第1話 僕

「なぁ、夜間学校って知ってるか?」


 朝起きて学校に行き、すべての工程を終えて放課後を迎える。それから夕陽の中を歩いて、この町の外れにある大きな森の中の深くまで行き、夜を迎えて何も見えなくなったタイミングで死んでしまおう。


 そんなことを考えながら机に突っ伏していると、クラスメイトの男子が誰かへ問いかける。


『知ってる。経済的な理由が主として、その他諸々の訳があって昼間ではなく、夜学校へ通って授業を受ける人たちのクラス。それを夜間学校と言う』


 彼が僕に対して訊いてるわけじゃないのは知ってる。


けれど、僕はお節介のように、まるで辞書みたいな回答を心の中で用意してみせた。


 キザっぽい言い回しなのは、僕が誰にもこれを言葉として伝えないことを前提としてるから。


「いや、違うよ。そうじゃない」


 あれ。違うのか? いや、そんなことはないはずだけど。


「俺の言う夜間学校てのは、一般的な用語のことを指してるんじゃない。この学校内における言葉の意味を指してるんだよ」


 意味がわからない。


「いや、まー、知ってるって」


 僕の知らないことを、質問されたもう一人の彼は知っているらしい。


 微妙なズレが生まれた。


 僕の心の中と、現実世界の回答のズレ。


 ただ、それはよくあることだ。


 珍しいことでもないし、僕はそれ以上心の中で偉そうに回答するのを控えた。


 また、今日の夜のことについてへと思考をシフトさせる。


 けれど、現実世界の彼らの会話は続く。


 聴く気が無いのに点けっぱなしにされたラジオ音声のように。


「要するに、お前が言いたいのはアレのことだろ? 夜、真っ暗な中、電気も付けずにこの学校で展開される授業のこと」


「そう! それ! それだよ! 何だ、知ってるんじゃん! 初手めちゃ適当なこと言ってたぞ、お前?」


「そりゃそうだよ。はぐらかしたくもなる。怪談話としても恐ろしいし、タブー的な意味でも恐ろしい」


「出た。タブー的な意味。この夜間学校の話題出すと、すぐ先生たち指導入れてくるもんな」


「噂じゃ一人の生徒に対して先生たちが代わる代わる授業をしてて、その生徒ってのが不登校の人間で、その不登校の人間はこの学校の校長の孫だとか何とか……」


「何だそのドミノ倒しみたいな話! 聞いてるだけで頭痛くなるわ!」


「頭痛くなったついでにもうやめとこう、このことについて話すの。さっきから向こうで石原先生が睨んできてる」


「うぁっ……! ほんとじゃん……! やべやべ……!」


「次の授業、理科室で化学だろ? 移動しようぜ」


 ラジオが終わった。


 なんとなく終盤だけは聞いていた。


 夜間学校について話すのがタブーで、次の授業は理科室で化学。


 頭を上げて辺りを見回すと、そこには二、三人のクラスメイトがいるだけで、彼ら彼女らも教室から出ようとしてる。


「君も早く理科室行きなさい。次、移動みたいだぞ」


 教室の外から、件の石原先生が僕へ睨むようにしながら言ってきた。


 僕は表向き慌てるように振る舞い、教科書と筆記用具、それからノートを持って廊下へ出る。


 別にまだ授業開始まで時間はある。


 そこまで焦らせてくれなくてもいいのに。


 そんなに睨まなくてもいいのに。


 一つ、二つと小さいモヤが生まれるものの、僕はそれを自分の心の中にあるもっと大きいモヤでかき消した。


 まあいいや。


 今日、どうせ僕は死ぬんだし。


「すみません。今から行きます」


 会釈して、僕は廊下を一人で歩き出す。


 ふと歩きながら思った。


 石原先生には家族がいるんだろうか。


 お父さん、お母さん。いやいや、奥さん、子どもさん、それからおじいちゃんおばあちゃん……。


 愛されて生きてきたのだろうか。


 よくわからない。


 わからないけれど、何となく思う。


 普通に愛されてきたんだろうな、って。


 前、どこかしらのアンケートでも見た。


 世の中の子どもは、七、八割が親から少なからず愛されて育っている、と。


 きっと石原先生もそういう子ども時代を送って、今でも親や家族から愛されてるんだろう。


 あんなに睨んでいても、恐らくそうなのだ。


 僕と違って。






●〇●〇●〇●






『お前がいたから、お父さんは私を捨てた』


 僕の母さんは、僕に対してよくこう言ってくる。


 僕は今、母さんと二人暮らしだ。


 狭いアパートの一室。


 三つある部屋はどれも綺麗に掃除されていて、浴室には香りのするキャンドルが飾ってある。


 母さんは、僕が小さい時から綺麗好きだった。


 何となく聞いたことがある。


 母さんは、どうして部屋を綺麗にしたがるのか、と。


 すると、こう返された。


『お父さんが綺麗好きだから』


 本当に、僕の母さんは父さんのことが好きだった。


 好きだったから、よく父さんへ問うていた。


『私のことを愛しているの?』

『浮気なんてしていないわよね?』

『どうして私のことを一番に考えてくれないの?』


 母さんは心配性だった。


 常に問うていないと気が済まない。


 次第に父さんも疲れていった。


 僕は信じている。


 きっと、父さんは母さんのことを愛していた。


 けれど、あまりにも母さんから問われ過ぎて、自分が母さんのことを本当に好きなのかわからなくなっていった。


 だから、ある日突然家からいなくなった。


 自分のものも、何もかもを置いて、家へ帰って来なくなった。


 いなくなる前に僕は聞きたかった。


 父さんが母さんを好いていたのはわかる。


 けれど、僕は?


 僕は、父さんに好かれていたのかな。


 それまで聞いたことがなかったし、最後に答えて欲しかった。


 たった一度しか聞くつもりはないから。






●〇●〇●〇●






 息が切れる。


 森の中を歩くのがこんなにもキツイとは思ってなかった。


 不安定な地面は僕から体力を奪っていき、なぜか恐ろしくもなんともなかった死への恐怖を増長させてくれる。


 けれど、今さら戻るつもりなんてない。


 死ぬのが怖いから、と家へ帰っても、あるのはまたそれと違った冷たい恐怖だけだ。


 鈍痛のような日々。


 僕を無視する母さんとの生活。


 母さんの幸せを奪い取る存在でしかない僕。


 生きる意味のない僕。


 冷静にそんなことを考え始めると、徐々に正気になれる。


 歩こう。疲れても。行けるところまで。


 死んだような目で、僕はまた歩くスピードを上げた。


 どこまで行けるだろう。


 そんなことを呑気に考えながら。






 無心で歩き続け、夜闇はようやく僕へ寄り添うように降り立ってくれる。


 ライトが無いと歩けない。思ったように前へ進めない。


 そんな状況ではあるものの、目はその闇に慣れてきた。


 おぼろげながら、歩ける場所がわかる。


 これもまた想定外だ。


 暗くなればそこで立ち止まるしかなくて、その場所で死ぬしかないと思っていた。


 もう少し行ける。


 足腰は既に限界に近い。


 かなり歩いた。


 森の深くまで来ていて、ここで死んでも、簡単に僕の死体は見つからないはず。


 それでも、と。


 僕は何かから逃げるように前へ進む。


 進むと、次第に木々の間から丸い月が見えた。


 暗くなるのを、何も見えなくなるのを望んでいたのに、なんてことだ。


 すべてが想定外。想定外だ。


 月光に導かれ、僕は歩く。


 歩いて、歩いて、歩いて、歩いて、歩いて。


 すると、意外な場所へ辿り着いた。


「……これ……」


 思わず声が漏れる。


 目の前に飛び込んできたのは湖だった。


 穏やかで、月の光をその水面に映し出している、幻想的な湖。


 こんなものがあるなんて。


 率直にそう思った。


 疲労もあり、その場に膝をつく。


 そして、一人で力なく笑った。


「……でも、いいか」


 これはこれでいいのかもしれない。


 道具なんていらない。


 僕は今からここに飛び込めばいい。


 飛び込んで、そのまま亡き者になろう。


 それが用意されたエンディングだ。


 ゆっくりと立ち上がり、水の方へ近付く。


「………………」


 少しは躊躇した。


 無言のままに水面を見つめ、今までのことを振り返る。


 過去のことを思い出して、未来のことを改めて想像する。


 ……………………うん。


 背を押されるように、僕は前へ足を踏み出す。


 固くない、ふわふわとしたその先へ。


 ……が、その刹那だった。


「おーい!」


 何者かから声を掛けられる。


 心臓が飛び出そうなほどびっくりして、すぐに振り返った。


「……!」


 視線の先に居たのは、一人の女の子だった。

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