神戦姫
瀬野しぐれ
第1話 邂逅
目を開けるとそこは知らない街だった。
正確には全く知らない街では無い。今自身が立っている場所、そしてここが何処なのかというのは分かる。ただ「彼」が見慣れた街は目も当てられない程に変貌してしまっていたのだ。駅もビルも苔むして、多くの植物が建造物を貫き、枝や葉が覆い被さるようにそれを飲み込んでいる。
異常な光景を前に唖然とする男、
――時は少し遡る。
その日、漱は地元で最大規模の研究施設である「アマノ研究所」へと足を運んでいた。各研究者に向けた施設の見学イベントであった、が意外にも一般人の参加が許可されていた。平日開催のイベントではあったものの漱は生憎、無職。毎日が夏休みのようなもの。今回の参加も「僕は無駄な日々を過ごしていないぞ」という自身を正当化する為のいわば免罪符であった。
見学にはガイドなど存在しない。研究者は皆多忙なので参加者は受付を済ませたら自由に所内を見て歩けるのだ。当然、危険な区画は立ち入り出来ないように厳重な警備が施されており、参加者が見学できるのは研究所が解放している専用スペースのみである。
真っ白な廊下を参加者達がぞろぞろと散っていく中、ふと漱の目にある一室が映り込んだ。
「見ても、良いんだよね……?」
周囲をきょろきょろと見回し職員が居ないか確認する。だが廊下にはただの一人も人が歩いておらず、まるで所内に残っている人間が自分ただ一人のように錯覚した。
現地でのルールを尋ねられるガイドが存在しないというのがこんなにも心細いことだとは思ってもみなかった漱。考えに考えた末、自身の好奇心を尊重する事にして「もし駄目な場所だったら謝ろう」と自らを納得させた。
恐る恐る部屋へと近づく。
驚くべき事にその部屋は全面ガラス張りで廊下からでも室内を一望する事が出来る。もしかすると漱はこの異様な作りに惹かれたのかも知れない。
中には硬そうなベッドが一台、床を無数のコードが走っており配線先には無機質な装置が鎮座。そして装置の上には巨大な鏡が一枚はめ込まれていた。
鏡のサイズは成人男性の上半身くらいだろうか、とても古びた外観をしており骨董品の店に置かれていても違和感が無い。
部屋の暗さの影響か、鏡面は墨でも塗られたように真っ黒。これに不気味さを感じたのか漱は部屋から一歩離れ、くるりと方向転換。別の施設を見に行こうと逃げるような足取りで歩き始めた。
――その瞬間。
先程まで見ていた部屋の扉が勢いよく開き、中から無数の黒い手が飛び出してきた。一体何メートルあるのだろう、腕の先は見えず漆黒の幹だけが室内へと続いている。
這い出た手は漱の襟首を掴み、抵抗する暇も与えず尋常では無い力でガラス張りの部屋へと彼を引きずり込んだ。
「何だよこれっ」
思わず大声を上げる。それは間違いなく所内に響いているはずなのだが誰一人として助けに来る様子は無い。それどころか並々ならぬ腕力によってずるずると何処かへと引きずられている。
やがて漱は自分を鷲掴みにしている腕の根元へと視線を向けた。夏の影のように黒い無数の手はどんどん長さを失い、その根幹にはあの巨大な鏡があった。鏡面は波紋を立てながら揺らぎ、水面から生える草のように腕は伸びている。
青ざめる漱。鏡に反射した自分の顔を見ると口は歪み、眼鏡の奥にある瞳はぐるぐると泳いでいた。
「ちょっ、誰か助け――」
――鏡へと触れた刹那、彼の視界は光によって奪われた。
◆ ◆ ◆
……時は現在に戻る。
漱は自分の身に起こった事態を淡々と整理し、ボサボサの黒髪を掻きむしった。そうして出した結論が「これは現実である」だ。
彼も人間だ勿論焦りはある。これから自分はどんな目に遭うのか。スプラッター映画かそれともホラーか、考えただけでも身震いするくらいに。だからこそそんな恐怖が漱に冷静さを取り戻させていた。
漱はふとポケットに手を伸ばす。
色褪せたジーパンの尻ポケットにはよく使い慣れた小型の板、スマホが入っていた。これは僥倖。藁にも縋る想いでスマホを握り電源ボタンを押す。
――がしかし真っ黒な画面には期待に胸を膨らませた漱の滑稽な顔が映っているだけ。
「そんな、確かに充電は残っていたはずなのに」
焦りが増す。
スマホが使用出来ないとなれば現状を把握する手段が大きく減る。自分の知識と街はどれくらいの齟齬をきたしているのか、家族や友人は存在しているのかなど。たった一枚の板でも入手出来る情報は計り知れなかったのだ。
「なんてことだ……ん?」
絶望に打ちひしがれる最中、彼の思考を遮るように複数の足音を鼓膜が拾う。
それは確かにこちらへと近づいていた。音で靴の種類は分からない、が特徴的なことに金属の擦れる音が頻繁に鳴り響いている。これはまるで……
「鎧みたいな音」
漱は考えた。今から現れる何者かにここが何処なのかを尋ねるべきか、それとも逃げ出すべきか。
結果、すぐに答えは出ず。何か良い判断材料がないものかと周囲を見回した時、彼の目にあるものが映る。それは廃墟となったビル群。
「そうだ。こんな場所に法治国家の息がかかっているとは思えない」
そう判断するや否や漱は近くの物陰へと身を隠した。幸いにもここは「駅前」。自動販売機や謎のモニュメントといった遮蔽物ならば腐るほどある。
「どうして研究所から駅まで移動しているのか、これは後回しになるな」
背筋を伸ばしてピッタリと壁に密着させる。出来る限り身体の一部が物陰からはみ出ないよう細心の注意を払い、顔半分だけを覗かせた。
するとどうだろう、先程まで漱が居た場所へと向かって三人の影が現れたではないか。そのうち二人は重そうな金属の鎧を身に纏った男性、対して彼らの背後には白く輝く胸当てを着けた女性が槍を携えて立っていた。
頭には胸当てと同じ色の兜、というよりは冠に近い形状の武装をしており太く纏まった髪の毛を後頭部の隙間から出していた。
武装した女性を見た瞬間ふっと気が緩む。それどころかキリッとした彼女の瞳にときめきを覚える始末。漱は謎の安心感に囚われて一歩、無意識のうちに前へと踏み出そうとした。
――だがぐっと踏みとどまる。
女性達の前に一人の老人が現れたからだ。
「危なかった」
彼のお陰で我に返った漱は再び厳重に身を隠し、様子見には丁度いいと思いながら女性達のやり取りを見物することにした。
老人は三人の前に立つと背負っていた袋を下ろし、彼女らへと渡した。
「これで全部か」
「は、はい。これで差し出せる物は全てでございます」
びくびくとした様子で後ろへと下がる老人。
次の瞬間、鎧を着た男のうち片方が老人の腹部目がけて蹴りを放った。
「うっ」
背中からコンクリートの地面へと着地する老いた身体。げほげほとむせ返る彼を見下ろしながら三人は笑った。再び老人が立ち上がろうとして落とした杖へと手を伸ばすも、それを蹴飛ばして遠くに追いやる。
最早、老人は彼女らの玩具だった。
「……・っ」
この胸糞の悪い光景に漱は黙っている事が出来なかった。
物陰から身を乗り出し、つかつかと自信のある足取りで彼らに近づく。
「なんだあ」
言うまでも無く全員が彼に気づく。
いかつい顔で睨みをきかせる男達に思わず気圧されそうになるが、手の内側に爪を立てながら拳を握り、自身を鼓舞した。
(この後、僕は殺されるんだろうか。いや、そうならない為にもなるべく刺激しないように会話するんだ)
漱は男の前に立つと軽い会釈をした。
「初めまして漱と言います。少し会話をしたいのですが」
「俺はしたくねえ」
そのタイプか、と額に汗が滲む。
だがここで退いてはいけないし、弱みも見せてはいけない。
逃げ出したくて痙攣している脚を側面に当てていた手でぐっと押し、深呼吸をする。
「僕が話しをしたいのは貴方達ではありません。奥におられる貴女です」
女性は「ほう」と呟くと男達を押し退け、前に出る。
漱へと近づき槍の石突をカンッと地面で鳴らし、相手の恐怖心を弄ぶように威嚇した。
びくっと肩を上げるが依然として平然を装う漱。内心ビビっている事がバレていたとしてもこの態度は続けなければならない。弱みを見せればつけ込まれる、まして目の前に居るような人間ならばまず間違いなく。
「話とは」
「僕と、とても有意義な取引をしましょう」
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