第35話 あと少し

「星乃はね、生まれてきた時、すごく元気で、それはそれは大きな声で泣いていたわ。私はそんなあなたの泣き声を聞いて、出産の痛みが吹き飛ぶくらい嬉しかった。私の……いいえ、私たちの元へ生まれてきてくれてありがとうって、心の底から思ったの」


 海を見つめながら、流川さんのお母さんがポツリと呟く。


 お父さんは、噛み締めるようにして頷いていた。


「お父さんとお母さんね、どちらがあなたに早く呼んでもらえるか、競争してたのよ。1歳頃だったわ」


「結局勝ったのはお母さんだった。でも、あれは今でも不公平だと思ってる。父さんは日中仕事に行ってたし、お母さんほど星乃と一緒にいられなかったんだ」


「うふふっ。だからか、仕事から帰ったらお父さん、すぐに星乃の元へ行って、『パパ』って呼ばせようとしてたわ。何度も何度も繰り返し星乃に言ってね」


「懐かしいね。何もかも」


「ええ」


 海の向こうを見つめて、二人はそう昔を懐かしむ。


 流川さんは、それを聞いて微笑み交じりの表情で返していた。


「そうだったんだ」と。


「たぶん、きっと、父さんたちは幸せすぎたんだ。幸福の前借りをしすぎていた。だから、その分後になって星乃一緒にいられる時間が減ってしまった」


「その辺り、もしかしたら神さまはよく作っているのかもね。上手に」


「うん。そう思えて仕方ない」


 二人の言葉を、波は遠くへ遠くへ運んでいく。


 人の一生において、幸福には限りがある。


 僕はその言葉を信じたくなかった。


 だって、そんなのは不公平だ。


 幸せをずっと感じながら、いっぱい感じて生き続けている人もいる。


 それなのに、どうして少しの時間幸福だっただけの流川さんが不幸を、死を受け入れなければならない状況になってしまうのか。


 いや、もしかしたらその『少しの時間幸福だった』ということが僕の勘違いで、本当に一生分の幸せを味わっていた可能性もないことはないわけだが。


 だとしても、死を受け入れるしかないことは、辛くて悲しい。


 命の終わりなんて、それほど不幸なことなんてないはずだ。


 何もない状態で、心の底から死を望む人間なんていない。


 辛いことがあって、悲しいことがあって死を選ぼうとする人間も、逃げようとした先で死の選択をし、死の先で平和に生きることを望んでいる。


 誰も本当は死にたくなんかないんだ。


 誰だって生きていたい。


 生きて願いを叶えたいと思っている。


 流川さんも、きっと。


「……お父さん、お母さん」


 流川さんが声を絞るようにして出した。


 少し苦しそうな気がする。


 でも、そこに対してはもう誰も触れなかった。


 今、触れちゃいけない。


 今じゃない。


 今はダメだった。


「私は、これから先不幸になる訳じゃない。そこは勘違いしないで」


 流川さんの言葉を聞いても、お父さんとお母さんは何も言わない。


 ただ、首を傾げるだけだ。


「私はどこまで行っても幸福なの。それは、ジッとしてたら色々なことを運任せにするしかないから、不幸なことが続いたら、それを受け入れるしかなくなる。でも、私は違うんだ」


「……どういうことだい?」


 お父さんが問う。


 流川さんは答えた。


「私はね、ずっと動き続けるんだよ。苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、それを吹き飛ばせるくらい楽しいことを見つけにいく。それで、自分の願いを叶えるんだ」


「……星乃らしいわね」


 お母さんの言葉に、流川さんは笑顔で頷く。


「だって、それが私。流れ星みたいにキラキラした名前。流川星乃だもん」


 僕は息を呑んだ。


 彼女はどうしてここまで強いんだろう、と。


「強く前に進めるのは、お父さんとお母さんがくれた幸福のおかげ。それで、願いを叶えられるよう最後の後押しをくれたのはーー」


 流川さんの視線が、僕の方に注がれる。


「二人と同じくらい大切な人。共なんだ」


 ありがとう。


 彼女の言葉が僕に深く突き刺さる。


 浜風が強く吹き付け、より一層心の奥底に刻み込まれたような気がした。


「共、私はね。たぶん、これからすぐ耳も聞こえなくなるし、目も見えなくなる。話すことだってままならなくなる」


「……うん」


「それでも、同じように傍にいて欲しい。面倒かもしれないけど、私があなたの願いを叶える時までは」


 そんなの今さらだ。


 僕は強く頷いた。

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