第5話 ぼろ宿

「着いたぞ」


 あまつの声に、意識が戻る。いつの間にか、うつらうつらとした浅い眠りの中にいたらしい。

 文香が睫毛をパチパチと上下させながら顔を上げると、すぐ近くに天の美しい顔があった。


「わあっ!?」

「暴れるな。落としてしまう」


 横抱きにされているのを忘れていた。

 天はしっかりとした手つきで文香を地面に下ろすと、文香のふらつきがおさまるまで、しばらく両腕を支えた。


「よし、大丈夫そうだ。俺の飛行は気持ち良かっただろう? 天狗の中で、飛ぶのが一番上手だからな」


 天は冗談だか本気だかわからない軽い口調で言うと、目の前の建物に顔を向けた。


「ここだ」


 文香は前後左右に顔を動かした。建物の右手は川。建物の左手は庭。裏には山がそびえている。

 建物は一軒しかない。天狗の宿屋に行くと思っていたのだが、違うのだろうか?


「すみません。ここは、どのような建物なのですか?」

「天狗の宿屋だ。看板にそう書いてあるだろう?」

「えっ……」


 文香は学校に通ったことがない。だから、字が読めない。

 玄関の上に木製の看板があり、文字が書いてあることは見てとれたのだが、まさかここが天狗の宿屋だなんて……。

 絶句してしまう。


 狐の女の子たちが招待しようとした白狐御殿は、大層立派だった。瓦屋根が高く、正面玄関の左右には見事な松の木があった。お殿様が住んでいそうな御殿、というのが文香の感想。


 それに対して天狗の宿屋は、幽霊屋敷かと思うほどに荒れている。

 白狐の女の子が「天狗御殿は、ぼろ宿。古くて、かび臭いー!」と叫んでいたが、確かにぼろ宿だ。

 茅葺き屋根は腐っており、緑色の苔で覆われている。二階建てなのだが、あちこちの白壁が剥がれ落ちて、中の土が見えている。窓ガラスは汚れと劣化で茶に変色している。

 

 文香は天の後をついて歩いたが、玄関前に置いてある石像に足を止めた。

 その石像は文香の背丈とほぼ同じ高さで、修験者の格好をしている。目は鋭く、眉が長い。への字に曲がった唇は、頑固な性格を想像させる。


 文香が立ち止まったことに気づいた天が、石像に目をやった。


「俺のじいちゃんだ」

「そうなんですか!? 私たちが思う天狗とよく似ています」

「じいちゃんは大天狗だったからな。鼻が長いのを自慢していた」

「……鼻、折れていますよね?」

「あぁ」


 鼻の部分が、丸くなっている。根本からポキリと折れたのだろう。

 茅葺き屋根と同じく、石像にも苔が生えている。

 天は、客が来ないから白蛇神社の娘と結婚して運を上げると話していた。それよりも、掃除をしたほうがいいのではないかと文香は思った。


 天は玄関扉を横に引こうとし、建て付けの悪さに舌打ちをした。


「ちっ! 開かない。ったく、どんどん古くなっていく。あいつらまったく……」


 天はぶつくさ文句を言いながら、力いっぱいに扉を横に引いた。扉は大きな音を響かせて、左右に動いた。


「ただいま帰った。花嫁を連れて来たぞ!」

「若旦那、おかえりなさい。恋白こはく様に詫びを入れたんですね。許してもらえて良かったですね」

「なんで詫びを入れないといけないんだよ。謝るのはあいつだ」


 建物の奥から出てきた小柄な男は、文香と目が合ったにもかかわらず、誰かを探す目の動きを続けた。


「恋白様は、どこに?」

「いない」

「でも、花嫁を連れて来たって……」

「ふふんっ」


 天は得意げに鼻を鳴らすと、立ち竦んでいる文香の背中を押して、玄関の敷居を跨がせた。


「じゃあ〜ん! これが俺の嫁だ!!」

「は?」

「あの、違うんですっ! 助けていただいて、その恩返しとして、花嫁の身代わりになってもらいたいと。一晩だけでいいというお話でしたので、それで……」


 小柄な男は、目と目の間がだいぶ広い。

 天は人間離れした妖艶さを持っているが、この男も人間離れした目の間の広さを持っている。

 小柄な男は、右の眼球を時計回りに、左の眼球を反時計回りに動かすという驚くべき技を披露すると、身を翻した。つんのめりながら、建物の奥に走っていく。


「だ、だだ、旦那様ぁ〜!! 奥様ぁ〜!! 若旦那が、人間の女を連れて来ましたぁぁぁぁーーっ!!」




 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る