第7話
コマースウィック村で市が始まった日は素晴らしい快晴となり、輝く青空が広がりました。
村の門が大きく開けられ、たくさんの荷を積んだ馬や荷馬車が出入りし、道路に面した店や市の為に建てられた屋台はどこも大勢の人で賑わい、金や商品がやり取りされ、村中が活気に満ち溢れていました。
けれど。
教皇のホノリウス5世は、お忍びで滞在しているロドリックの屋敷の客間の寝台に、不貞腐れた表情で横たわっていました。
流石に体力の限界だったのと牢屋で体が冷え切ったせいか、昨夜遅くに屋敷に戻ってから発熱して動けなくなってしまったのです。
従者のマリヌスの介抱もあって何とか熱は下がりましたが、体中の節々が痛み咳も出るので、今日一日は安静にしている事になったのでした。
市は3日間開催される予定ですから、明日と明後日には行けるでしょう。けれど、大いに盛り上がる初日を楽しみにしていたホノリウス5世としては面白くありません。
温かな粥で朝食を済ませ、陽光が眩しい窓の外をむっつりと眺めていると、マリヌスが客間に静かに姿を見せました。
「薬草茶をお持ちしました、アントニウス様」
「……」
まだ動きにくく、声も出にくいホノリウス5世は、マリヌスに手伝ってもらい寝台に上半身を起こして苦いお茶を啜ります。
「……久しぶりの休日を寝込んで過ごす羽目になったか……全く腹の立つ……何がなんでも仕返しをせねば気が済まん」
ぶつぶつと呟く教皇に、仕返しとはまるで子供だとマリヌスは内心で呆れつつも心配になりました。
「教皇……アントニウス様。全員ではなくても、誘拐した連中を捕まえさせて例の修道女に打撃を与えたのですから、もうこの辺でお気持ちを静めてください」
「ふん、確かにざまあみろだ。だがこの程度で気が済む訳が無い。何度でも言うが『教皇資産』から身代金を出せと言われたのだぞ。絶対に許さん」
『教皇資産』というのは、アラペトラ国が税収などの国家収入から一定の割合で毎年「教皇位」に付与する報酬を代々の教皇が責任をもって蓄え管理している資産の事で、初代教皇からずっと引き継がれています。
教皇が直接行う特別な祭儀などに必要に応じて使用するのですが、基本的に増えていくので巨大な資産となっています。過去には色々と理由をつけて個人的な事に湯水のように浪費したり、豪奢な生活をする教皇が出現した事もありましたが、ともあれ『教皇資産』を守って次代に引き継ぐのは、現教皇の大事な役割でもあります。
その『教皇資産』から身代金を出せとイソルデ修道女に要求された事で、ホノリウス5世はずっと頭にきていました。
「『教皇資産』に手を出そうとした悪党なぞ、許してたまるか。おまけに私の財布から金を盗られた。私は盗られた物は絶対に取り返す」
「どうやって取り返すおつもりですか?」
「……これから考える。生首博士との約束を果たす件もある。今の状況では胴体を見つけても改葬などとても出来ぬからな」
マリヌスは思わず嫌な顔をしました。彼は怪談話が苦手なので、教皇から聞いた生首博士と墓地の話に怖い思いをしていました。
薬草茶を飲みほしたホノリウス5世は、そういえば『教皇資産』を最大に浪費した過去の教皇は、ヴォルフ博士の首を刎ねさせたトビアス2世だったな、と思い出していました。
一夜明けて。
昨日と同じように素晴らしい快晴となり、雲一つない青空が広がりました。
無事に回復したホノリウス5世は、早朝からマリヌスを従えて、コマースウィック村の2日目の市を元気に歩いて回っていました。
廃墟から連れ出して森で捕まえさせた4人の男達(一人は野盗として領主から逮捕状が出ていました)に関する諸々の面倒な後始末は、昨夜のうちに交易の情報との引き換えで商人のロドリック(彼は教皇を遊び好きの貴族と信じています)に全て任せる事が出来たので、面倒事がひとつ無くなったホノリウス5世はご機嫌でした。
マリヌスを道に待たせると、食料品を扱う大きな店に入って集まっている商人達に蜂蜜の事を訪ねてみました。しかしやはり全く入手できないと、口々に教えてくれました。
「養蜂の村でもミツバチが消えて困り果ててさ、近々戻ってくるように祈願する特別な祭りをするそうだよ」
ホノリウス5世は青年時代に修道士として訪問した、養蜂の村にある小さな修道院を懐かしく思い出しました。しかしその修道院では蜂蜜が重要な収入源になっていた筈です。修道士たちも難儀している事だろうし、使いを派遣して調べさせた方がいいだろうなと考えました。
結局、蜂蜜の代わりにとあれこれ売りつける商人達から干した果物などを買い、礼を言って店から出ると、マリヌスが厳しい表情で立っていました。
「どうした。何かあったのか?」
「はい。例の修道女を見かけました。こちらには気づきませんでしたが」
「ほお。村に顔を出したのか。まあ今さら何も出来まい」
ホノリウス5世はマリヌスに買い物の包みを渡すと、頭巾をかぶりました。
「やはり蜂蜜の入手は無理のようだ。残念だが今回は諦めるしかないな」
その後も何事も無く、イソルデ修道女も現れませんでした。
酒場でぶどう酒を飲み、大道芸人たちの賑やかな音楽や踊りを見物した後、2人はコマースウィック村の教会前の広場に出ました。ここも屋台が並んでいますがずい分と静かです。
「そういえば、捕まった連中はこの教会の地下に監禁されていて、いずれ領主の城に連行されるそうですが……尋問で誰を誘拐したかを色々喋っても大丈夫でしょうか?」
マリヌスは、教皇がお忍びで出国している事が公にならないか心配でした。加えて男子禁制の女子修道院の敷地から脱出したのも、『白の大宮殿』内で妙な噂が広がる材料になりかねません。教皇には反対勢力などの敵がとても多いのです。
「気にせずとも大丈夫だ。領主もまさか教皇が誘拐されたとは信じぬだろうし、牢屋から消えた人間なぞ調べようもないだろう」
「だと良いのですが……」
そう呟いたマリヌスは、いきなりホノリウス5世の前に素早く移動しました。
布包みを持ったイソルデ修道女が教会の前で神父らしき老人と立ち話をしています。
「マリヌス、放っておけ。危険は無い」
ホノリウス5世はマリヌスの動きを止めました。
イソルデ修道女は神父に挨拶をしてから立ち去ろうと振り向いた時に、道に立っているホノリウス5世に気づきました。しかし表情を変えず神父に何か耳打ちをしてから、そのまま人混みの中を立ち去りました。
ホノリウス5世は、イソルデ修道女の冷静な態度と、自分の方を笑顔で見ている神父を見て妙な感じを受けました。
「マリヌス、あの神父は修道女の悪事とは関係ないな?」
「はい、それは確かです。何十年もこの教会にいる方で村人にも慕われています」
「そうか。ここで待っていろ。少し話をしてくる」
この村はアラペトラ国から離れているので、神父が教皇の顔を知っている事は無いでしょう。
教会前に立つ神父に近寄ったホノリウス5世は、丁重に挨拶をしました。
「神父様は、先ほどお話していたセレニテ女子修道院の修道女殿とはお知り合いですか?」
白髪で穏やかな雰囲気の神父は嬉しそうに答えました。
「もちろんです。村外の女子修道院でも聖職者同士の交流はありますからね。ところで先ほどイソルデ修道女が教えてくれましたが、あなた様は偶然出会った彼女を通してセレニテ女子修道院に寄付をなさったそうですね。とても善い事です。私も助力していますが、あそこは年老いた修道女が5人しかおらず苦労しているのですよ」
「寄付、ですか……」
あの盗人め何を、とホノリウス5世は内心で腹を立てました。しかし神父に向かって否定はできません。
「……まあそうなりますか」
渋々認めてから、気になっていた事を尋ねました。
「ところで修道女殿はこの教会に何の用があったのですか?」
神父は悲しそうに頭を振りました。
「先日セレニテ女子修道院に何者かが侵入して、贖罪のために修道院で労働していた男たちを拉致し、森に放置したのですよ。犯罪者だから捕らえるようにという密告があったので、皆この教会の地下牢に入れられ領主の城に連行される事に……しかしイソルデ修道女が駆け付けて、村長に連行を拒否して全員を自分に引き渡すように訴えてから、こちらに様子を見に訪れたのです。領主からの指示で今は誰にも会わせられないと説明して、今日は帰ってもらいましたが」
「贖罪のために女子修道院で労働……なるほど表向きはそう言ってるのか……」
「何かおっしゃいましたか?」
「いえ、別に。しかし神父様、先ほど村で聞きましたが、領主から逮捕状が出ている男がいたのでは、修道女殿が引き取るのは無理では?強引に連れ出されたのだとしても、女子修道院の聖域外に出たなら保護は無効になります。とにかく全員が領主の城で尋問を受けなければ領主も納得せず、修道女殿の事も不審に思われましょう」
神父は、この貴族はイソルデ修道女を心配してくれているなと感激しました。
「確かにそうですが、セレニテ女子修道院は教皇領にあって、イソルデ修道女は教皇領の管理者ですから、彼らの保護者として女子修道院から連れ出すのを断固拒否すれば、連行できるかどうか。領主の使者の判断になるでしょうが」
ホノリウス5世はしばらく黙ってから、深呼吸をして聞き返しました。
「今何と?イソルデ修道女が教皇領の管理者?」
神父はうなずきました。
「とても小さな土地なので見ても信じ難いでしょうが、セレニテ女子修道院はれっきとした教皇領にあり、修道院長は教皇領の正式な管理者です。村の住民達も完全に忘れていますが、ずっと昔、教皇のトビアス2世があの土地を教皇領と定め、セレニテ女子修道院の初代修道院長を、教皇領の管理者として権利と保護を与えるという勅書を出されたのですよ」
ホノリウス5世は唖然としました。
「トビアス2世の勅書……?」
「そうです。以来、代々の修道院長が引き継いで管理者となっています。ただ組織なども大幅に変わったせいか、今は管理者とは名ばかりで、『白の大宮殿』や教皇からも放置されているのは残念な事です。女子修道院でなければ事情も違ったでしょうが。隣の大聖堂はとっくに廃墟になってしまいましたし……ですが勅書はもちろん有効ですから、今回の件などを含めて今後保護と援助を教皇に願い出るかもしれないと、イソルデ修道女が申しておりました」
「……神父様はその勅書を目にした事があるのですか?」
「ええ、若い頃に。興味がおありならば、この教会にある勅書の写しをお見せしますよ。別に秘密の文書ではありませんしね。本物に何かあった時の用心として、先々代の修道院長に頼まれて私が作成したのです」
かなり長い時間待たされたマリヌスは、教会から大股でこちらに戻って来るホノリウス5世に驚きました。
「アントニウス様……?」
ホノリウス5世はマリヌスの腕を掴むと命じました。
「大至急アラペトラ国に戻る。準備をしろ」
「……わかりました。ですが何が?」
怪訝な顔のマリヌスにホノリウス5世は低い声で言いました。
「帰国する前にセレニテ女子修道院に立ち寄る」
その日の午後。
セレニテ女子修道院の門の前に一台の荷馬車が森を抜けてやって来ました。
マリヌスが御者台に座り、荷台にホノリウス5世が乗り込んで女子修道院をじっと観察しています。
古びて壊れた箇所もありますが、石造りの大きくて立派な建物です。しかし人の気配が全くせず陰気な雰囲気で、年老いた修道女が5人しかいないというのは本当のようでした。
背後には廃墟のルーメン大聖堂の屋根が見え、暗い森林で囲まれた一帯は風の音と鳥の鳴き声しかしません。
「まったく何を考えて……」と呟いた時、誰かが門の前にいるのに気づきました。
小柄なイソルデ修道女が腕を組んだ堂々とした姿で立っています。
「ふん、呼び出す手間が省けたな」
ホノリウス5世は馬車を止めさせ、荷台から降りるとイソルデ修道女から少し離れた場所に立ちました。
「村の神父から話を聞き、そなたとセレニテ女子修道院の立場は了解した」
「……説明の手間が省けましたね。猛烈なお喋り神父もたまには役に立つこと。それで何の御用ですの?」
「私を殺したがる人間は山ほどいるが、誘拐して身代金を取ろうと思いつくのはそなたぐらいだ。私を見つけた瞬間に計画をたてて実行した度胸は褒めてやる」
イソルデ修道女はにやりと笑いました。
「そろそろ教皇領の管理者として教皇に直訴する時期かと考えていたら、偶然本人が目の前に出現して驚きました。ただその後は色々計算外で面倒な事になりましたけどね。どうやって牢屋から抜け出したのか教えてくださる、ホノリウス5世様?」
「断る。だが誘拐された件は私の完敗を認める。そなたの勝ちだ。盗られた金は正式な寄付金としてセレニテ女子修道院に納めた事とする。また、私が女子修道院に立ち入ったと公にしたければ好きにしろ。ただし連れ出した4人には決して謝罪はせぬ。これで決着だ。良いな?」
イソルデ修道女は、教皇は今後強請ろうとしても無駄だと言っているなと理解して、肩をすくめました。
「わかりました。その辺りで手を打ちましょう。牢屋で素直に協力してもらえれば良かったのですけど、今回は身代金を諦めて教皇からの寄付で満足しておきます。貧しい女子修道院には有難い浄財ですからね。落ち着いてから他の方法を考えます」
「飽くまで『教皇資産』に手を出すつもりか?」
イソルデ修道女は真っすぐに教皇の目を見ました。
「教皇領の管理者である私は、『教皇資産』に思うところがあるのですよ」
「……そうか。これで手加減はいらぬとはっきりしたな。
そなたは修道女でセレニテ女子修道院の修道院長、教皇の私でも手出しは出来ぬ存在だ。加えて女子修道院の聖域には許しが無ければ決して足を踏み入れられぬ。だが、突破口が見つかった」
「突破口?どういう意味ですの?」
ホノリウス5世は返事をせずに両手の手袋を脱ぎました。右手の黄金の『教皇の指輪』が煌めきます。
「そなたに通告する。教皇ホノリウス5世は、教皇領及び教皇領の管理者を定めたとされるトビアス2世の勅書を完全に否定し、セレニテ女子修道院の修道院長が教皇領の管理者である事を認めず、援助などの要求は断固拒否する。そして、この教皇領と呼ばれている土地からイソルデ修道女を追放した後に、教皇直轄地とするためにあらゆる方法をとると誓う」
教皇の衝撃的な言葉にイソルデ修道女は動揺と怒りで青ざめました。
「私を追放?……勅書を否定するですって……」
ホノリウス5世は手袋をはめました。
「以上だ。後日『白の大宮殿』より、私が署名した正式な通告文書を送り届ける」
それだけを言うと、睨みつけているイソルデ修道女に背を向け、荷馬車に乗り込みその場を去りました。
荷馬車で揺られながら、ホノリウス5世は楽しそうに笑い声をあげました。
「イソルデ修道女は青くなって怒り狂っていたぞ。ざまあみろだ。これでだいぶ気が晴れた。さて忙しくなるぞ、急げよマリヌス」
御者台のマリヌスは、やっぱり子供の仕返しだな、と小さく溜息をつきました。
ホノリウス5世は頭の中で色々と整理してみます。
トビアス2世の勅書が偽造なのは間違いありませんが、イソルデ修道女は本物だと信じているようでした。まあ証拠を突きつければ理解するでしょう。納得するかは別ですが。
しかし一番の謎は、なぜ勅書のでっち上げという大それた行為をしてまで、あの土地を教皇領に仕立てる必要があったのかです。そこでふと生首のヴォルフ博士の言葉を思い出しました。
……敷地から外へ出られぬ。結界のような物があるのでな……
また生首博士に会う必要があるかもな、とホノリウス5世は青空を見上げながら考えました。
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