った。巣のあった場所には気持ちのよいぐらいの成長の証が大量に落ちている。もう、あの忙しい鳴き声が聞こえなくなると思うと、少し寂しい。たぶん、この来栖アパートの住人たちもそう感じているだろう。


授業と授業の合間に自分の名刺を作る。今後、通夜や葬儀などの場面に出くわした時、関係先に渡す必要が出て来るからだ。ただ、自分の名前に笑の文字が入っていることが気になる。「場」にそぐわない「笑」の文字。自分の名前で相手の感情を乱したことは、一度や二度ではない。仕方がないので、「えみり」と平仮名にした。


「なにしているの?」松下優実が人懐こい笑顔でのぞきこむ。彼女は政治経済学科と、自分とは専攻が違うがなんとなく気があった。優実の実家は松濤にあり、毎年代議士を輩出している名門松下家のお嬢様だ。


「名刺を作っているのよ」


「…噂で聞いたんだけれど、笑里さん、来栖アパートの管理人をしているって本当?」


「不審者情報『ほっかむりをした全身スパッツの背の高い女が墓地に出没』って大学の掲示板に貼ってあったそうね。ええ、そうよ。それ私。警察署には、身分証明書の提出と聞き取りで取り下げてもらったわ」


講堂には、次々と学生が集まってくるが、皆、笑里を避けるようにしているのがわかる。


「今朝なんて5時に起きて墓地の草刈り。8か所も蚊に刺されて授業に身が入らないくらい。いずれは、『ギリシア神話の神と現代の人狼も恐怖する蚊の襲来について』ってタイトルで卒論を書く予定よ。冗談だけどw」


「代議士の事務所のバイトを紹介したいの。墓地の管理人の仕事より楽だと思うわ。父にお願いすればすぐにでも」


3歳年下の彼女は同級生だが、笑里にとってかわいい妹のような存在だ。清楚なコンサバ系だが、ゆくゆくは海外でも通用するような政治担当の記者を目指しているらしい。


「…私今のバイト気に入っているのよ。代議士の事務所勤務は気を遣うし。せっかくだけど…」


「笑里さんためを思っていわせてもらうわね。今回の不審者情報はえん罪だったけれど、誤解を招くような行動や振る舞いは、やめたほうがいいと思うの。人の口に戸はたてられないわ」


「人の噂は75日。大丈夫、そのうち忘れてられてしまうわよ。生活がかかってるの。それに…」


笑里は、銀座に店を構える一露子の経営哲学に対抗するような、グローバルとは聞こえがいいが、複雑でカオスな現実社会を垣間見始めていた。


「優実ちゃん、ひとつ聞いてもいい?あなたは何のために政治記者になろうとしているの?その分厚い「社会学」のテキストには『文化の多様性について正しい認識を育成し人間的自由の可能性を高める』って書いてあるはずだけど…」


教授が暗幕を下ろし始めた。スライドのタイトルには、『社会の光と影』。光とはいったい誰を指すのだろう。影とはどんな状況をいうのだろう。


いったん言い出したら聞かない笑里。そんな頑固だった父を嫌悪していた自分。今はそんな父の気持ちを少なからず理解していた。


強いアスファルトの照り返しが梅雨明け間近を思わせる。


来栖アパート玄関脇の掲示板には、『ゴミの分別のし方』や『ゴミ収集日』、『共用部(玄関・廊下・洗面トイレ)の3S』などこまごまとした掲示物が張られている。


『猫に餌やり禁止』など〇〇禁止のチラシは最近自治会により張られた。『熱中症にご注意』のチラシは笑里が作成した。住人はクーラーを持たない者が多く、夏は救急車を呼ぶ回数が頻繁になる。今日も携帯アプリの熱中症アラートが響く。笑里はメガホンをもって各棟を回る。


「熱中症に注意してください。水分補給を忘れずに」


今日は

『来週6月×日(日)朝7時から雨どいの清掃作業』のチラシの案内通り、

笑里は休日返上で雨どいの清掃作業に専念する。サーカスの団員のように、梯子に飛び乗ると手際よくブラシを使ってふやけた落ち葉をのけていく。


「暑い中ご苦労様だね~」


うず高く積まれた落葉を遠慮なく蹴散らしてゆくのは、野良猫かとおもいきや、蓮杖である。不自然なほど白く輝く歯は装飾品のようにピカピカ光っている。この秋の区議会議員に立候補するのでまっ先に挨拶に来た、ということをいっている。「ひとが嫌う仕事をするのはまっぴら」と笑里はことあるごとに聞いていたから、どういう風の吹きまわしだろうと思った。


「……笑里さんのご友人の、ええと、松下優実さん」


突然、優実の名前が出たので、笑里の心中は穏やかではなくなった。

汗と泥でくしゃくしゃになった顔をよそに、梯子段を飛び降り蓮杖に詰め寄る。ほうぼうに砂埃が舞い散る。


「優実さんは私の友人です。その友人が何か?」


イアーゴ蓮杖(※シェイクスピア作『オセロー』でオセローとデズデモーナを引き裂いた奸計者。笑里はいつも蓮杖を影でそう呼んでいた)は、チノパンの後ろポケットからハンカチを取り出すと咳き込みながらいった。


優実さんのお父上は××党の有力者なので、ぜひ僕を公認候補として推薦してもらいたいと思っている。そこでなんとか笑里さんのお力をお借り出来ないかと恥を忍んでここにお願いにきた、と殊勝なことをいっている。


「すみませんが、そのお話お断りさせて頂きます」笑里は一刀両断した。


「ふん、そういわれると思っていましたよ」奸計イアーゴは次の秘策を用意してきたと見える。


「僕がもし区議に当選したら、この来栖アパートをサ高住(サービス高齢者専用住宅)に建て替えるつもりです。全室冷暖房、バス・トイレ付。耐震基準はクリアのうえ、防火設備も完備。看護師が常駐し、必要なら介護ヘルパーも呼ぶことができるので、住人が熱中症で担ぎ込まれるなんてことはなくなります。老後快適に住めることを保証します。来栖墓地は檀家寺が管理します。笑里さんは何もせず、更新なし3万円で101号室に住んでもらって構わない。」


イアーゴの公約に笑里は一瞬よろめきかけた。

80歳を筆頭に高齢者がほぼ半数を占める来栖アパートだ。病気がちで仕事を休みがちの者も多い。夜勤をこなしているものもいる。自分だって、墓地の管理だけならまだしも、毎日49室の誰かが非常事態に陥るため、大学のレポート提出も遅れがちになっていた。


しかも公約は破られる可能性は大きい。そして何よりこんな男の虚栄を満たすために優実に迷惑を掛けることはできない。笑里は相手の目をじっと見据えた。


「とりあえず一週間。考えてみてください」そういって蓮杖は意気揚々と帰って行った。


住人の何人かだが会えば挨拶を交わすようになっていたし共用部分の清掃をしていると、洗面所や便所掃除を手伝うものも出てきた。高さのある明り取りの窓ふきや、照明器具の電球の付け替えも各自で行うことが増えた。笑里がありがとうございます、といえば無言だが目で挨拶をしてくれるものや、「いやいや」などと手を振るものがいる。ようやくこのアパートに愛着がわき始めて来た頃だった。


ある日の午後、

来栖アパートの立ち退きに関して住人説明会を開きたい。いついつなら可能かなどと、弁護士の立川という人物が訪れ笑里にいった。今回の区議会議員の選挙では苦戦が予想される、多くの選挙費用が必要になって来るので、この土地を売って選挙資金に充てたいとの算段だった。もちろん立ち退きはそう容易でもないことは重々承知だ、保証金も用意するなどと手前勝手なことを一方的にいって帰っていった。


すでに自分の気持ちだけでは対応できなくなっていた。金と力が働く政治の世界。


早速、

来栖アパート南の敷地内に選挙事務所が建てられることとなった。プレハブ小屋だ。「必勝」の紅白の幕や机、パイプ椅子が届いた。公認も推薦も決まっていないうちから道具を着々と準備するところなどいかにも蓮杖らしい。





































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