第102話 《シアン(CN-)》

 共同研究室のホログラム画像に映されたアメリカ西部の【超規模】菌床の映像は、酷く惨いものであった。

 アメリカの国土は広く、州ごとに法律が異なる程の多様性を持ち、場所によっては人が暮らしていない荒野が広がる。

 しかし菌床が発生した場所はよりにもよって、人口が密集する海岸近く。観光地やリゾート地と程近いビル街に菌床が発生し、夕刻でもないのに全てを赤く染めいた。


「いやいやいや! 今になってこんな規模発生するか!? しかも昨日の今日で!?」


 警報を聞き、直ぐに情報を見たフリーデンは驚愕していた。この規模の生物災害バイオハザードはここ5年は発生していない規模ではなかろうか。

 街中で菌床が発生する事自体、今となっては久しい事なのに更に超規模となると、フリーデンは混乱するしかなかった。


「通常、ここまでの規模になるまで1年以上はかかるものだが……。ドイツ東部でも短期間で大規模になっていた。ステージ6が、出現したのかもしれん」


 ユストゥスは冷静に考察をする。


「ステージ6の有無はともかく、国連のアメリカ支部からの直々の依頼、それも超規模となれば部隊を組む必要がある。迅速にウミヘビを選出するぞ」


 ざっと情報を閲覧し頭に叩き込んだユストゥスが席から立ち上がったその時、折よくフリッツとモーズが研究室へ入ってきた。


「ごめん、今戻ったよ。災害現場はどんな感じかな?」

「アメリカ西部カルフォニア州から程近い、海岸沿いのビル街で一晩の内に超規模菌床が発生。国連警察及び国軍が国民の避難と災害鎮圧に取り掛かっているが、助力なしでは無理と早々に判断。菌床が広がり被害が拡大する前にラボへ応援を寄越した形だ」

「簡潔な説明をありがとう。それでユストゥス、この遠征は僕に行かせて欲しい」


 そしてフリッツは自ら遠征に赴く事を伝える。


「1人でか?」

「いいや、モーズくんと2人でだよ。だって僕ら、共同研究をしているからね」

「……ふん」


 フリッツの答えにユストゥスは納得し切ってはいないようだが、彼は再び席へ腰をおろし、ぶっきらぼうにこう言った。


「生き急ぐなよ? 以上」

「あはは。了解」


 しかしそこで慌てたのはフリーデンだ。


「えっ!? えっ!? 2人って言ってもモーズは新人だろ!? いやモーズどころか俺達全員、この規模の処分経験ないでしょう!? もっとの先輩方に頼るってのは……!」


 上の先輩。

 この共同研究室を使用している4人は全員、クスシ歴が浅い。この中で最年長であるユストゥスが形式的に仕切る事が多いものの、本来は更に歴の長い、上の立場のクスシから指示をあおいで貰ったり、助力をして貰うのが堅実な筈だ。


「心配してくれてありがとう、フリーデンくん。でも先輩方は力を貸してくれないと思った方がいい。彼らは薄情という訳ではないけれど、研究の手を止めてまで話を聞いてくれる親切心があるかと言うと、ないからね」

「同感だな」

「それを薄情って言うのでは〜っ!?」

「そもそも一部のクスシはラボに居ないし、通信も滅多に繋がらないし、物理的にも無理だね」


 何とも協調性のない組織である。モーズはフリッツの斜め後ろで不安に駆られていた。


「あぁ、ごめんねモーズくん。不安にさせてしまって」


 落ち着きなく身動いだモーズに気付いてか、フリッツが振り返って軽く謝罪をしてくる。


「でも大丈夫。こういう時の為に、ウミヘビが居るんだ」


 ◇


 オフィウクス・ラボの白い巨塔。その5階にある武器庫ならび《製作所》。

 そこには様々な形の鉄や銅や鋼や、それを加工する機械や作業台や、溶かして一から製鉄するための炉があった。

 複数ある作業台の一つ、その前では刃のないサバイバルナイフ――恐らく抽射器を整備する、1人の青髪の美青年がいる。モーズを連れこの部屋にやって来たフリッツは、彼の元へ真っ直ぐ歩み寄る。


「おはようさん。フリッツ先生がここに来るなんて、いつ振りやろうか。めっちゃ久々やなぁ」


 フリッツが近付いてきた事に気付いた青髪の美青年は作業の手を止め、口に含んでいたタバコ……ではなく白い棒の付いた飴を手に持ち、訛りのある言葉で挨拶をしてくる。その時、彼からは仄かにアーモンドの香りがした。

 モーズから見た第一印象は、どこか胡散臭い優男、といった感じであった。

 言葉遣いがどうも芝居がかっているというか、わざとらしいのと、口元は笑っているが、紫色をした細めの瞳は笑っていない。


「あぁ、そちらの方は! 今をときめく新人さんやないか! 自分に会いに来てくれるなんて嬉しいわぁ。今後とも是非ご贔屓に。よろしゅう頼んます」

「こちらこそ、よろしく頼む。私の名はモーズと言う。君の名を、伺っても?」

「これは失敬! 自分は所属の《シアン(CN-)》いいます。ここで抽射器の整備や製作手伝ってるさかい。覚えてくれると嬉しいわぁ」

「……シアン?」


 シアンと名乗った青髪の美青年に、モーズは首を傾げた。

 何故ならばシアンは【錯体さくたい】。つまり水素を始めとする他の元素と必ずくっ付いている、単体で存在しない筈の物質だからだ。


「シアン化物、とは違うのか?」

「あぁ〜っ、そこ細かく突っ込んでくれますかぁ〜! 流石はモーズやなぁっ!」


 モーズとは初対面で今ここで名乗ったばかりだというのに、シアンは馴れ馴れしく【先生】呼びをしてきて、ますます胡散臭さが増している。


「そう。自分は正確に言うとシアン化物や。毒性は《シアン化水素(HCN)》って考えてもろてええで」

「シアン化、水素……」


 モーズは内心、少し動揺した。何せシアン化水素はミステリー小説やドラマでも多用される、人を即死に至らせる毒物。

 その即死性は同じ第一課のニコチンや水銀をも上回る、強力な毒素だ。


「あぁ〜、そう身構えんとって〜? 飴ちゃん食べる? 市販品さかい、安心したってや」


 モーズの緊張に気付いてか、シアンはフレンドリーさを心掛けて喋った上に、白衣のポケットから飴を取り出し渡してくる。

 棒飴ではなく、個包装された飴玉だ。パッケージには漢字が書かれていて、モーズには何と書いてあるのか読めなかった。


「青洲先生の故郷の土地のメーカーなんや。美味いでぇ〜?」

「そう、なのか?」

「あぁ、それ僕も食べた事あるよ。味は、う〜ん……」

「ちょっ、ちょっ、フリッツ先生っ! 先入観植え付けんといて! 好みは人それぞれや! ほら、食べてみぃ食べてみぃ。親睦を深めると思うて!」


 シアンに頼み込まれてしまい、モーズは暫し迷った後、飴という口に含むだけで食せる、周囲への飛沫感染の心配のない物だから、と。

 包装を開けマスクを少しずらして、飴玉を口に放り込んでみた。


「……。……っ!?」


 そして甘い味という予想に反して酸っぱい味を舌に叩き込んできた飴玉に、声にならない悲鳴をあげた。

 なおモーズには読めなかった飴玉の包装紙には、日本語で『梅味』と書かれていたのだった。




 ▼△▼


補足

シアン(CN-)

サスペンスやミステリーでお馴染み青酸カリの『青酸』部分。

この青酸が胃の中で《シアン化水素(HCN)》となって中毒を起こし、大抵は呼吸麻痺によって絶命する。

ちなみに酸と混ざってシアン化水素を発生させる化学反応を起こさなければ致死に至らないので、青酸カリを舌で舐めた程度では死なない(※非常に危険です。絶対にしてはいけません)


錯体なので様々な元素とくっ付いている。カリウムとくっ付けば青酸カリ、銀とくっ付けばシアン化銀など。なお劇物とくっ付いた場合、危険性はシアンに合わせて毒物に引き上げられる。怖くね?

用途はくっ付いた対象によって様々だが、冶金や鍍金や写真の着色、殺虫剤、殺鼠剤と幅広い。



外見について

青酸の名の通り青い髪色をしている。紫色の目は炎色反応から。またシアン化水素の臭いであるアーモンドの香りがする。

関西弁にしたのは飴玉を配っているのが似合いそうだから、というだけで特に深い理由はないです。


この配っている飴玉はバラ科の実の味がランダムで当たる。ただし大抵は酸っぱい。

何でかっていうと、梅や杏や枇杷やアーモンドといったバラ科の【若い青い実】には《アミグダリン(C20H27NO11)》という物質が含まれていて、これにはシアン(青酸)がくっ付いているお仲間だから。これによって人は青い実を食べると胃の中で分解され、シアン中毒を引き起こす。

尤も極々微量で数百個食べないと致死量にはなりません。


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