第2章

1 あわただしい孤児院の日常

 朝乃は再びドルーアのサンダルを借りて、玄関から外へ出た。前庭は広く、木が六本もある。そして目立たない場所に、自転車が置いてあった。庭は背の低い塀で囲まれて、かわいらしいデザインの門扉がある。扉にかぎはかかっておらず、今は開けっぱなしだった。

 ドルーアの家は、分譲住宅地にあったらしい。左右を見ると、似たような家々が並んでいる。朝乃は、隣の家の前庭に人が立っているのを見つけた。ひとりの中年女性が、ドルーアの家を心配そうに眺めている。

「―――。――――――?」

 功は彼女に声をかけた。しかし女性はまゆをひそめて、家の中に戻った。

「何ですか?」

 朝乃は功にたずねる。彼女の態度は理解できない。功は何か、失礼なことを言ったのか? 彼はため息をついた。

「警察と警備会社がやってきて、ドルーアの家が気になるのだろう。ただ地球からの移民である俺と、口をききたくないらしい」

 移民という言葉に、朝乃は初めて自分の立場を知った。浮舟の住民からすると、朝乃は外国人だ。しかも敵国である地球からの。朝乃が不安になったのを感じ取ったのだろう、功は安心させるように笑顔を見せた。

「彼女のことは気にしなくていい。たいていの人は親切だ。ただ、たまに彼女のような人がいるから、気を付けてほしい」

「はい」

 朝乃は、功の言うことがあまり信用できなかった。だが、とりあえずうなずいた。朝乃と功は、ドルーアの家の前庭から出ていった。

「あれが俺の家だ」

 功は、ななめ向かいにある一軒家を指す。ドルーアと功の家の間には、歩道があるのみだ。

 たどり着くと、功の家の門扉には、かぎがかかっていた。家を囲むフェンスも、背が高い。つまりドルーアの家より、セキュリティがしっかりしていた。ドルーアは朝乃を、自分の家より安全な場所にやったのだろう。

 門扉を通り抜けて前庭に入ると、小さな滑り台と砂場がある。脇の方には物置もあり、そばに自転車が二台置かれていた。

「子どもがいるのですか?」

 朝乃は、前を歩く功に問いかける。彼は振り返る。

「今月末に産まれる予定なんだ。気が早いと、自分でも分かっているが……」

 照れた様子で、滑り台の方を見る。ちょっとかわいいしぐさだった。

 朝乃は、功の子どもがうらやましくなった。親がいて、その親が誕生を心待ちにしている。自分だけの遊具が、――きっとおもちゃや服も用意されている。孤児の朝乃には、ほしくても手の届かないものばかりだ。

「実は、この家に越してきたばかりなんだ」

 功は、カードキーと指紋認証ボタンを使って、玄関ドアを開ける。

「子どもが産まれるから、あと亡命してからやっと生活も落ちついたし、広い家に引っ越したかったんだ」

 そうしたらドルーアが、自分の近所の家が売り出し中と教えたのだ。ちなみに彼は、隣家の住民が、移民に冷たい態度を取ると知らなかったらしい。功たちが引っ越してきて、初めて知ったのだ。

「だからさきほど、家が散らかっていて片付けていると言ったのですか?」

「あぁ。まだ段ボールだらけで、荷ほどきが終わっていない」

 朝乃と功は、玄関で靴を脱いだ。功の家は、スリッパを履かないらしい。朝乃たちは靴下で廊下を歩き、リビングに入った。

 家は散らかっていると、功は謙遜(けんそん)して言ったのだろう。部屋は、ある程度整理されていた。さすがに隅には、段ボールの箱が五、六個ぐらい置かれているが。朝乃は、妊婦であろう彼の妻が出てくると思ったが、家の中は無人だった。

「奥さんは外出中ですか?」

「妻は朝から、検診のために病院に行っている。そして検診が終わっても、家に帰らないようにメールで頼んだ」

 なぜ功の妻は、帰宅できないのだ? 朝乃は首をかしげた。

「君を邪険にしているわけではないんだ。ただ君には、発信器がついている」

 功は、すまなさそうに言った。

「君をねらって、また誰か来るかもしれない。だから妻には、家に帰らないように頼んだ」

 彼女を危険な目にあわせないために、帰宅しないように言ったのだ。

「すみません」

 朝乃は申し訳ない気持ちで謝る。朝乃は想像以上に、功と彼の家族に迷惑をかけているのだ。功は妻を守るために朝乃から遠ざけているが、彼自身はそばにいる。

 功は危険を承知の上で、朝乃を保護している。その証拠に、彼は麻酔銃を持っている。不審者たちがまた来れば、戦うつもりなのだ。

「構わないよ」

 功は優しく笑った。

「ドルーアから君を守るように頼まれている。それに君は、裕也君の姉でもある。お茶を用意するから、ソファーに座って待っていてくれ」

 功はキッチンの方へ消えていく。家の間取りはドルーアの家とほぼ同じで、予想がつきやすかった。朝乃はソファーに座って、ぼんやりと待つ。前には、ローテーブルが置いてある。右側には出窓があり、明るい光がリビングに入っていた。

 けれど朝乃の気持ちは重い。これから自分はどうなるのだろう。裕也に会いたい。朝乃がうなだれていると、功が盆にゆのみをふたつのせて帰ってきた。彼はローテーブルの上にゆのみを置くと、朝乃の向かいにあるソファーに腰かけた。

「月面の麦茶だ。味は、日本で飲むのとあまり変わらないと思う」

 ゆのみには、暖かい麦茶が入っている。そのにおいをかいだとき、朝乃は懐かしくて涙が出そうになった。日本を離れて、まだ一時間程度しかたっていないだろうに。

 朝乃はうつむいて、静かに泣いた。日本に帰りたい。ついさっきまでの、あわただしい孤児院の日常に戻りたかった。功は無言だった。しばらくすると、ハンカチを差し出す。

「ありがとうございます」

 朝乃は震える声で受け取って、顔をふく。呼吸を落ち着けてから、功の方を見た。

「失礼なことを言うが、君はくさい。多分、ドルーアも君のにおいに気づいている」

「え?」

 予想外で、さらに失礼な言葉に、朝乃は驚いた。

「地球から来たばかりだからだろう」

 功は朝乃を観察しつつ、しゃべる。

「月面では、肉や卵や乳製品は高級品だ。日常的には食べられない。その結果、月面で暮らすと体臭が少なくなるんだ」

 朝乃は、そういう話を聞いたか読んだかしたことがあった。月面人は穀物や野菜ばかりを食べる、対して地球人は肉をよく食べる。結果、地球人の方がくさくなると。

 それに朝乃は、ドルーアは人のにおいがしないと感じたことがある。つまり彼は無臭ではなく、体臭が極端に少ないのだ。

「だからと言って、君が地球から瞬間移動で来たばかりと信じたわけではないが」

 功は苦笑する。

「それから、これは俺より君の方が強く望んでいると思うが、裕也君と連絡を取りたい」

 朝乃は大きくうなずいた。弟がすべてを知っているはずなのだ。

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