クラゲ漂う街

@zitsuzai

坊っちゃん文学賞一次落選

この街では夕方になるといつでもクラゲが宙を舞う。オレンジ色のふわふわっとしたやつで大きいのだと直径が10センチくらい。初めの頃はうっとうしいのなんのって恐ろしくもあったが、今では僕も息子も慣れっこだ。もう目で追うことだってしない。ショッピングモールの広場、夜の小さな円形テーブル席に向かい合って、二人でポッキー入りのアイスを食べている。僕のはキャラメルで、彼のはヨーグルトマンゴー。ふわりと小さなクラゲの破片が彼のアイスの黄色いソースの上に落ちたのを、軽く手で払いのけてやった。


「あんまり美味しくない?」


と聞くと彼がうなずいた。


「パパのと交換する?」


「いい」


「なんで」


「僕はもうアイスいらないよ。早く帰りたい」


「せっかくの金曜だよ。パパとデートしてよ」


乗り気でない息子の残したアイスはたしかにひどい味だった。青いミカンの皮みたいな苦味。キャラメルソースよりずっとひどい。


「今度はメイプルナッツにしようよ」


「ママに買っていくの?」


「溶けちゃうよ」


アイスの埋め合わせをどうにかしたくて、それほど広くないゲームセンターに立ち寄った。ユーフォーキャッチャーの一群が通路に面している。もちろん10代の男女ばかり。急に小さく声を上げて早足になった息子が、一台のゲーム機の前で立ち止まった。


「いらっしゃい。今夜は機嫌がいいみたい」


マシンの左下から女の子の声がし、ガラス張りの中で彼女は片膝を立てて座っていた。キャラクターのような可愛い服装なんかではなく、本当に地味なTシャツと短パンで。有人式のユーフォーキャッチャーというのはおそらく誰も目にしたことがないだろうし、結局は彼女の手心ひとつなのでゲームとして成立するかも不明なのだが、この街のゲームセンターではよく見かけるものだった。景品を得るには彼女をうまく誘導しなくてはならない。


「やあ、また会ったね」


ショートカットを明るく染めた彼女にとにかく話しかける。


「ああこの子のおじさん。この前は残念だったね」


「初めてだったから仕方ない」


僕は彼女のあっけらかんとした口調にどぎまぎして返す言葉が見つからない。


「そのなか暑くないの」


「全然」


まずは天気の話から。しかしこの定石で会話がスムーズに運んだことがあっただろうか。


「よかった。外結構暑いよ。クーラー効いてるみたいだね、中。なんか寒そうだね。今日は何がおすすめ?」


彼女の視線の先には黒いカブトムシの死骸がつるされていた。


「それ動いてないよね」


「死んでる。でもここでは珍しいでしょ」


「息子は喜ばないよ」


「ほんと?」


息子の位置からは見えないので息子の両脇を抱えて持ち上げた。


「それ気持ち悪いよ、パパ」


「君は何が欲しい?」


息子は特にほしいものはないと見えてしばらく考えた挙句、


「お姉ちゃんと遊びたい」


「たしかに」


ちらと彼女を見やるといつでもどうぞという風なので、コインを入れて機械前面のボタンを押した。


画面の電光式ルーレットが円形に明滅して懐かしいメロディーが鳴り出した。中を見ると彼女も我々をからかうように腕をひらひらさせている。なかなか終わらない。悪戯っぽい顔で僕らを見ながら、挑発するような腕先だけの踊りを続けている。結局そのまま暗転し、音も鳴りやんでしまった。


真っ暗な箱の中から「残念、また来てね」とくぐもった声が聞こえてそれきりだった。


結局僕らは何の戦利品もないまま、彼女とも満足に交信をできないままにそこを離れた。もくもくと歩かせられている息子の横で、彼女は初恋の子に似ていると不埒なことを思った。美人というわけではないのだけど、張りがあって肉感的な若いかわいらしさがあった。おじさん、と言われようと彼女を目の前にすると、その当時のように胸がどきどきとする。彼女はもう今夜はおしまいで眠るのだろうか。そもそも本当に人間なのだろうか。もしかしたら、本当に初恋の彼女なのではないか。


路面のクラゲを踏んでしまい足を滑らせ転んだ彼がぐずりだしたので、僕らは一旦スタンドの休憩室に入ることにした。もう外は真っ暗だったから明かりのついているところは目下ここしかなかった。僕も子供の時、両親に連れられて遠出した帰りにはよくこんなスタンドで瓶のラムネを買ってもらったものだ。ラムネを開けるときのあのどきどきと、ビー玉を取り出した時の喜びを今でも思い出す。


彼にもその喜び味わって貰いたかったのだが、残念なことにここにはラムネはなかった。自販機すらなくて、ただ隅の方に無料の給水機があるだけだった。駆けていった彼が呼ぶので、行ってみるとそこに彼女がいた。それは覗き込むと給水器などではなかった。中は空洞になっていて、その中で彼女は小さなテレビを見てくつろいでた。ピンクのヘッドホンを付けておやつをつまんでいる。


「ああこれ?」というように驚いた風もなく見上げる彼女にあっけにとられていると、ヘッドホンを外して立ち上がった。すると急にその空間は彼女の半身でやっとのほどの窮屈な筒となった。中から赤いクラゲが何匹もあふれ出ている。クラゲたちにはこのような幻想を作り出す魔力も備わっているらしい。しかし彼女自身はあまりに僕には生々しく感じられ幻とは思えない。


「私もメイプルナッツがいいから」


一瞬なんのことかわからなかったが、息子がそれはママの、というのが聞こえて、


「今度買っていくよ」


「おねがい」


彼女がにっこりしてくれたことが無性にうれしくて、


「君はいつもあの場所にいるの?こういう風に移動できるなら、一緒にテーブルで食べない?」


「無理。箱じゃないと」


「それじゃトランク持っていくよ」


自分でも変態的だなと言ってすぐ気づいた。もう一度視線を戻すと彼女はもうそこにいなくて、それはやはり普通の給水機だった。息子の後で水を飲むとかすかに鉄の味がした。


家に戻ると、部屋は真っ暗で妻も寝入っていた。息子もすぐに妻の横で寝息を立てて、明かりをつけたダイニングテーブルに僕だけが残った。静かに冷蔵庫を開けて、中を覗くと妻が用意してくれた作り置きのタッパが目に入った。中がうすぼんやり発光しているのが不思議で、手に取ってみるとその光は彼女の小さなスマホのブルーライトだった。今度はこんなにも小さな場所で、ここでも彼女は寝転がってくつろいでいた。


「夜更かしなんだね」


「みんなこんなもんでしょ」


「僕はもともと眠れないだけ」


「私は寝ない」


「ずっと起きてるの?」


「さあ。その方が楽だし」


本当のところ彼女が幻なのかどうなのか、いよいよ確かめたくなって、


「やっぱり存在してない?」


と声に出してしまった。少し困った顔をして見せた彼女は、そうかもね、といいそれきり受け答えはしてくれそうにない様子だった。


「それでもいてほしいよ」


そっと蓋を閉じると、それは昆布と大根の煮物の入ったタッパになった。僕は口をつけることなく、冷蔵庫に戻した。


「おやすみ」


それからしばらくの間、彼女はどこにも表れなかった。何度かあのゲームセンターに息子を連れて行ったけれども、あのマシンごとそこから消えてなくなっていた。聞くとあのマシンはあまりにアタリが出ないうえに景品も気味が悪いとの苦情が多かったので、撤去してしまったとのことだった。動揺して怒りを抑えきれない僕に、彼はいかにもバツが悪そうな様子で答えてくれた。系列の店舗にいってみるといいよ、とのことだった。


ほどなくして僕は、たしかに同じ規格のマシンを前にしていた。前面には電光式のルーレットがあって、ガラス張り。中に女性がいるのも同じだったが、彼女ではなかった。妻よりも幾分年上に見える彼女は決して何も言葉を交わしてはくれず、ただずんぐりとした身体を横たえてくつろいでいるばかりだった。


結局彼女の消息はつかめないまま、月日は流れた。ある日、僕は妻と二人で昼間のあのテーブルに座っていた。


「キャラメルソースとメイプルナッツで」


これが僕ら二人の定番になっていた。街に漂うクラゲたちもその時には少し変化していてオレンジの個体を見かけることはほとんどなくなり、代わりにソーダ色のものがほとんどになっていた。味も不思議とソーダに似ていて、僕らは頓着せずに口に運んでいる。


程なくしてお盆を持った店員さんが、


「ご注文のキャラメルソースです」


「あれ、もう一個は」


と見上げるとエプロン式の制服を身にまとった彼女だった。


「すみません。メイプルナッツの方は私が食べちゃいました」


妻に向かっておちょくる様子で、


「あなたもメイプルナッツすきなの?」


あっけにとられる妻の視線の先にソーダ色に揺らぐ彼女の両手があった。掴んだお盆とお手拭きが透けて見える。


「今はソーダの方が好き」


そういうとテーブルの上に二つのクリームソーダを残して消えていった。


それから僕らはクリームソーダを飲みながらアーケードを歩いた。街灯に照らされたクラゲたちは中空の水玉となり、そこらじゅうできらめいていた。よく見ればその水玉の一つ一つの中に彼女がいて、そして僕の知らない、妻だけが知っている彼がいた。どういうわけか、彼女も彼も何も身に着けておらず、仲睦まじい様子で戯れていた。無数の彼と彼女がそこかしこに漂っている。それは形あるものという感じでなくて、光の反射のような消えては映ることを繰り返すだけの存在だった。つまりは幻だった。

2022-9-2






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