カナリア

復活の呪文

灰色の海

 剥がれかけたバンソーコーなる薄い膜を、ゆっくり捲る。

 中央が肉と一体化している様で、動かすたびに、『痛み』と呼ばれる、刺される様な感覚が膝に走った。


「むっ……」


 私は初めての不快な感覚に、思わず声を上げた。

 母体が持つ生前の知識によると、痛みは警告であるという。

 病原菌への感染や肉体接触に伴う損傷等によって組織が破壊されると、その修復箇所に更なる外的刺激が起こらない様に、身体の隅々まで張り巡らされた『シンケイ』がマザー コンピュータ―の役割を担う『ノウ』に対して信号を送る。

 

 これが『痛み』の持つ役割らしい。


 私は、途中で絆創膏を捲る手を止め、硬いアスファルトなる物質でできた地面に背中を預けた。頭部を直接地面につけるのは、衛生的観念から避けたほうがいいと判断し、両手を頭の後ろで組み、『青空』を見上げる。


 今は、西暦2024年5月5日日曜日、午前9時09分、この母体の出身地である日本における、『立夏』という区分にあたる。


 衛星の軌道周期を用いて計算する時代遅れの暦は嫌いではないが、二十四節季という概念はどうも解せない。必要以上に細分化された時間区分に何の役割があるというのか。


 『立夏』の概念に違わぬ、強い光が、風で揺れる学校の屋上に降り注いでいる。

 ゆっくりと流れてゆく雲に釣られるように、ぼんやりと、今後の活動方針を考える。


 漫然と『青空』を眺めていると、近くにある扉が重々しい音と共に開いた。

 太陽光で照らされた鉄扉が動き、この惑星に住うニンゲン、その中でも若い雌の個体が顔を出した。


 ニンゲンが美醜を判断する際に重要視する肌の白さや鼻筋の高低差、そして何より目の形状。それらが全て整っており、この雌が上位階層に位置する個体なのが窺える。


 母体となった斎藤の脳内には、この雌に関する情報が残されていた。


 名称は伊藤沙耶。母体と同じくこの青城高校の生徒であり、母体の『クラスメイト』でもある。部活動には所属しておらず、古来から存在する偶像崇拝がビジネスとして変化した『アイドル』という業務に携わっているらしい。


 ただ、解せない。


 人々から称賛され、文字通り崇拝の対象として金銭的にも裕福であるとされる『アイドル』が、無言で屋上の塀を登ろうと足を金網に跨いでいる。


 紺と白を基調にした海兵由来の制服が揺れ、一歩一歩辿る様に足を金網の空白にかけて登ってゆく。このまま塀を越えれば、彼女は地上へと落下し、『死』に至るだろう。

 ————行幸だ。このまま彼女が歩みを進めれば、他の潜入者達を出し抜いて、チーム最速の調査報告を上げる事ができる。


 そう考えて雌を眺めていると、剥がれかけた絆創膏が風に揺れ、再び『痛み』が訪れた。


 不快な感覚とともに、私の脳内に一つ考えが浮かび上がる。


 この雌は、怖くないのか? 高所からの落下は私が今膝に感じる『痛み』を大きく

越えたものになる筈だ。なのに、なぜ自分からそこに向かう……?


「おい。死ぬのか。そのまま前へ進めば地面に落下するぞ」


 私は、気づくと起き上がり、少女に声をかけていた。


「お前は、痛みが怖くないのか」


 それでも伊藤沙耶は足を止めない。


「この屋上は地上11メートル。君の身長と体格から推し量るに質量は46kgとい

った所だろう。今そこから飛び降りれば、最終的な君の速度は時速50kmにも達する。そして君の肉体にかかる衝撃は……」


「うるさい! 邪魔しないでよ……!」


 金網に跨いだままで、伊藤沙耶は絶叫した。


「失礼。ただ、一つお前は勘違いしている事がある。私は、お前が死んでも構わない。寧ろ、調査報告が早く済んで母星に帰れる。これ以上の幸福はない。そのまま飛び降りて貰えると大いに助かる」


「は……? アンタ、頭イッてんの……?」


 伊藤沙耶は絶句し、金網を跨いだままでこちらを茫然と見つめている。どうやら、私の発言を挑発と受け取ったらしい。このままでは、好奇心を満たすことができなくなる。


「訂正する。私はお前に死んで欲しくない。一度話を聞かせてくれないか?」


 慌てて、母体の持つニンゲン的表現をかき集め口腔から発する。

 すると、11秒の沈黙が流れたのちに、


「はぁ……なんかバカらしくなっちゃった」


 伊藤沙耶は言葉を発すると金網からゆっくりと脚を戻した。不機嫌そうに足を進め、私の横へどかりと座ると、柔らかい風が私の頬に触れる。


「まさか、アンタがいるとはね。斎藤ってやっぱ噂通りのワルなんだ」


「ワル? 私はまだ何も犯罪は犯していないぞ」


「あのねぇ、日曜日に、立ち入り禁止の屋上にいる生徒が悪じゃないとでも言う

の?」


「む……」


「はぁ、アンタが、あんまり変なこと言うもんだからアホらしくなっちゃった」


「それはつまり、もう死ぬ事はないと言うことか?」


「いや、それはない。私は必ず自殺する」


「そうか」


 私は伊藤沙耶に目を向ける。伊藤沙耶の顔面にシンメトリーに配置された大きな黒い瞳が真っ直ぐ私を見据えている。こちらの反応を伺っているのだろうが、動揺などない。


『自殺』。母体である斎藤から情報を引き出す。この地球を支配するニンゲンが見せる特有の行動。自傷行為を行う動物や、自らの死を引き換えに対象に攻撃する虫はあれど、それらは遺伝子に組み込まれた行動に過ぎない。自ら死を選ぶ動物はニンゲンのみだ。


 そして、現在の私の母体である、斎藤克樹の死因も、『自殺』であった。

 家庭環境の不和に伴う『服毒自殺』である。

 私達が生物の死体をのっとる際には、彼らの持つ生前の知識や記憶が滝のように流れ込んでくる。


 激流のような情報の波に毎度吐き気がするが、今回は特に酷かった。


 彼の死に際の『恐怖』や『後悔』。そして何より、胃液が喉を焼く感覚と、体の危険を知らせる、割れるような頭痛が不快でならなかった。

 そんな苦しさの果てに、一体何があるというのだ。

 今、私の目の前で虚に空を見つめる少女も、『死』を求めている。

 何故、何故あんな苦しみに縋るのか、疑問は尽きない。


「歌っていると『死の匂い』がするの」


 そんな私の思考を遮断するように、突然、彼女が口を開いた。


「何を言っている。死体の匂いがするのは死体だけに決まっているだろう。『ぽえむ』という文化的表現か?」


「あのさ。相談に乗ろうとしてるんだよね? あと何、その片言キャラ。美術部だからって変人キャラ演じてる感じ?」


「失礼。修正しよう」


 彼女の不機嫌そうな声に促されるように、私は口調を変えた。


「ねぇ、何で死にたいと思うの? 痛みが怖くないの?」


「やっぱ、最初のままでいいわ。能面みたいな無表情のままその口調で話されると不気味で仕方がないわ」


「了解した。改めて質問する。何故お前は死にたいんだ?」


「復讐。私を雑に扱う世間の奴ら、学校の奴ら、両親に復讐してやるの」


「ふむ」


「私は今までずっと耐えてきた。歌いたくない歌も、薄汚い業界の古狸のセクハラも、クラスメイトからの好奇の視線も、両親からの重苦しい期待も全部。けど、もう全部面倒くさくなっちゃった。このまま全部投げ捨てて消えていきたい。海に吸い込まれるように消えていきたい」


 私は無言で彼女の独白を聞く。


 確かに、この星の多くの表現者達は入水自殺をしたという。

 ニンゲンの進化の源である海に回帰する行為が、母親の胎内に回帰したい欲求とかぶるのだろうか。


「そのためなら、『痛み』は怖くないのか?」


「そう思ってたんだけどね。アンタに脅されて少し怖くなっちゃった。ちょっと考えなきゃなー」


 そう言って伊藤沙耶は校舎の向こうに見える景色を眺めている。


 数分後、柔らかな風が吹き、彼女の黒い絹のような長い髪がゆれた。


「ねぇ。この後、暇?」


「暇だ」


「江ノ島に行かない? どうせ死ぬなら、海で死にたいや」


 彼女は私の返答を待たずに、立ち上がる。どうやら拒否権はないようだ。


 ————————


 彼女の提案に流されるまま、私達は『バス』に乗り、『電車』に乗り、江ノ島へと向かった。道中で驚いたのは、ニンゲンの多さである。どこかしこもニンゲンが溢れており、改めてこの種族がこの惑星における支配者なのだと考えさせられる。


 道中すれ違ったどのニンゲン達も『死』の事などそしらぬ顔で世界を闊歩している。


 しかし、私の前を歩く彼女は違う。帽子とサングラスを着用した彼女が、『死』を求めて街中を横断しているなど、他のニンゲン達は知る由もないだろう。


 路面電車を途中下車すると、由比ヶ浜駅へと到着した。それと共に、先ほどから感じていた異臭が強まる。


「おい、これが『死の匂い』か?」


 匂いの根源に近づきながら、私は目の前を歩く彼女に問いかける。


「覚えてたんだ。さっき言った事。私が言いたかったのは、歌う度に死にたくなるって意味だったんだけれど。ま、でも海が死の匂いがするってのは合ってるかもね」


 彼女はこちらに振り返りながら答える。


「何故だ? 海には死体があるのか?」

「なんでってそりゃ……あ、海見えたよ!」


 会話を中断すると、伊藤沙耶は一気に駆け出した。この国の交通信号を無視して飛び出した為に、急停止した車が大きなクラックションを鳴らすが、彼女は一瞥もせずに海へとかける。私は、車が過ぎ去るのを待ってから彼女の背を追った。


 海は、私の故郷のものとは違い灰色に染まっていた。海の色の原因を探ろうと視線を向けると、太陽光が反射し、目が眩んでしまった。漣の音が木霊する昼下がりの中、例の『死の匂い』が風が吹くたびに鼻腔から身体に侵入する。


「なんか、思ってたより汚い」


 伊藤沙耶は靴下とローファーを脱ぎ捨てたが、浜辺の端、海と砂浜の境界線で立ち尽くしていた。


「ま、いいや」


 それも束の間、彼女は制服が濡れるのを顧みず海へと駆けて行った。彼女の儚げで頼りない白い脚が灰色に染まってゆく。

 私はそれを、茫然と眺めていた。


「ははっ……冷たい! ほら、斎藤もこっち来なよ!」

「ぐぬ……」


 灰色の海にはかなり抵抗があるが、彼女の状態を見るに安全である筈だ。

 靴と靴下を投げ捨て、制服の裾をまくると、剥がれかかった絆創膏が再び現れた。

 私は、一気に絆創膏を引き剥がした。

 すると、刺すような痛みと共に、傷の中央には桃色の肉が顔を出した。周囲には薄白い瘡蓋が形成されている。


 手元の使い古した絆創膏を観察する。縮れた接着面の真ん中では、滲出液によって変色し、ガーゼの部分にシミがある。母体によると、この色は金糸雀色、カナリアという野鳥の羽の体色から名付けられた色であるという。


 カナリアは、元はスペインのカナリア諸島に生息していた固有の鳥類であるが、16世紀にヨーロッパに持ち込まれると、遺伝子改良に伴う品種改良を行われた。

 すると直ぐに、カナリアはヨーロッパの上流階級の間で人気を博した。

 その大きな要因が、カナリアが持つ特有の行動である『歌』である。

 貴族達はこぞって自身のカナリアに『歌』を歌わせ、その美しさを競い合ったという。

 斎藤の記憶から、黄色い小鳥を掘り起こす。ただれた羽を揺さぶり、苦し気に歌うその鳥は、周囲をニンゲンに囲まれ、救いを求めるようにか細い声を精一杯に張り上げている。

 無理やり、『歌』を歌わされる感覚はどのようなものなのだろうか。

 苦しいのか、悲しいのか、『痛み』を伴うのか。


「おら! ずぶ濡れになれ!」


 そんなことを考えていると、彼女から海水をかけられた。味覚が塩辛さを感じた。思わず、表情が崩れる。


「あっははは! 間抜けな顔!」


 私は、彼女を追って海に入った。膝にあらわになった肉が海水に浸され、先ほどと同様の『痛み』が訪れる。


 この後、彼女はやはり自殺をするのだろう。


 そして私は彼女の死体を回収し、それを、動かなくなったか細い体を、母船へと持ち帰る。


 これが、私達の既定路線だ。ただ、


 だが、笑顔で波と戯れる彼女を眺めていると、何故か心臓に『痛み』が触れた。

 それは絆創膏を剥がす時や今膝に感じるものとは異なり、傷を負った箇所を優しく握られるような心地よさを感じさせた。これは、母体の肉体的反応なのか、それとも。


 私は、ゆっくりと彼女に近づき、一つ、提案をした。

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