『白雨の中で』

『雪』

『白雨の中で』

 なんでも無い帰り道、季節外れの夕立に降られた私達は近くの公園に設置された屋根付きの休憩スペースに駆け込んだ。大きく肩で息をしながらも、雨宿り出来そうな場所に辿り着けた事に安堵の溜め息を溢す。


 先程まで身体中に打ち付けていた豪雨と、此処までの長い道のりを全力疾走した事で身体中から吹き出す汗が髪や服に纏わり付き、それが肌にべったりと張り付く感覚が気持ち悪い。

 隣には同じように全身から滴らせた水気を払い落とすように、手で拭う知り合いの少年の姿があった。彼は休憩スペースの端に自販機があることに気付き、雨で重くなったであろうその鞄から財布を取り出すと、ズカズカと自販機に向かって歩いていく。

 私も何か買おうかな、と湿気に入り混じった蒸し暑さに辟易しながら、鞄をベンチに下ろして財布を探す。鞄の中に入っているのは、お弁当と財布くらいで教材は軒並み学校のロッカーに置いていたのが功を奏していた。鞄の中にまで雨は染みていたが、被害は大きくないだろう。スカスカの鞄からお目当てのものを探し当てたその時だった。

 ほらよ、と彼に声を掛けられ、振り返った私の視界に映るのは、此方に向けて緩やかな速度で飛来する青いラベルのスポーツ飲料が入ったペットボトルだった。放物線を描きながら向かってくるペットボトルを済んでのところでキャッチすると、彼は何事も無かったかのように背を向けて、私が手にしたペットボトルと同じものを飲み始めた。両手の間に挟まれたペットボトルはよく冷えており、指先からすっと熱が引いていくかのようだった。


「何? 奢ってくれるの?」


 冗談めかしてそんな風に問い掛けるが、視線すら寄越さずに運が良かっただけ、と自販機を指差す。彼が示した方向に目を向けると、調子外れなメロディーを垂れ流す自販機の姿があった。自販機本体にもデカデカと「当たりが出たらもう一本」と書かれていた。

 成る程、今朝の星占いで堂々の一位な事はある。そんな場違いな感想を抱きながら彼にお礼を言う。

 蓋を回して開くと、プラスチックのネジ切れる小気味の良い音が雨に交じって鳴り響く。ペットボトルを傾けて一口分の中身を口に含むと、舌先に甘味と塩味の入り交じる不思議な味がする。そのまま嚥下し、喉を通って行く清涼感は不快な湿気を吹き飛ばしてくれるような気さえした。


 降り頻る雨の中、私達は黙ってペットボトルを傾ける。雨足は徐々に強さを増して行き、僅か数メートル先の景色すら真っ白に染まってしまう。チラリ、と彼の方を見ると既に空っぽにしていたその容器を弄びながら、つまらなさそうに雨の向こう側、遥か遠くの景色を眺めていた。




 思えば彼とも十年そこらの長い付き合いになる。極端に家が近いという訳でも無いし、とりわけ趣味が合うという訳でもない。どちらかと言えばアウトドア派の私と、インドア趣味の彼では同じ部活に所属する事もなかったし、クラスが一緒だったことも指折りで数えられる程度だ。

 けれど不思議な事にどちらが言い出した訳でも無いにも関わらず、一緒に過ごした時間が圧倒的に多い。男女間の隔たりが殆ど無い小学生の頃ならまだしも、中学や高校生になった今この瞬間も変わらずに共に過ごしている。


 男女の友情は成立しない、みたいな下らない通説は知り合いや友人達から何度も聞かされたのだが、そもそも彼に友情みたいなものを感じたことがないので、その感覚は今イチよく分からない。私にとっても、そして彼にとってもきっとお互いに意識するまでもなく、そこに居る事が当たり前なのだ。

 でもこの感覚はきっと私達以外の誰にも理解されない。見下したい訳でも無い。ただ事実として私達はそう認識している。この多様化の時代において、未だに人々は凝り固まった固定観念みたいなものに捕らわれている。

 故に本当は付き合ってるんでしょ、みたいな下世話でお節介な話を振られる事があったとしても、のらりくらりと躱して、それなりに上手く煙に巻いて来たつもりだ。見ず知らずの誰かの為にわざわざ噂の的になんてなる必要は無いのだから。


 だが、改めて好きか嫌いかみたいな単純な二択で問われれば、まぁ好きだと答えられるくらいには彼の事を好いている自覚はある。けれどそれが、世間や友人知人達の言う『好き』かと言うとどうだろうか。正直なところ、自信は全く無い。

 街中で見掛けるカップルや恋人達のように自分達がなれるビジョンというものがまるで想像付かない。あんな風にベタベタと互いの事を想い合うなんてきっと出来やしない。

 私達の関係は何処までいったって日常に当たり前にある景色の一端なのだ。欠けることも満ちることも無い。ただ、そこにある。そんな些細な関係のはずだ。




 そんな事をぼーっと考えていたが、ふと雨音が小さくなっている事に気が付く。視線をそちらに寄越すと、いつの間にか雨はかなり小降りになっており、鈍色の雲はすっかりと薄まって遠くに青い空が透けて見える箇所も出てきていた。

 暫く待っていると小降りの雨も完全に止み、すっかりと青空に戻っていた。あちこちに出来た大小様々な水溜まりを蒸発させるような勢いの熱量を放つ太陽が燦然と輝いている。


「やっと帰れそうだね、早く帰ってお風呂入りたいよ」


 そう声を掛けてみるが、向こうを向いたままの彼は何も言わない。何にも言ってくれないなら置いて帰るよ、と少しだけムッとしたように告げると溜め息を溢して彼はこちらを向いた。

 相変わらず何を考えているか分からない仏頂面だが、その視線だけはまだ余所を向いたままだ。濡れそぼった髪をかき揚げて後ろに流すように纏めている。所謂オールバックのような状態で、普段見掛ける事の無いその姿にドキリとしてなんだか妙に落ち着かなくなる。長袖のシャツもインドア趣味の癖に妙に筋肉質な素肌にピタリと張り付いて、なんだか彼であって彼でない誰か別の人を見ているような気さえしてくる。


「……帰るのは良いけどさ、自分の格好理解してる?」


 ぶっきらぼうに告げられたその一言に思わず首を傾げる。そして、今一度彼の姿を改めて視認し、漸く私の状態を認識するに至った。

 声にならない悲鳴を上げ、彼の胸板に力一杯に拳を叩き付けて背を向ける。いくら腐れ縁とはいえ、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。道理で此処に着いてからよそよそしい訳だ。というか気付いてるならもっと早く教えて欲しかった。

 その場に踞った彼はくぐもった声で理不尽だ、とぼやきながら立ち上がる。何度か咳き込みながら、胸元を擦るとまた先程のように向こうの方を向いた。

 私はスカスカの鞄をもう一度漁るが、ブレザーは夏服着用可能になったその日からクリーニングへ直行し、現在はクローゼットの一角で眠っている。また、今日は体育がある日では無い為、当然の如く体操着なんて持ってきていない。こうなると後は鞄を抱えて歩くくらいだが、そうなると背中がノーガードという事になる。

 そもそも折り畳み傘すら持ち合わせていないというのに、季節外れの夕立に降られる用意なんて出来ているはずも無い。自然乾燥するまで待つのも手かもしれないが、明日の私は風邪を引いているに違いないだろう。打つ手のなくなった私はもう一度溜め息を付いた。

 暫くの間、私達は黙って各々が別の方向を向いていた。時間が経つにつれ、気温とは裏腹に身体は少しずつ冷え込んでくる。微かに身震いする私の肩に掛けられたのは紺色の学校指定のジャージだった。


「それ着るか、嫌ならその格好で帰るか。好きな方を選べば?」


 彼はぶっきらぼうにそう告げてまた背を向けた。彼のジャージは思っていたより大きく袖を通すと、肩幅が足りずにぶかぶかとした印象を与える。本当はビショビショになったシャツは脱いでから着たかったけれど、流石にこの状況下では諦めざるを得なかった。

 何処かで好きな相手の匂いはいい匂いだと聞いた事はあるが、ジャージから仄かに香る彼の香りはそういった類いとはまた違う、落ち着くような安心感のある香りがした。


「これ、借りるね。……ありがと」


「……おう」


 ジャージのチャックを首元まで上げて、鞄を肩に掛け直す。私達は公園を出て再び帰路に着く。いつの間にか空は綺麗な茜色に染まっていた。




 結局、あのまま殆ど会話らしい会話も交わす事も無く、私達は足早に各々帰宅する事になった。私の方はというとお風呂に入ったり、晩ご飯を食べたり、しながらいつもと変わらない日常のタスクをこなす。歯も磨いて、後は寝るだけになったところで、メッセージアプリで彼を呼び出して、今日もまた都合が付きそうだったので通話する事にする。


「今日はありがとね、助かった。ジャージは明日返すね」


 お礼を言い、学校の宿題の話や下らない世間話に花を咲かせる。平日は毎日顔を合わせているし、通話の方もかなりの頻度でしているのだが、不思議と話題は尽きない。SNSで話題のスポットに行ってみたいねだとか、通話越しに聞こえるゲームの効果音に茶々をいれてみたりして、眠くなるまでダラダラと過ごす。

 いつの間にか聞こえなくなったゲーム音に気が付く頃には会話もまばらになり、言葉の合間合間に欠伸が混じり出すあたりでまた明日とどちらが言い出す訳でもなく通話を切った。


 微睡む意識の中、今日も楽しかったなぁと回らない頭でそう呟く。明日もその先もずっと今日みたいな何でもない日が続けば良いのに、と我ながら子供じみた事を考えている内に意識は深く深く、暗い闇の中に沈んでいった。

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