吹き荒れる嵐(3)

「こらあ、廊下を走るな!」

「ごめんなさいっ!!」

 通りすがりの男の先生に叱られながらも、私は走ることを止めなかった。

 廊下を走り、角を曲がって、保健室の扉を勢いよく開け放つ。


「失礼しますっ!!」

 肩で息をしながら見れば、保健室の中には千聖くんと、白衣を着た先生がいた。

 千聖くんの隣には泣きそうな顔をした男の子がいる。

 小学二年生くらいだろうか。あの子は誰だろう。

 保健室の先生は千聖くんの右手首に白い包帯を巻いている。


「知り合いの子?」

 保健室の先生は私を見てから、千聖くんに顔を向けた。

「はい。なんでここに?」

 千聖くんは不思議そうな顔をしている。

「は、春川さんからっ……千聖くんが、階段から、落ちたって、聞いて……」

 私は千聖くんに歩み寄った。

「ああ、それでわざわざ駆けつけてくれたのか。大した怪我じゃねーよ、大丈夫」

 千聖くんは無事な左手をひらひら振った。


「利き手の捻挫は大した怪我です」

 保健室の先生は呆れたように言って、包帯を巻き終えて手を離した。

「とりあえず応急処置は終わったけど。痛みがひどくなるようだったら、ちゃんと病院に行ってね?」

「はい」

「なんで階段から落ちたの?」

「ごめんなさいっ。友達と、どっちが先に昇降口に着けるか競争してて。足が滑って、落っこちそうになって。お兄ちゃんに助けてもらったんです。でも、お兄ちゃんが落っこちちゃって……ごめんなさい」

 千聖くんの横に立っている男の子は目から大粒の涙を流した。


「もういいよ。でも、校舎の中で競争はするな。危ないから」

「はい……ごめんなさい」

「うん。わかったから、もういいよ。友達も待ってるだろ?」

「……でも……」

「いいって。こんなん、全然平気、平気」

 千聖くんは包帯に覆われた右腕を振ってみせた。


「……うん。じゃあ、ぼく、もう行くね」

 男の子は手の甲で目元を拭った。

 千聖くんに、ぺこっと頭を下げてから、保健室を出て行く。

 小さな足音は遠ざかり、やがてすぐに聞こえなくなった。

「ありがとうございました」

 千聖くんは椅子から立ち上がって、保健室の先生に頭を下げた。


「はい。気を付けて帰ってね」

「はい。行こ、愛理」

「……うん」

 促されて、私は千聖くんに続いて保健室を出た。

「クラブ活動の途中だったんだろ? 行ってこいよ。おれはバスケとかできる状態じゃねーし、帰るけど」

「ううん。先生にはもう言ったし、私も千聖くんと一緒に帰る」

 私は沈んだ声で言った。

 いまから家庭科室に戻ってお好み焼き作りを再開したとしても。

 千聖くんが心配で、上の空になって、うっかり包丁で手を切ったりしそうだ。


「そ。じゃあ一緒に帰ろーぜ」

 千聖くんは明るい声で言って立ち上がり、その後も何か話しかけてきたけれど、私の耳には届かなかった。

 白い包帯で覆われた千聖くんの右腕。

 私の視線はその一点に固定されて、動かない。

 私はきゅっと唇を噛んだ。


 なんで、私は今日、これを夢に見ることができなかったんだろう。

 坂本くんが怪我をする夢は見ることができたのに。

 どうして、千聖くんが怪我をする夢を見ることはできなかったの?

 もし夢に見ることができれば、何がなんでも――絶対に回避したのに。



 千聖くんと一緒に帰宅すると、麻弥さんは千聖くんの怪我を知って取り乱した。

 先に帰っていた優夜くんも驚き、心配していた。


「自分より小さな男の子を助けたのは偉いことだと思うけど……千聖に怪我をしてほしくなかったなあ」

 麻弥さんは複雑そうな顔をした。

 しばらく経って、帰宅したお父さんも同じことを言った。


「ごめん」

 悪いことをしたわけでもないのに千聖くんが謝っている。

 その姿は、私の胸を締め付けた。

 私が予知夢で見ることができていれば、防げた怪我なのに……。



 今日は私がお風呂上がりの千聖くんの髪を乾かしてあげた。

 引っ越ししたとき、千聖くんに髪を乾かしてもらったから。

 そのときのお返しだ。

 怪我をしているのに、私が髪を乾かしている間、千聖くんはなんだか嬉しそうだった。

 夜の十時を回り、皆にお休みの挨拶をして、私は自分の部屋へ行った。


 でも、なかなか眠れない。

 ベッドの中で何度も寝返りを打っても、駄目だ。

 千聖くんの腕に巻かれた包帯のことばかり考えてしまう。

 私が落ち込んでいることを察したのかもしれない。

 その日の夜は珍しく、ジロさんが私のベッドに潜り込んできた。

 猫は温かいから、冬は湯たんぽ代わりになる。

 でも、夏に密着されると熱い。

 同じことを思ったらしく、ジロさんはもぞもぞと動いて、ベッドから下りた。

 暗い中、目を凝らして見れば、ジロさんは床の猫用マットの上で丸まっている。


「……ねえジロさん。私の力って、あんまり役に立たないね。一番助けたかった人を助けられなかったよ」


 坂本くんには悪いけれど。

 私は坂本くんが怪我をする夢よりも、千聖くんが怪我をする夢を見たかった。


 目元を擦ってから、私は薄い布団を胸元まで引き上げた。

 早く寝ないと、明日も学校だ。

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