月浜定点観測所記録集 第六巻
此瀬 朔真
炎と告解
炎はいつも此処にある。
だから人は集う。冷たい手を翳すため。
炎はいつも此処にある。
だから人は憩う。疲れた体を癒すため。
炎はいつも此処にある。
だから人は厭う。罪と秘密を隠すため。
炎はいつも、此処にある。
遂げられなかった告解を、抉じ開け、晒し、照らすため。
被告人は一人。
弁護人は一人。
裁判官は二人。
陪審員は四人。
許されたのは、ただ一夜。
扉を閉めて始めよう。
机を囲み、始めよう。
灰も残さず、燃え尽きるまで。
貴殿は陪審員に選定されました。
つきましては、以下の日時に――
白い封筒の中身は無機質な通知が一枚入っているきりだった。
指定された時刻は深夜、到底裁判が行われると思えない街には人影もほとんどなく、先ほどまで煌々と点っていた電波塔も保全灯が赤く光るのみだ。もちろん終電はとうに去っている。通知書の付記にあった交通費が支給されるとの文言に従い、四人は各自で集合場所へ向かった。
無論、ここは裁判所ではない。
「ここで合ってんだよな? ったく一般人には面倒事ばっかり押し付けやがって、これだから公務員は。税金泥棒だよ」
先頭にいた井坂義之は忌々しげに呟き、ドアノブを捻る。
細い通路を覗き込んだ先にある、平原。
立ち尽くす四人に気づき、平原――巨大な机の向こう側に座した二つの人影が顔を上げ、同時に立ち上がった。
「ご足労いただきありがとうございます」
「こちらへお掛けださい」
そう告げて、揃って会釈する。暗くした照明のせいか表情が不明瞭だった。
机は大まかな長方形をしており、短辺を入り口に向けている。裁判官が片手で示したのは机の長辺に四つ並んだ木の椅子だった。
――偶然かしら
芳賀裕子は、過去に欧州へ旅行した際立ち寄った大聖堂を思い出した。そこで腰かけた椅子と、今目の前にある椅子は似通った造りをしている。
そのとき隣にいたのが何人目の恋人だったかは覚えていない。
夫でなかったことだけは確かだ。
「あの」
気弱そうな声で六嶋智花が言う。
「どれくらいかかるんですか? 明日一限から授業で」
明日は試験の出題範囲が発表される。ただでさえ出席日数が足りず、おまけに進級がかかっている。遅刻をするわけにはいかなかった。
「進行次第です」
切実な問いには素気無い返答があるのみだ。平凡な学生の生活に大した価値はないと人前で宣言されたように感じた六嶋は差別的な扱いに耐え切れず俯いた。しかし抗議はせず、周囲から見えないように膝を揺する。
――だっさ。ていうか、みんな早く帰りたいに決まってんじゃん
仁科春樹は本来であれば朝までアルバイトの予定があったが、やむなく同僚に交代を頼んでいる。埋め合わせはすると言ったものの、どうせ食事をたかられるのはわかっていた。同僚は無料で酒が飲めるとわかると一切遠慮をしない。
理不尽な理由で軽くなる財布を思うと舌打ちしたい気分だった。
再び、鈍い音を立ててドアが開く。
「こんばんは」
やってきた人物は良く通る声をしていた。一同に深々と頭を下げる。まったく乱れのない髪、黒縁の眼鏡、黒いスーツ。すれ違ってもすぐさま顔を忘れそうな印象の人物だった。椅子を引いて腰かけ、次々に書類を取り出す仕草にもそつがない。胸元に金色のバッジがあり、それでやっと弁護士であると知れた。
改めて見ると、奥に腰かける二人組も黒い服をまとっている。弁護士とは違う、ロングコートやマントのたぐいだ。おとぎ話に出てくる魔法使いに似ていた。
つまり、彼らが裁判官ということらしい。
四人は無言で現在の状況を把握していく。
自分たち――陪審員は四人。
弁護人は一人。
裁判官は二人。
残る空席は、弁護人の隣にひとつ。
ノックの音が二回。
「被告人、入室します」
ぎいと、蝶番が軋んだ。
気配は複数あった。ばらばらの足音が近づいてくる。
制帽を目深にかぶった男たちに伴われ、正確には半ば引きずられるようにして、最後の一人が入室した。
毛玉だらけのスウェットは首元が伸び切って、染めた髪は根元の黒い部分との対比が痛々しいほど目立つ。歩くたびに甲高い足音がするのは安いサンダルでも履いているせいか。積極的に逆らいもしないが従順でもない、そんな態度だった。
他人を不躾に眺めるのは褒められた行為ではない。
しかし、実際目の前に罪を犯した人間が現れたら、誰しもが見ずにいられないだろう。動物園にいる珍獣と似たような生き物なのだから。
陪審員である四人にとっても、同じことが言えた。
よって彼らは咎められないように横目で視線を送り、そして揃って息を呑んだ。
被告人には顔がなかった。
両の眉と唇を弧の一部とするやや歪んだ円。その内部が塗り潰されたように、切り抜かれたように真っ暗だった。黒い塗料を塗っているのではない。本来あるはずの目や鼻、それらの作る凹凸が、少なくとも肉眼では見出せなかった。
あらゆる光を通さない暗闇を円い面に仕立ててかぶる、奇妙な覆面であるとも見えた。
四人は弁護人と裁判官、そして被告人を連れてきた刑務官らしき人物の様子を盗み見る。彼らにはまったく動揺の色がなかった。それどころか、弁護人は隣に腰かけた被告人に何やら話しかけてすらいる。それは、大丈夫ですからねとか、正直に話せば良いのですとかいう励ましの言葉なのだった。
陪審員たちは互いに目配せし、自分の見ているものが幻ではなく現実の光景として共有されていることを確かめる。
深夜に行われる裁判。密室の裁判所。影のような裁判官。虚無のような弁護士。そして、顔のない被告人。
何もかもが奇妙だった。
しかし四人は誰ひとりとして席を立たない。
被告人の背後――入り口へと続く通路を塞ぐように立つ刑務官の存在以上に、彼らの脳裏に過ぎるのは通知書に記載された報酬の文字だ。
何かの間違いではないかと疑うほどの法外の額を失うのは惜しかった。第一、あくまで自分は陪審員だ。自分の裁判ではない。裁かれる身ではない。命を失うような事態になるはずがない。
たったひと晩、ほんの少し気味の悪い思いをすれば、大量の金が手に入る。
楽天的な思考とそれでもまだ拭えない不安とがない交ぜになり、陪審員たちは固い椅子のうえでわずかに身じろぎする。
「ご起立ください」
出し抜けに裁判官が告げる。
弁護人はやはりそつなく、被告人はのろのろと立ち上がった。四人もそれぞれ椅子を鳴らしながらその場に立つ。
「定刻になりました。それでは――開廷します」
深々と、またはわずかに、一礼。
沈黙のさなか、遠く消防車のサイレンが聴こえる。
「ではまず、被告人の罪状について改めて説明をいたします」
裁判官の一方が書類綴じを開いた。小さく咳払いして、内容を読み始める。
「第一項、苦痛の売買。第二項、衆愚の再誕。第三項、慈愛の遺棄。第四項、沈黙の強制。そして」
なぜかそこで、裁判官は言葉を切った。
「第五項、罪の忘却。以上、被告人は五つの罪に問われています。……被告人、訂正はありませんか」
部屋じゅうの視線を集めた真っ黒な顔の被告人は、黙ったまま小さく頷いた。
「次に各罪状について、詳細を陳述します」
裁判官はさらに話を続ける。
「第一項、苦痛の売買について述べます。被告人は、歩道にて意識喪失の状態であった傷病人を発見したが一切の救助を怠り、この様子を私物のスマートフォンにて撮影しました。この映像はインターネット上の動画共有サイトにて公開され、被告人は映像に対する広告費として多額の金銭を受け取りました」
自分の指が少しだけ動いたのを、井坂本人も気づかなかったかもしれない。
「この後別の人物によって救護活動が行われましたが、傷病人は搬送先の病院で死亡しました」
ちょうど仕事が休みの日だった。
昼から酒を飲んで気分良く帰る道すがら、近道をしようと立ち入った路地裏に人が倒れていた。さっそくスマートフォンを取り出し、向けた。録画が始まったことを確かめてから、大丈夫ですかと尋ねる。返事はない。辺りにも人影はなく、ならば咎められる心配もない。出血でもしていればもっと見栄えする映像になるのに、気の利かないやつだ。そう考えながらなおも舐め回すように撮った。
ひと通り撮影すると、振り向きもせず家路を急いだ。用済みの被写体には既に興味がない。今すぐこの動画をアップロードしなければ。
反響は大きかった。井坂を非難する声は多数あってもただの偽善であることは膨れ上がる視聴回数が物語った。動画が再生されるたびに流れる広告が金を積み上げる。結局アカウントは停止されたが、収入はかなりの額になった。
名無しの視聴者どもが偽善者のくせに通報などするから、もっと稼げたはずの金を失った。井坂はそう思っている。
既に新たなアカウントを取り直し、そこで再び動画を公開している。これ以来井坂は路地裏を好んで歩くようになった。人が倒れていそうな場所をうろつき、スマートフォンの電池残量に常に気を配る。それが井坂の新しい習慣だった。
動画はもちろん、井坂本人とは結びつかない形で投稿している。
本気で調べればたちまち身元は割れるだろうが、人を非難するコメントを投稿すれば世のなかの役に立ったと感じるようなクズしかこの世にはいない。だから、何の心配もしていない。
「傷病人の遺族は被告人に対し、謝罪と広告料の返還を求めています。しかし、被告人はこの要求に未だ応じていません」
――なんで応じなくちゃいけねえんだよ、そんなもん。馬鹿かよ
声に出さず井坂は罵る。責められるべきは助けも求めず勝手に死んだどこかの誰かだ。そうでなければ、掃いて捨てるほどいる無責任でウジ虫みたいな視聴者どもだろう。広告費だって正当な対価だ。自分は何も悪くない。
他人がたまたま自分と同じことをしてしくじった。偶然の一致に侮蔑の感情は膨れ上がる。俺のようにうまくやれば逃げ切れたろうに。馬鹿なやつだ。
「被告人。ここまでの説明に、訂正すべき点はありますか?」
返答はなかった。ただ真っ黒な顔を伏せて座っている。裁判官はそれを気にも留めず、説明を続ける。
「第二項、衆愚の再誕について述べます。被告人はある殺人事件の犯人として、関係のない人物の実名と顔写真をインターネット上に公開しました。この人物は自宅住所の特定、職場への押しかけ、その他不特定多数からの嫌がらせを受けて退職を余儀なくされ、現在精神科での入院治療を受けています」
仁科は右の瞼が痙攣したのを覚えた。咄嗟に目が乾いたふりをして数回瞬きを繰り返す。
アルバイト先の飲食店に通う女だった。態度は横柄で飲み食いする様は下品としか言いようがなく、いつもトイレを汚して帰る。女がやってくると店員たちの士気が目に見えて下がるのがいつも憂鬱だった。とにかく気に入らない女だった。なんとかしてもう店に来なくなれば良いのに、と仁科は思っていた。
店の近所で殺人事件が起きたのはその矢先だった。拗れた別れ話の末に咄嗟に刺してしまった、そんなありきたりな話だった。
そんなありきたりの話に、普段の仁科であれば興味を示さないはずだった。
鬱積した感情が背中を押しただけだ。以前、無理やり二人で撮らされた写真が手元に残っていた。女の顔を慎重に切り出し実名を記し、適当な告発文を添えて送信ボタンを押すともうやることは終わった。
面白いくらいに反応があった。最初は愉快だったが次第に怖くなってきたので投稿を削除した。しばらく考えてから、アカウントも消した。しかし誰かが投稿内容をコピーしたらしく、情報の拡散はもはやどうしようもないように思えた。今も、検索すると複製の繰り返された仁科の投稿が大量に見つかる。
仁科自身は、女が店に来なくなったのでそれで構わなかった。大体店に迷惑をかけなければ、こんな目には遭わなかったはずだ。だからあいつにも責任がある。一件目では人が死んでるけど、あいつは病院通いで済んでるんだからまだましだ。むしろ刺されなかっただけラッキーじゃないのか。仁科はそう思った。
腹いせは済んだ。あとは騒ぎたいやつが勝手に騒げば良い。そう思っていた。
「これまでに三名が、虚偽の情報の拡散、並びにこの人物の自宅や職場を不当に訪問した疑いで逮捕されています」
今、被告人として糾弾されているのは仁科ではない。奇妙な偶然ではあるが、被告人は仁科と同じことをして訴えられている。バレたら面倒だった、と仁科は内心胸をなで下ろす。さっさとアカ消ししておいて正解だった、良かった。
――ていうか、俺が責められるなら、家とか仕事場特定した連中も悪いだろ。大体、似たような事件とかたくさんあるし。俺だけが悪いって変じゃん
「被告人。ここまでの説明に、訂正すべき点はありますか?」
再びの問いかけにも、真っ黒な顔を俯けたままぴくりともしない。
呼吸をしているのかすら怪しかったが、わずかに両手の指を震わせているのが見えた。乾いた皮膚越しに骨の形がはっきりとわかる、筋張って固い指だった。
「では、次の陳述に移ります」
裁判官はほとんど被告人を無視して、なお書類を読み上げる。
「第三項、慈愛の遺棄について述べます。被告人は長年交際していた相手と婚約したにも関わらず、一方的にこれを破棄しました。相手に愛情を感じなくなったと述べていますが、婚約破棄とほぼ同時期に別の人物と交際を始めていたことがわかっています」
芳賀裕子は落ち着き払っていた。組んだ足にも、机に置いた手にも一切動揺を現さなかった。
――当然じゃないの
芳賀はそう内心で言う。
――だって私のせいじゃないんだから
つまらない男だった、と今は思う。
派手な遊びばかりではいずれ疲れる。休憩したくなる。そう思っていた矢先に現れたのがあの地味な男だった。
こちらの気を引くような真似は一切しない。駆け引きは当然皆無で、ひたすらまっすぐにぶつかってくるだけの不器用さが、当時の自分には癒しに感じられた。実際、一緒にいると気持ちが波立たず穏やかで、それは案外悪くなかった。
そろそろ遊びからは手を引いて身を固めようかと本気で思った。そのときは。
安らぎというものは存外心地よくて、香水と煙草の匂いの寝床で毎晩違う男と過ごしていた日々はあっさり遠ざかった。清潔なシーツに横たわって静かに眠る男を見ているとひどく心が凪いだ。
冷たくあしらえば悲しそうにし、気まぐれに慈悲を見せればこのうえなく喜ぶ。犬でも飼ったような気持ちで最初はいたのに、いつの間にか絆されていた。
けれども、と芳賀は思う。凪いでばかりじゃ、船は漁にも出られない。
最初は仕事が長引いたと嘘をついて、月に一度ばかり。それがすぐに週に一度、日に一度と増えていった。華やかな服は今でも身体にぴったりと沿ったし、瞳に暗い灯ばかり点した連中とほんの数時間を恋愛ごっこで過ごすのはやはり愉快だ。気だるい汗に髪をかき上げ、やめていた煙草を深々と吸うと懐かしい酩酊が脳の隅々まで痺れさせた。
恋人とすら呼べない相手を作っては取り替える。気まぐれに縁を結び飽きればあっけなく切る。私はやっぱりそういう生きかたが向いている。鳴り続ける電話を放り出して何夜も遊んだ。
久しぶりに自宅に戻ると案の定男は激しく叱責してきたが雑音ですらなかった。一切耳を貸さずにスーツケースに荷物を詰め、化粧を施し、知り合ったばかりの若い男に連れられて海外へ出かけた。美しい教会はそこで見た。やはり美しく、華やかで、賑やかでなければ。
人間なんてみんな飽き性なのだ。どんなに尊い教義だって、飾らなければ誰も見向きもしない。
帰宅すると男はいなくなっていた。短い置き手紙に何が書いてあったか芳賀は覚えていない。正確には、目を通す前に煙草と一緒に火を点けて台所のシンクに捨てたから、内容すら知らない。
「被告の元婚約相手は、婚約破棄後に実家へ戻り、家業を継ぎました。しかし、経営難に陥り破産、多額の借金を苦に昨年自殺しています」
勇気のない男だと思っていたが、自殺ができるくらいの度胸はあったらしい。そこは褒めてやっても良いと芳賀は思う。
自分を楽しませないものに価値はない。安らぎは結局鎮痛剤みたいなもので、一時的な誤魔化しに過ぎず、渇望を真の意味で癒すことはない。
あのときは単に、疲れていたのだろう。味の濃い料理のあとに飲む水が美味いように。ウェストを締め付けるドレスを脱ぎ捨てた解放感のように。
必要ないから捨てた。それを咎められる理由など、ない。
「被告人。ここまでの説明に、訂正すべき点はありますか?」
芳賀は冷たい視線を被告人に注ぐ。
うまくやらなきゃだめなのよ、馬鹿ね。私ならあんたみたいに、こんなことでしくじったりしないわ。
被告人は相変わらず顔を伏せ、じっと座っている。震える指を今は固く組んで、あまりに力を込め過ぎたせいか両手が真っ白になっていた。
「では、次の陳述に移ります」
裁判官はさらに書類をめくる。
「第四項、沈黙の強制について述べます。被告人は特定の書籍の発行を阻止するため、出版社に対し集団で業務の妨害を行いました。本社ビル前でのデモ活動、虚偽の情報の流布、著者への誹謗中傷などを執拗に繰り返し、この結果出版社は書籍の発行を撤回しました」
六嶋智花は小さく首を傾げた。
――どうしてそれが、悪いことになるの?
そう言いたげな表情だった。六嶋も、被告人と同じことをしていたからだ。
悪い本は人を染める。悪い思想は人を悪くする。だから止めなくてはいけない。インターネットには賢い人がたくさんいて、今の社会は本当にひどい差別が蔓延していることを教えてくれた。大学では教えてくれないことだ。もちろん、大学だって最低の場所。早く単位を揃えて卒業して社会を変えていかないといけない。そもそも大卒じゃないと話を聞いてくれない世の中なんて変だ。だから仕方ないけど、耳を傾けてもらうために頑張って通っている。
あの本の内容を聞いたときにはめまいがした。差別を助長する、誤解を広げる本物の悪書だった。あんなものが出版されたら悲しむ人が増える。
誰かを虐げるような考えは排除しないといけない。差別する人は排除しないといけない。自分と異なる考えを受け入れられない愚かさは排除しないといけない。多様性ってそういうことでしょ。
ネット上の署名活動は何度も参加したし、有用そうな投稿はどんどん共有した。あの本を支持する人たちは全員悪人だから名前を挙げて攻撃した。絶対に出版は阻止しないといけない。あるとき仲間がもっと具体的な行動に出ようと提案して、すぐに賛成した。ビラを作って出版社の前で配った。その様子がニュースに取り上げられてものすごい反響があった。賛成してくれる人たちは仲間に加わった。この問題について無関心な人たちも、反対する人たちと同じくらい悪だ。だからこぞって攻撃した。そういう活動を毎日続けながら授業に出るのはすごく大変で、でも仲間が励ましてくれたからなんとか続けられた。
みんながいてくれる安心感と、私たちの――私の行動は正しいという確信が、私の支えになってくれた。
そしてとうとう出版を取りやめると発表があったとき、私たちは狂気のように喜んだ。正しいことはいつだって勝つ。悪は正義に勝てない。
悪を行うやつらには、何をしたって良い。
「既に書籍の印刷段階に入っていたため、印刷会社が損失の補填を求めて訴訟を起こしています。また、著者はこの影響によって大学での職を追われました」
当たり前だよね、と六嶋は思う。悪いことをしたんだから、償わないと。
でもこの人は、と六嶋は被告人を見る。この人は、悪いことはしていない。
この人は私と同じことをした。正しいことをした。他のことはわからないけど、これについては何も悪くないと思う。さっき、明日も早いのに面倒だなと思ってしまったことを反省する。心を入れ替えて、頑張らなくては。
私は陪審員として呼ばれたのだから、この人を無罪にできるよう努めよう。
この人を擁護することは、私の正しさを再確認することにつながるはずだ。
正しいことは、必ず勝つ。
「被告人。ここまでの説明に、訂正すべき点はありますか?」
わなわなと震えるその肩に、六嶋は胸のうちで語りかける。大丈夫だからね。私がついてるよ。あなたは何も悪くないからね。必ず助けるからね。顔が真っ黒なのはちょっと不気味だけど。
「では」
裁判官が小さく咳払いした。
「では、最後の陳述に移ります」
見計らったように、天井の照明が一瞬、暗くなる。
「第五項、罪の忘却について述べます。被告人は、ここまで列挙した罪の一切を忘却していました。自らの行い、それが招いた結果、そして自らの悪意に対して、一切の関心を持ちませんでした。欺瞞と自己弁護と他責のみを積み重ねて自らを省みることを怠りました」
ここまで淡々としていた裁判官の口調が、少しだけ乱れているように聞こえた。
「そして今まさに――被告人は、たった一度与えられた告解の機会を、自ら放棄しようとしています」
裁かれているのは自分ではないと理解している陪審員たちの胸中に、それでも少なからず反駁の声が上がる。
自分だけが悪いのではないし、そもそも悪ではない。
悪ではないなら、忘却や無関心の何を責められると言うのか?
悪ではないなら、何を省みると言うのか?
悪ではないのだから、告解など何の必要があるのか?
被告人の――自身の無罪を、四人は信じている。
「以上で陳述を終わります。弁護人は、被告人への質問を始めてください」
憑き物の落ちたような裁判官に促され、スーツの襟を軽く正して頷く。余裕のある態度だった。
「ではまず、苦痛の売買についてお訊きしましょう。あなたが目撃した傷病人は、あなたの家族や友人ではなかった。そうですね?」
頷く被告人に、弁護人は畳みかけるように問う。
「しかし、路上で意識を失い倒れている人物を発見した際に救助しようと考えるのは、社会通念上当然ではないですか?」
――は?
井坂の眉間に苛立ったような皺が寄る。
「事実、陳述にあったように傷病人は命を落としています。あなたが救助をしていれば助けられた可能性は充分に考えられます。傷病人もまた尊厳を持つ一個の人間であり自身の人生を全うする権利を持っていました。その命が失われるかもしれない瀬戸際を黙殺することに対して、あなたは何も感じませんでしたか?」
――感じるわけねえだろ。どこで野垂れ死のうが知ったことか。もっと派手に倒れてりゃ、再生数は稼げたかもしれねえけどな
「しかし、あなたは悪くありません。あなたは傷病人を撮影し、公開し、広告料という形で金銭を受け取りました。その金銭で、高価な腕時計を購入しましたね? あなたは経済活動に参加するという形で社会に貢献しました。ですから、あなたは責められる立場にありません」
――クソみてえな理屈だな。だがその通りだよ、俺は悪くない。最初からそう言ってんだろ
井坂はさりげなく腕組みで左の手首を隠す。舶来の機械式は未だ傷ひとつない。更けていく夜を忠実に指し示しながら、持ち主の動揺など何も知らないように、規則正しく動き続ける。
「では次に、衆愚の再誕についてお訊きしましょう。殺人事件のような社会的に大きな影響を与えるトピックに対し、虚偽の情報――つまり事件とは無関係かつ実在する個人の実名や顔写真を公開すれば、その個人は当然危険に晒されます。あなたは、それを理解していましたか?」
――わかってたよ。わかってたけどさ
仁科は唇を噛む。
「この個人もまた、不特定多数からの攻撃を免れられず、金銭的にも精神的にも大きなダメージを受けました。その深刻さについて、あなたはそれについて想像したことはありますか?」
――じゃああんたは毎日毎日迷惑な客に絡まれるしんどさは想像できるわけ?
「しかし、あなたは悪くありません。あなたはあくまで、名前と写真を公開しただけです。攻撃を行ったのも、投稿されたデータをコピーして拡散させたのも、あなたとは別の人物です。ですから、あなたは責められる立場にありません」
――だったら最初からそう言えよ、役立たず
弁護人から目を逸らした仁科はそっとポケットに手を差し込む。写真データも閲覧履歴もとうに消し、電源を切った端末は妙に重く冷え切っている。
「続いて、慈愛の遺棄についてお訊きします。元婚約者はあなたを心から愛していましたが、あなたは結果としてその気持ちを裏切ってしまいました。反省や、後悔といった感情はありますか?」
――あるわけないでしょう
芳賀は気だるげに足を組み替える。
「元婚約者は当初、家業を嫌って家を出たそうですが、あなたに婚約破棄されたことで実家に戻らざるを得なくなりました。経営に関してもまったく知識がなく、会社を傾けてしまった。そして責任感の強い性格から自殺に至ってしまいました。元婚約者に対し、何か伝えたいことはないですか?」
――生まれてこないほうが幸せだったんじゃない、とか?
「しかし、あなたは悪くありません。元婚約者は結局、あなたを満足させられる人間ではなかった。それだけです。そんな人間と一生を共にしたくないと判断し、行動しただけ。ですから、あなたは責められる立場にありません」
――当たり前の話しかしないのね、この人。本当につまらない
芳賀の目が無意識に左手の薬指を見る。貯金を切り崩して買ったという安物の指輪が、かつてそこにはあった。その指輪をどうしたのか今はもう思い出せない。
「では次に、沈黙の強制についてお訊きします。誰にでも、思想や発言の自由というものがあります。特に著作とはそういった権利の象徴です。しかしあなたは、社会にその価値を問う機会、権利を奪ってしまった。そうは思いませんか?」
――思わない。悪いものに機会も権利もいらないでしょ
六嶋は爪を噛んだ。
「ある主張の善悪を審議し、判断するのは、一部の人間のみが為すべき営みではありません。広く社会に問い、あらゆる視点から吟味し、議論する。善悪とは、そのようなものではないですか?」
――それは馬鹿な人が考えること。私たちみたいな賢い人間じゃないと、今は正義も悪もわからないんだから
「しかし、あなたは悪くありません。あなたは率先して正義を行った。差別的な書籍によって傷ついたかもしれない人々をあらかじめ救った。悪人の悪書を世に出る前に葬った。ですから、あなたは責められる立場にありません」
――そうそう、その通りです。でもこんなありきたりなことを言うのが弁護人なの? 私でもできそうだな。お給料良いのかな?
「では最後に、罪の忘却についてお訊きします」
空調が低く唸りを上げる。
「あなたには、自らの行いを省みるだけの勇気がない」
深く息を吸う気配がした。
「あなたには、自らの行いが引き起こす事態への想像力もない。他者を思いやるための優しさもない。他者を踏みにじることへの躊躇いもない。あなたは他者を利用しても少しも良心が痛まない。他者の権利を奪っても何の責任も感じない。すなわち」
刃物の閃くような、間があった。
「あなたは、他者にも自らと同じように怒りや悲しみがあるという事実について考えることをしない。考えることが、できない」
一息に言い切った。先ほどまでの柔和な微笑が拭ったように消えていた。
「しかし――しかし、あなたは悪くありません」
そしてまた、にっこりと笑う。
「それらはすべて、あなたが愚かであるからです。
そしてあなたの愚かさは、あなたのせいではありません。
あなたのご家族のせいです。あなたのご友人のせいです。
あなたのお知り合いのせいです。あなたの知らない誰かのせいです。
あなたに関係ない他人のせいです。
つまりは社会のせいです。この世界のせいです。
あなたのせいではありません。ですから」
弁護人はたっぷりと間を取り、締めくくった。
「あなたは、責められる立場にありません。……被告人質問は、以上です」
被告人は額が机に触れるほどに背中を丸めている。握った手に爪が食い込み、染み出した真っ赤な血がぽたりと床に、落ちる。
突然、感電したように上体を起こした。
「おれは」
真っ黒な顔には口がない。なのに、被告人は叫んだ。ノイズ交じりの、悲鳴のような怒号のような声で。
誰でもなく、誰でもあるような声で。
「おれはわるくない!」
全身を痙攣させ、両手ががつがつと机を叩く。狂ったように捩る身体が椅子を震わせる。がたがたと音を立てる。背後に控えていた刑務官が即座に近づき取り押さえるが、死に際の魚のようになおも狂ったように被告人は叫ぶ。
叫ぶ。
「おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない!」
叫ぶ。
「おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない!」
叫ぶ。
「おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない!」
なおも、叫ぶ。
「おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない!おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくない! おれはわるくな」
裁判官が静かに合図すると、刑務官は粛々と動き出した。被告人に猿轡を填め、背中に回した腕に手錠を掛け、部屋から引きずり出していく。
意味の分からない喚き声が遠ざかり、やがてドアの向こうに消える。
法廷に再びの沈黙が下りた。
「判決を申し渡します」
槌の音が、深夜の闇をひび割れさせる。
「主文。被告人を――死刑に処する」
ビルから十分ほど歩くと川に出る。陪審員たちは刑務官に誘導され、この川に掛かる古めかしい名前のついた橋へ辿り着いた。橋は両端の入り口にバリケードが設けてあり、四人が立ち入ると完全に封鎖された。
陪審員は刑が相違なく執行されたことを確認する必要があると、判決の直後に四人は告げられた。通知書には記載のなかった内容だった。
刑の執行中はスマートフォンを没収されると知った井坂は不快そうに顔を歪め、しかし逆らいはしなかった。仁科は明日からの勤務に――主に肉料理の扱いに――支障が出ないか、それだけが気がかりだった。芳賀は内心期待を膨らませ、それを周囲に悟られないよう努めた。いわば魔女狩りの再現だ。それを目の前で見られるなんて、どんな男と寝るよりも胸の躍る体験だった。最後まで抗議したのは六嶋で、人権や冤罪といった言葉を繰り返したが一切聞き入れられなかった。もちろん他の三人には、六嶋の主張が実際には抗議などではなく、怯えているに過ぎないと容易に知れた。
橋の中央には山のように薪が積まれていた。そのなかから一本の太い柱が天に向かって伸び、先ほどの被告人が縛り付けられているのが見えた。
真っ黒な顔は項垂れて、つやのない髪が湿った川風にあおられる。
進み出た刑務官が刑の執行を告げる。白い手袋はなぜかランプを携えている。キャンプ場ではなく刑場に持参するものとしては奇妙だった。しかもどのような原理なのか、火屋のなかには灯芯ではなく掌に乗るほどの三日月が入っていて、近づけた着火剤がたちまち燃え始める。
しかしここは橋のうえだ。湿った川風は小さな火を弄り、やっと燃え移っても薪はひどく質が悪いためかいつまでも燃焼を渋った。
その結果、一同が見守るなか、痩せ細った被告人は長い時間をかけて炙られ、煙にしつこく燻された。鼻を衝く臭いと獣めいた絶叫が川面に広がり、既に黒く焦げた服と表皮がひらひらと風に散っていく。暴れるほどに柱が揺れ、不気味に軋む音が橋にこだました。
やがて全身に火が回り、生焼けの体からべろりと皮膚が剥がれる頃、被告人は動かなくなった。死亡を確認しようと刑務官が近づいたその瞬間だった。
機械めいた動きで、俯いた顔が跳ね上がる。
空洞のような、空白のような、真っ黒な顔。
その顔が、まっすぐに四人のほうを向く。
何かを言った――叫んだ、呪った、ように見えた。
声にならず、おぞましいほどに強く、何かを訴えかけた黒い顔。
忌まわしい景色から目を逸らせた者はいなかった。
不意に、炎が立つ。立ちのぼり、広がる。
凝視する四人の目の前で、黒い顔は炎のなかへ溶け去り、消えた。
ごうごうと音を立てる炎は残った薪を飲み込み、すべてを燃やし尽くすと嘘のように収まった。灰はほとんど残らず、欠片のような骨だけがいくつか転がっているだけだった。
そのようにして、奇妙な裁判は終わった。
陪審員たちは自宅へ戻り、いつもの寝床に潜り込みながら、今夜のことを追想する。
偶然にも自らと同じ罪を背負った被告人が裁かれ死んでいくさまを思い起こす。
自分のようにうまくやらなかったために裁かれた愚か者のことを思い起こす。
つまらない理由で命を奪うに至った裁判のことを思い起こす。
なぜ自分が呼ばれたのかについて、何ひとつ思いを巡らせないまま。
この裁判が誰のためのものだったのかについて、何ひとつ悟らないまま。
炎は燃え尽きて、告解は遂げられず、夜が明けていく。
四人は目を閉じ眠りにつく。
そして、まもなく朝が来る。
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