宇宙空間で君とドライブを

宣芳まゆり

第1章

1 日常は、ある日いきなり崩れ落ちる

 日常は、ある日いきなり崩れ落ちる。もしかしたら予兆はあったのかもしれない。けれど子どもだった朝乃(あさの)には分からなかった。ある日、いきなり地球と月は戦争を始め、両親は帰らぬ人になった。

 そして十七才になった今、朝乃はエプロンをしめて、ひたすら食事を作っている。今夜はカレーライスだ。

「たまねぎが目にしみるよ」

「そのうち慣れるから、我慢して」

 孤児院の調理室で、泣き言を口にする年少の子どもたちをなだめる。

「ねぇ、自動野菜切り機を修理しようよ」

「お金がないから無理。たまねぎは包丁で切ってちょうだい」

 じゃがいもの皮をピーラーでむきながら、朝乃はそっけなく言った。孤児院はとても貧乏だ。六、七年前は金もものも十分にあり、職員やボランティアたちもいっぱいいた。だがちょっとずつ金が減っていき、大人も減った。

 結果、炊事や洗濯などは子どもたちでやる。なので朝乃は毎日、掃除だの赤ん坊の世話だのにいそがしく、学校には通っていない。

「どかーん。月面都市にミサイル落とせーっ!」

「びゅーん、びゅーん! 火星に到着」

 まじめに働かずに遊ぶ男の子たちに、朝乃はため息をついた。調理室のすみに置いてあるベビーベッドで、赤ん坊が泣いている。

 朝乃は、子ども五十一人と大人三人が食べるだけのじゃがいもを、手早く切っていく。調理室はせまくないが、十人ほどの子どもたちが動き回れば、さすがにせまい。

「朝乃、まいちゃんがおなかすいたって言っている。まいちゃんがはやく食べたいって」

「しん君が私をたたいた、赤ちゃんにうるさいから死ねって言っている。朝乃! 聞いてよ」

 女の子たちが左右から話しかけてくる。

「はいはい、分かった。……え?」

 朝乃は、ふと背後に人の気配を感じた。包丁を持ったままで振り返ると、詰めえりの黒い軍服を着た青年が立っている。そで口とすそに赤い鶴のししゅうが入っていて、意外に派手だ。

 朝乃と同じ年ごろだが、表情は暗く、顔色も悪い。黒髪はぼさぼさで、おかっぱのようになっている。目つきは剣呑で、ただものではない雰囲気だった。

 軍人なんか、この部屋にいなかったし、そもそも孤児院に来るはずがない。朝乃は恐怖を感じて、あとずさった。調理室にいるほかの子どもたちも、彼の存在に気づいた。一気にあたりは静まりかえる。

「超能力者だ」

 ひとりの男の子がしゃべる。

「さっきまでいなかったのに、突然ぱっと現れた」

 その瞬間、朝乃を除く全員が悲鳴を上げて、軍人から離れた。めったにいないが、すごい超能力者たちは、人を火だるまにしたり首を折ったりできるのだ。朝乃も逃げようとしたが、軍人の視線につかまって、体が動かない。

 助けて、とほかの人たちに視線で訴えたが、ここには子どもしかいない。この場の年長者は、朝乃だ。頼りになる大人たちは、別の部屋や孤児院の外で働いている。だから朝乃が、子どもたちを守るべきなのだ。

「え、え」

 栄光ある国軍兵士の方が、何のご用でしょうか? 私どもでできることならば、なんでもいたします、としゃべるつもりが、恐怖と緊張で舌がもつれてしゃべれない。孤児たちはへりくだり、つつましく暮らしていないと何かと文句をつけられるのだ。

 けれど朝乃は、軍人の顔に見覚えがあることに気づいた。

「裕也(ゆうや)?」

 信じられない思いで、問いかける。すると彼は、ほっとしたようにほほ笑んだ。

「よかった。朝乃が俺を分からなかったら、この場で死ぬつもりだった」

「何をおおげさな」

 朝乃は、包丁をまな板の上に置いて笑った。だいぶ人相が変わったが、彼は朝乃の双子の弟だ。

「なんでここにいるの? 宇宙にいるはずなのに」

 裕也は少年兵だ。裕也のみならず、孤児の少年たちはほぼ全員が、十六才になれば戦場へ行く。裕也は去年、従軍して以来、ずっと地球の周回軌道上にある軍用宇宙ステーションにいるはずだが。

「裕也?」

「本当に?」

 周囲の子どもたちが、おそるおそる裕也に近づいてくる。裕也は子どもたちを見て、朝乃と同じ垂れ目の両目を優しく細めた。そして今生の別れのように、朝乃を抱きしめた。朝乃はびっくりしたが、すぐにしっかりと抱きしめかえす。

「よく分からないけれど、無事でよかった」

 裕也とは、連絡さえ取れなかった。少年兵たちはみんな安全な場所で働くと軍から説明を受けたが、それでも心配だった。

 もう二度と宇宙に行かないで、と言いそうになる。裕也とは、産まれたときからずっと一緒にいた。だから彼がいなくなって、朝乃はさびしかったし心細かった。すると裕也は、

「さっさと送った方が安全だから、必要なことだけを言う。自分の身は、自分で守ってくれ」

「え?」

 朝乃はとまどって、聞き返した。

「一応、朝乃を守ってくれる男のところへやるけれど、自分で自分を守ってくれ」

 裕也は朝乃の体を引きはがして、目を合わせた。

「約束してほしい」

 真剣なまなざしに、朝乃はわけが分からないままに、うんと返事した。裕也は少しだけ、表情を緩ませる。

「本当に危ないときは助けに行くから、俺を信じて待っていて」

「さっきから何を言っているの?」

 朝乃は不安になって、裕也を問い詰めようとした。だが裕也は、朝乃の片手を両手で握ると、朝乃の体をぽーん! と宙に投げる。朝乃は目を丸くする。

 真っ白い空間の中、朝乃の体はゆっくりと落ちていく。二、三秒後、バフン! と音を立てて背中から着地した。黒い革張りの大きなソファーだ。

 朝乃は目をぱちぱちさせて、周囲を見回した。どこかの家のリビングだ。ただ普通の家より、かなり広い。

「ここはどこ?」

 朝乃が今、座っているL字形のソファーに、これまた大きい木製のローテーブル。ソファーの正面の壁には、絵画やポスターが飾られている。さらに、上に通じる階段があった。

「裕也、どこなの?」

 問いかけても、返事はない。そもそも朝乃以外、誰もいない。朝乃はどうすればいいのか分からなくて、ぼう然とする。背後から、音がした。振り返ると、知らない男性がドアを開けて、緑色の目を丸くしていた。

 優しげな顔だちで、こげ茶色の髪はふわふわと柔らかそうだ。上は薄手の青いセーターを着て、下は濃い灰色のジャージをはいている。中肉中背で、多分、二十代か三十代だろう。日本で生まれ育ち、日本から出たことのない朝乃は、初めて外国人と出会った。

 日常は、ある日いきなり崩れ落ちる。もしかしたら予兆はあったのかもしれない。けれど毎日の家事や育児などに追われて、ぜんぜん気づかなかった。

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