第10話
荷馬車に乗ってルーメン大聖堂を出発したヴォルフ博士とセラフィーナは、【北の教皇領】を目指して、商人夫婦として長い旅を始めました。
ヴォルフ博士はセラフィーナよりもずっと年上ですから、二人は夫婦よりは親子という感じでしたが、セラフィーナは自然に妻のように振る舞ってくれたのでヴォルフ博士は安堵しました。
もちろん二人の間には何もありませんが、親しくなったセラフィーナはアデライードの色々な話をねだるので、ヴォルフ博士が交際していた頃の思い出や結婚してからの他愛のない夫婦喧嘩の話をしてやると、とても喜ぶのでした。
けれど、セラフィーナは自分の過去の事はほとんど話そうとしませんでした。
周囲の人々にも過去にトビアス2世の愛人だった事は別に隠そうともしていませんでしたが、ヴォルフ博士がトビアス2世の話をしても特に反応はしませんでした。
セラフィーナは顔に傷があるというのでいつも黒いベールをつけていましたが、時々見える素顔は聡明そうな美貌で額の辺りの傷跡はさほど目立ちません。隠すまでも無いのに、とヴォルフ博士は思いましたが何か嫌な思いをしたのかもしれないと黙っていました。
他の商人達と集団で山を越え、時には危険な野盗集団から隠れたりしながら、ヴォルフ博士とセラフィーナはようやく【北の教皇領】に入りました。すでに雪が降る季節になっていたので、急がねばなりません。セラフィーナの案内で、二人は領内の中央部に近い谷間の小さな宮殿に到着しました。
それはトビアス2世がセラフィーナのために建てた美しい建物でした。そこで領内に隠れて待機していたトビアス2世の部下と落ち合うと、ヴォルフ博士は荷馬車に密かに銀を積み込む作業に取り掛かりました。
その後、宮殿には何日か滞在していましたが、その間にセラフィーナは宮殿のあちこちに隠してあった宝石類などを取り出してヴォルフ博士を驚かせました。セラフィーナはその宝石類を持って大きな街に出かけ、彼女の帰りを待つ子供たちへの土産や必需品などに交換していました。
積み込み作業が終わり、明日はいよいよ【北の教皇領】からルーメン大聖堂に帰るために出発するという日。
食堂で質素な夕食を食べていた時、セラフィーナが初めて自分の過去をヴォルフ博士に掻い摘んで話しました。
この領地の貴族の家柄でしたが孤児で寂しい少女時代だった事、魔術を使えるので魔女と呼ばれていた事、トビアス2世が【北の教皇領】に長期の滞在をしていた時に知り合って愛人になった事、この宮殿は、トビアス2世が『教皇資産』を使って建てた物でとても自慢にしていた事など。
けれど、乗っていた馬車の事故で顔に傷を負い、その事がきっかけで愛人関係が壊れましたが、結局セラフィーナはルーメン大聖堂に遥々やって来た後、トビアス2世にすぐ横に屋敷を建ててもらい、特別に許されて孤児たちを引き取り世話をしていたのでした。
孤児たちはセラフィーナの屋敷に住んでいましたが、幼子以外はほとんど毎日大聖堂にやって来て修道士の聖務や作業の手伝いをしたりして、皆に可愛がられていました。
ヴォルフ博士も、時々大聖堂の勉学室で年長の子供たちの学問の指導などをしてやっている時にセラフィーナを慕う様子を見ていたので、彼女は今が一番幸福なのだろうなと思いました。
彼女の得意な魔術は大切な物を見つからなくする<隠す事>でした。この魔術のおかげで豪華な宮殿も人目に触れる事も話題になる事もなく残っていたのでした。恐らくトビアス2世のためにも色々<隠す事>を手伝ってやったのでしょう。
けれど魔女の役割も終わりです。
今回の銀を運ぶ件が無事に終わったら、報酬として修道士の少なくなったセレニテ修道院を廃止してから建物をセラニテ孤児院として正式に譲り渡す、必要な資金は『教皇資産』から永続的に出資するとトビアス2世が約束しているとの事でした。そうなれば、彼女は孤児院長として今の子供たちが成人するまでは安心して一緒にいられるし、もっと大勢の孤児も引き取ってやれるでしょう。
そう話すセラフィーナを見ながら、ヴォルフ博士は贋金を作る計画にはこれ以上彼女を巻き込まないようにしようと心の中で誓いつつ、今回運ぶ銀に<隠す事>の魔術はかけられないかと尋ねましたが、馬車などで移動する物には無理だと言われました。
セラフィーナは更に言いました。この宮殿全体にかけていた<隠す事>の魔術はさっき解除したので、やがて領主や皆が無人の宮殿の存在に気づき、好き勝手に扱うだろうと。
翌日、二人は出発し今度は【北の教皇領】からルーメン大聖堂を目指す帰りの旅に出発しました。
馬車には銀を入れた幾つかの木箱を隠すように子供たちへの荷物がたくさん積まれていました。子供たちの喜ぶ顔を想像して楽しそうなセラフィーナを見ていると、さほど子供好きでは無いヴォルフ博士の頬もゆるむのでした。
帰り道も順調でしたが、ルーメン大聖堂のある領地に近づいたあたりで、何やら野盗同士の小競り合いがあり小さな村が焼かれていました。ヴォルフ博士は用心のために回り道を取り、予定より到着が遅れました。それが2人の運命を大きく変えました――。
ようやくルーメン大聖堂の近くに着いた時、ヴォルフ博士とセラフィーナは森の向こうから黒煙が幾つも上がっているのを目にしました。セラフィーナが小さな悲鳴を上げ、ヴォルフ博士は馬車を全速で走らせました。彼らに気が付いたコマースウィック村(ここも大きな被害を受けていました)の人々が大声で止めましたが2人は無視しました。
森を抜け、現れたのは略奪者たちの大集団に襲われ破壊されたルーメン大聖堂でした……。
馬車から飛び降り、破壊され尽くした大聖堂の中に入ったヴォルフ博士が見たのは、悪夢のような光景でした。
無残に殺された子供たちと、子供たちを庇うような姿で殺されている修道士たちの死体。
子供たちはセラフィーナが不在の間は大聖堂に預けられていましたが、略奪者たちは幼子にすら容赦はせず皆殺しにしたのです。
余りの悲惨さに狂ったように叫ぶセラフィーナを支えていたヴォルフ博士は、妻の墓が荒らされていないか心配になり、死体を抱きかかえて泣き崩れている彼女に墓地へ行くとだけ言うと、その場を離れました。
墓地もやはりあちこちが破壊されていましたが、幸い妻の墓は無事でした。
しかしヴォルフ博士は先ほど見た、子供たちや親しくしていた修道士たちの無残な死体に打ちのめされていました。墓地から見える修道院からも黒煙が出ているので略奪を受けて破壊されてしまったのでしょうし、恐らくセラフィーナの屋敷も無事では無いでしょう。
身を守る術も持たない彼らがなぜこんな酷い目に……。
ヴォルフ博士は絶望し、墓の前にうずくまり自分もこのまま死にたいと願いました。
どれくらい経ったのでしょう、駆け付けた領主の警備隊に囲まれ、名前などをきかれましたがただ頷くだけでした。
そのまま馬車に乗せられましたがヴォルフ博士はもう麻痺したように何も感じなくなっていました。
やがて気づくと、どこかの狭い部屋で、トビアス2世が銀はどこだ! とヴォルフ博士に縋り付いて叫んでいました。
無表情に知らぬ、と答えたヴォルフ博士はトビアス2世の喚き散らす言葉から、自分が『白の大宮殿』に連れて来られ、セラフィーナは銀を積んだ馬車ごと姿を消したのを知ったのでした。
そしてトビアス2世の表情を見たヴォルフ博士は全てを悟りました。
彼は銀を手に入れた後に自分とセラフィーナを口封じのために殺すつもりだったのだと。
彼に殺される事が己の受けなければならない罰なのだと。
ヴォルフ博士はトビアス2世を見下ろすと、一言だけ言いました。
「君は実に失礼な人間だな、マルロー」
それは、若い時代にヴォルフ博士とトビアス2世の間でいつも交わされていた軽口だったのです……。
そのままヴォルフ博士は教皇裁判の場に引きずり出され、骨と皮だけのように痩せ細ったトビアス2世に即刻首を刎ねろと命じられ、何も言わぬまま大広場で処刑されたのでした。
彼の最後の願いは、妻のアデライードの隣に葬られる事だけでした――。
「これが私の記憶している全てである。最初、汝には他人事のように嘘の過去を語り申し訳なかった。やはり恥ずべき罪を知られたくなかったのと、あの大聖堂内の光景は私の中では無かった事にしたかった。だから汝がこのルーメン大聖堂を修復し復活させようと言ってくれたのは本当に嬉しかった。全てが消えて清められるような気がした……だがやはり卑怯な願望だったな」
ホノリウス5世はしばらく俯いて無言でしたが、ようやく顔を上げました。
「全てを話してくれて感謝する。嘘を話した件は気にするな。博士の気持ちは良くわかる。しかしこれで色々と分かったよ」
ヴォルフ博士は急に笑いながらくるくると青い鬼火と共に回転しました。
「ああ、意外であるな。こうやって全てを正直に話してしまうと心底気が軽くなったことであるよ。だが教皇よ、なぜ裁判の記録では贋金作りが私の罪となっているのであろうか? 別に冤罪とは思わぬがそれだけが気になるのである」
ホノリウス5世は首を振り、周囲の青い鬼火も同時に漂います。
「罪名の件は、今の時点では不明だ。もう少し調べてみるが、どうも誰かがトビアス2世を公に告発する目的で書き換えたような気がする。彼の贋金計画は、発覚後に教皇代理を含む当時の上層部が徹底的に隠蔽したが、そのやり方に反対する人物がいたのかもしれないな」
「なるほど。まあ私が贋金作りの計画に加わっていたのは確かであるから、天下に知られても気にはせぬよ」
「その心配は無い。だが博士、もう少し尋ねたい。セラフィーナは、あの後逃亡しどこか別の土地で修道女になり、恐らくは【北の教皇領】から持ち帰った銀を資金として、この土地を偽造した教皇勅書で教皇領に仕立てて奪い、一応正式に女子修道院を造り結界を張った。かなり大掛かりな事をやったようだが、彼女の魔術に関して何か思い当たる事は無いか? 私は魔術に関する知識はあるが、この敷地へは調査の為に自由に出入りはできぬ。しかし何とか手がかりを、張り巡らされた結界の大元である<結界の根源>の在りかを知りたい」
「汝が教皇直轄地にして後に調べる事は駄目であるか?」
「駄目だ。直轄地宣言もある種の魔術だ。この地が教皇直轄地になった瞬間に結界の均衡が崩れるのは、ほとんど確実だ。私が宣言して即、結界は消滅させねばならない」
ヴォルフ博士は静止して、考え込みました。周りの青い鬼火の群れも静かになります。
「うーむ。【北の教皇領】の彼女の宮殿で、最後の日は地下室でしばらく何かをしていたようであるが、特に注意はしていなかったので詳細は記憶に残っておらぬな」
「地下室か……ここにも私が先日脱出に使った長い地下道はあるが、それを利用しているのだろうか。今にして思えば空気の悪い所だったが」
結界を張るための魔術の品、<結界の根源>は箱であったり書物であったりと、術者によって様々な形があります。ホノリウス5世が昔目撃した<結界の根源>は、杖を刺した棺でした。しかしセラフィーナが<隠す事>の魔術が得意なら、小さな物に<結界の根源>をかけてどこかに隠しているかもしれません。
あの地下道や女子修道院の中を調べる必要があるようなら手間もかかるし別の手段が必要だな、とホノリウス5世が溜息をつきながら考えていると、ふとヴォルフ博士が何かを思い出したように言いました。
「地下室といえば……関係が無いかもしれぬが、大聖堂の中にあった隠し部屋の地下室にマルローが気に入りの宝物をこっそり持ち込んでいたな」
「隠し部屋? トビアス2世が宝物を?」
「私は地下室は実際に見てはおらぬが、親しかった司祭が隠し部屋に案内してくれて、ついでに教えてくれたのである。壁の隅に扉があって、それを開けると地下室に降りる階段があった。マルローは自分の手で細々と宝物類を運んで来ていたらしい。司祭は教皇が豪華な祭具などを私有物扱いをするのに怒っていた。城や砦のように厳重に隠されていた訳ではないから全部略奪されたであろうが」
「セラフィーナも隠し部屋と地下室を知っていたか?」
ヴォルフ博士が悲しそうに呟きました。
「……何かあったら皆で隠れられるように、年長の子供たちに隠し部屋への入り方を教えておいたと旅の道中で話していたからな、恐らく地下室の存在も知っていたと思う」
ホノリウス5世は大聖堂の廃墟を見上げながら立ち上がりました。
「博士、今からその隠し部屋があった場所に案内してくれ」
墓地から大聖堂に向かって青く輝く鬼火の群れと一緒に暗闇の中を慎重に歩きながら、ホノリウス5世はヴォルフ博士にセラフィーナの亡霊が自分に取り憑いた時の体験を話しました。
「そうか、セラフィーナも気の毒に。大聖堂が炎に包まれている所は見ていないのに、記憶の中ではもうそういう光景になってしまって今も苦しんでいるのだな……」
「彼女はこちらに戻って初代の修道院長になったが、博士は気づかなかったようだな」
「遠くから修道女を見るだけではさすがにわからぬよ。しかし亡霊になっているとは、彼女は女子修道院墓地に葬られていないのか?」
代々の修道院長や修道女が葬られている女子修道院墓地は、建物の敷地から少し離れた森の中にあります。小さいながら立派な礼拝堂もあるのですが、修道女の数が減ったせいか今はほとんど手入れがされておらず、雑草が生えたり荒れて寂しい感じになってしまっていました。
「何とも言えぬ。鎮魂の祭儀で追い払った後はこの辺にいると思うが。まあトビアス2世も大修道院の墓地に葬られているのに、未だに亡霊姿で『白の大宮殿』をうろついているからな」
ヴォルフ博士は少し黙りました。
「教皇よ、マルローはどのような死に方をしたのだ?」
ホノリウス5世は簡潔に答えました。
「毒殺された。犯人はわからずじまいだったよ」
「……そうか……」とだけ、ヴォルフ博士は答えました。
大聖堂の中は、放置されていた長い年月の間に何もかも無くなって、暗闇の中に空虚で巨大な空間だけが広がっていました。窓も全て破れています。
しかし、こういう廃墟の状態になり人間が出入りしないと、天井に鳥が巣を作ったり動物が入り込んだりするものですが、ここには生き物の気配が一切ありませんし風の音すらしません。
青い鬼火の光を頼りにしばらく聖堂内を見回していたホノリウス5世は、子供たちや修道士たちの姿が無い事に安堵しました。悲しい最期でしたが、結界に捕らえられずに無事に行くべき場所に行けたのでしょう。祈りの言葉を唱えて彼らへの祈りを捧げてから、この大聖堂に来るのは久しぶりだというヴォルフ博士の後について大聖堂の奥に向かいました。入り口をくぐり、物置場を出て広い廊下を少し歩くと地下に降りる階段があります。その階段の狭い踊り場に、隠し部屋の入り口がありました。略奪時に破壊されたのでしょう、今はただぽっかりと穴が開いたようになっています。
妙な事に、ずっとホノリウス5世とヴォルフ博士の周囲を付き纏うように漂っていた青い鬼火の群れが、隠し部屋には近寄ろうとせず階段や廊下のあたりを泳ぐように光っていました。
用心をしながら隠し部屋に入ったホノリウス5世は、思わず声を上げそうになりました。
真っ暗なはずの隠し部屋の中は、黄色く霞んだ霧のような物に満ちていました。光ってはいないのに、周囲がはっきりと見えます。ヴォルフ博士も「なんだこれは」と驚いています。
ホノリウス5世は喉や鼻の奥が痛みだし、咳をしました。
「博士、どうやらここで間違い無いようだ」
そして部屋の奥に、閉まった扉がありました。
「あれが地下室への入り口だが……扉があるのが妙であるな」
「セラフィーナが取り付けたのだろう。鍵がかかっていないといいが」
ホノリウス5世が扉に近付き、鍵がかかっていないのを確認してから力を込めて開くと、地下に降りるための階段が現れました。
こちらも灯りも無いのに不思議に明るく、しかもつい先日掃き清めたような清潔さです。
階段は遥か下の方まで続いていて地下室は見えませんし、物音一つしません。しかし、薬草を焚いているような不思議で強い匂いが充満しています。
ホノリウス5世は唇を噛み締めた厳しい表情で、静かに扉を閉めました。
少し後、ホノリウス5世は大聖堂の隅の床に座り込んでいました。
青い鬼火の群れがヴォルフ博士とホノリウス5世を取り囲むように光っています。
「教皇よ、隠し部屋が薄気味の悪い場所になっていたがあれは……」
ヴォルフ博士の問いにホノリウス5世は少しかすれた声で答えます。
「隠し部屋は入り口だ。セラフィーナはあの地下室に<結界の根源>を仕掛けている。そして地下室は完全に別の物……見当もつかない空間になっているようだ。何を思ってあのような場にしたのか……」
考え込んでいるホノリウス5世の姿をしばらく眺めてから、ヴォルフ博士は言いました。
「教皇よ、私にも何か、汝の行う事の手助けをさせてくれぬか?」
ホノリウス5世は間近に漂うヴォルフ博士の顔を見ました。
「私は魔術は知らぬが、少しばかりの知恵はまだある。<結界の根源>が破壊され結界が消滅すれば、生首の私はただの首に戻り汝と話す事もなくなるだろう。だから最後に、教皇である汝の役に立ちたいのである。汝は私の過去を聞き、私の背負っていた物を軽くしてくれたのだからな」
踊るように輝く青い鬼火に照らされてホノリウス5世はゆっくりと笑顔になりました。
「そうだな。教皇と生首の博士が手を組めば、困難事も上手く解決できそうな気がする。よし、イソルデ修道女を思い切り驚かせて仕返しをしてやろう」
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