忘れられた男
@zitsuzai
小説でもどうぞ落選
呼び鈴が鳴った。手繰り上げた布団を通り抜ける電子音にしつこく叩かれ、黄ばんだインターホンの粗いモニターまで転がると、紺色の制服姿に白髪混じりの男性の真っ直ぐな立ち姿が映っていた。
「どうしたんですか」
「隣の人、いま部屋にいますか」
「わかりません。でもいつも部屋にいます」
たしかに彼は常に部屋にいた。私が引っ越してきた時、一回挨拶をしに行ったのだけど、その時はスウェットにぼさぼさ髪の三十くらいの痩せた彼が出てきて、私の手土産に聞き取れないくらいの声でお礼を言った。それ以降、言葉を交わしたことは一度もなく、時々すれ違う際に挨拶するくらいだった。彼はいつも返事は返さず、一瞬びくっとした後、下を向いて通り越して行った。
警官を名乗る男性が再び彼の部屋の呼び鈴を押し、声をかけたが返事はなかった。
大家さんが呼ばれて、合いかぎで部屋のドアを開けた。ほの暗い部屋の入口に彼が立っていた。相変わらず無精ひげと長い前髪で、前に見た時よりもますます青白く痩せているようだった。
「なんでしょうか」と彼がぼそりと言った。
「〇〇さんですね。〇〇所持の疑いで逮捕します」と警官が答えた。
匂いについて匿名の通報があったのだという。彼は顔を見られたくないといったそぶりでうつむいていた。何を聞かれても、全く答えない彼に警官の声は大きくなった。
「君、何年もずっとこの部屋に籠りきりだったんだろう? 大の男が申し訳ないとは思わないのか、こんな生活で。何の社会参加もせず、君はせっかくの自由ををふいにしたんだ。もう君くらいの歳なら奥さん子供がいてもおかしくないもんだ。こんな生活を送っていることがすでに犯罪なんだ。一体、この部屋で何をしていたんだ。ずっと草をふかしてぼんやりしていたのか」
私は日々、確かに彼の存在を感じていた。なんたって、このアパートの壁はとても薄いのだ。私と彼のベッドは薄い壁一枚を隔てて隣り合わせで、ある時、彼の寝返りに合わせて、私もベッドを軋ませてみると、ぴたりと音が止んだことがあった。
また、彼は本の音読が好きらしかった。窓を開けていて、彼の読む声がところどころ聞き取れたことがあった。なんとなしに、その一節を検索してみると、彼が読んでいるのはサルトルの有名な小説だとわかった。サルトルと言えば、実存主義の哲学者、いかに生きるかを模索した哲学者とだけは、ぼんやりと覚えていた。
私は執拗に説教する警官の言葉にだんだん耐え切れなくなって、
「それがどうしたっていうんですか。確かに犯罪は悪いことです。通報されたのも仕方ないと思います。でも、何もしないで過ごしたことがそんなに悪いことですか?」
警官は呆気に取られていた。
「人生をなめるなとか、責任を取れだとか、彼に向ってあなたは言ってますけど、それ、本当に自分の頭で考えて言ってます? ある意味、彼は勇気ある選択をしたとは思いません? 社会に背を向けて、そしてこんな犯罪まで犯すなんて、たった一人で孤独だったよね?」
と私は勢い余って彼に同意を求めていた。彼は驚いた様子で無精ひげの顔を上げた。ぱっちりとした眼をしていた。ただ唇を一瞬パクパクして、そしてまた元のように顔を伏せた。私もそれきり押し黙った。
じきに彼の母らしき人が来た。泣いていた。すでに連絡を受けているらしかった。
「やっぱり私が間違っていた! 家から出すんじゃなかった」
彼女は自らの悲劇をまくし立てている間、ほとんど彼を見ようとはしなかった。私は彼の孤独を悟った。急にどうしようもなく彼が可哀そうになり、ちらと彼の顔を見た。ふいに彼もこっちを見た。目が合ってしまい、にこっとすると彼もにこっと返してからうつむいた。
連行されていく彼の後姿はとてもぎこちなくて、頼りなげで、このまま存在が消えてしまうんだろうなと思った。
忘れられた男 @zitsuzai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます