第6話

 あれは、歯か。


 リッカが理解するまでに時間を要してしまったのは、見慣れた大きさではなかったからだろう。山にいたヌシと呼ばれる大型熊の歯は、一つで人の手をかみ砕けるほどに巨大であった。まさか、あの熊が赤ん坊に思えてしまう日がくるなんて、思いもしなかった。


 苦痛の声を漏らしながら、リッカは身体を起こしていく。水びだしの甲板に手を滑らせ、上手く立ち上がれない。何度目かでようやく立ち上がれると、空洞の奥から生暖かい風が流れて来た。おぞましく、絶望を誘う風だった。歯を噛み合わせる必要もない。言うなれば、踊り食い。奴の存在は、生きたままの人間たちを、巨大戦艦ごと飲み込めるほどに巨大である。


 口腔内に無数の砲弾が打ち込まれていたが、どうも効果はないらしい。リッカの狩猟技術が約に立つとも思えないし、こうなると、残った頼みの綱は歴戦の勇者たちだった。


 立っているのがやっとのリッカは、未だ微動だにせず巨大魔物と対峙している猛者たちに期待の眼差しを向けた。


 しかし、現実は残酷である。彼らは既に、悟ってしまっていた。歴戦の勇者であるがゆえに、目の前の存在が絶対的強者であり、敵わない者なのだと、肌で分かってしまっていた。


 抗うだけ無意味。


 彼らの戦士としての本能が、敗北を認め、命を失う覚悟を決めていた。


 砲弾が効かぬと知り、戦艦は向きを変えて海域を離脱しようと試みたが、時は既に遅かった。


 強烈で引き込む風が吹いた。巨大魔物が戦艦を吸い込み始めたのだろう。なんとかしないと。リッカは、戦士たちに視線を移す。彼らは何故、まだ行動を起こさないのか。疑問に思ったが、きっと自分に計り知れないことなのだろう。恐らく、機を狙っているだとか、そういうことなのだろう。


 今か今かと、リッカが皆の攻撃を期待していると、突然勤勉そうな魔導士が手に持っていた魔術書を放り投げた。何かの準備か? 怪訝そうに眺めるリッカ。戦士たちは、次々と己の武具を放り投げて行く。


 そして、王国最強の戦士ラルデアランも、巨大戦斧を放り投げた。勢いよく放り投げられた鉄の塊は、危うくリッカにぶつかりそうになり、慌ててまたも転げながらそれをかわす。


 文句でも言ってやろうか。苛立ってもそんな場合じゃない。リッカは甲板を這うようにして別の言葉を巨躯な男に投げかけた。


「皆、どうしてしまったんだ? 武具を捨てて、一体何をするつもりなんだよ」


 一切の反応がない。リッカは、ラルデアランの身体を激しく揺らした。しかし、それでも屈強な戦士は反応がなく、されるがままに身体を揺らし続けた。


 振り返る。その先に映る戦士たち皆が呆然とした様子で、立ち尽くしている。

 

 これは、作戦なんかじゃない。リッカはようやく状況の危機に気が付いた。彼らは生きるための行動をしているんじゃない。戦闘を放棄して、死ぬための準備をしていたのだ。


 冗談じゃない。


 リッカは、飛び上がり、王国最強の戦士の顔面を殴りつけた。兵士ではないが、農家での力仕事に加え狩猟経験も豊富なリッカである。膂力は常人とは比べ物にならない。


 仁王立ちのように立っていた巨体が殴打されたことによって、甲板の上に倒された。浸っていた海水が弾け上がり、ちょっとした仕返しのようにリッカの顔面にぶつかる。


「な、何をする!?」


「うるさい! なんであんたたち全員、生きることを諦めてるんだよ!?」


 言いながら、胸が痛くなる。自分もここに来たときは、死ぬことを望んでいただろうに。


「あれには、勝てぬ。これまで数えきれない強者と闘い死線を潜り抜けて来た。だから、分かるのだ。抵抗が無意味であると。ならばいっそのこと、戦士として誇り高い死を――」


「死ぬことに、誇りもくそあるか!」


 叫ぶと、リッカは再び走り始めた。しかし、今度は一人ではない。寝転がるラルデアランの身体を起こして担ぎ上げ、脚を震わせながらなんとか船尾に向かって進んで行く。


「――お、おい! どうするつもりだ!?」


「逃げるんだよ。そして、生き延びる。本当なら全員を運びたいけど、俺には無理だ。だから、あんた一人を抱えて逃げるんだ」


 ラルデアランは、自分を抱える青年の口から血が漏れ出ているのを見た。噛み締めた歯の間から、ひたひたと血液が流れ落ちているのだ。


 何故、こんなにも必死になって――。


 ラルデアランは唖然とした自分を、もう一度殴ってやりたくなった。何故とは――。何を言っている。生きるため、だろうが。王国最強の戦士でありながら、歯が立たぬと見えれば、それで終わりなのか。


 否。それでは、ただの木偶の坊。国軍は、国を守るためにある。そして、我が力も、マルー王国、加えてその人民を守るためにあるのだ。


「こんなところで、くたばってたまるかぁ――!」


 リッカの背中から飛び退き、ラルデアランは怒号を放った。叫び終えると急ぎ鎧を脱ぎ捨て、産まれた時の姿になった。突然の行動に目を丸くしたリッカだったが、目前の戦士の目に生気が宿っているのを見ると、笑みが零れる。リッカも急ぎ服を脱ぎ捨て、腰間に差してあった刀も放り投げた。


「リッカ、俺の背に掴まれ。絶対に生き延びるぞ!」


「ああ!」


 リッカがラルデアランの首に背後から手を回し背中に張り付くと、ラルデアランは一目散に船尾に向かって駆けだした。海に飛び込み、奴の領域外へと泳ぎ切る。リッカもそれを感じ取っていたため、ラルデアラン同様裸となっていた。衣類があれば水を吸って、その分重量が増す。今は恥じらいよりも、逃げれる確率をミリ単位で上げておくべきだ。


「絶対に、放すなよ! 行くぞ!」


 戦艦の後方で、小さく水柱が立ち昇る。


 小さな飛沫が止まることなく舞い上がっているその側で、海の流れが激しさを増した。

 巨大な魔族が口を閉じたことで起きた激流は、懸命に泳いでいたラルデアランとリッカの身体を、一気に押し流した。


 イフリート捜索隊を乗せ出航した巨大戦艦イフリアルト。出航後、約二十分の時を経て、魔族に捕食された。

 イフリート捜索隊は、再び地に足をつけることなく、壊滅したのである。 

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