第61話 《アトロピン(C17H23NO3)》
「君はフリーデンと、親しいのか?」
ゆっくりと立ち上がり、初めて顔を向けてくるクスシ。彼はフリーデンに関心があるようだ。
「はい。私は彼にここまで連れて来て貰いましたし、その後も何かと手をかけて頂いております。そして昨日、友人関係を結んてくれました」
「……そうか。彼は、息災か?」
「えぇ」
「そうか、そうか……」
迷いなく答えたモーズに対して、和装のクスシは感慨深そうにうつむいている。
「あの、気になるなら直接お会いすればよいのでは……? フリーデンはラボにいるのですし」
「……」
モーズの提案に答える事なく、フリーデンの事を聞くだけ聞いたクスシは踵を返すと、何処かに向かって歩き始める。
「えっ。せ、せめて名前を教えて頂けないでしょうか!?」
モーズがどうにか引き留めようとしても、クスシはまるで聞いていない。しかし出勤時間が迫るモーズに追い掛けて問い詰める時間はない。
諦めて植物園を後にするか、と考えたその時、和装のクスシと入れ違いに一人のウミヘビがモーズの元に現れた。
絹糸のように艶やかで真っ白い長髪を三つ編みに結い、赤みがかった紫色の虹彩と広い瞳孔が特徴的のウミヘビ。
他のウミヘビの例に漏れず彼の容姿も美しく、その中性的な美貌は毒素と言うよりも白百合の花が人の姿を取ったかのようだ。
そしてモーズはこのウミヘビと既に出会っている。彼は昨日、医務室でニコチンの処置をした医療班であり、モーズの傷の手当てもしてくれた。
「先生のご無礼、どうかご容赦ください。モーズ殿」
彼はモーズに深々と頭を下げ、和装のクスシの代わりに謝罪をする。
「いや、君が謝る事ではない。それに私は寡黙な方や人見知りの相手も慣れている」
モーズはそれなりの年月を医者として生きていたのだ、対話を拒否してくる患者の対応をこなした事も一度や二度ではない。
それで一々しょげていては医者など務まらない。
「いいえ、先生の無礼はわたくしの無礼も同じ事。非礼は詫びなければ」
「謝罪よりも彼の名を教えて欲しいのだが……。あとその、君の名前も」
「わかりました。先生の名は、『青洲』。極東の島国より参られたお方です」
和装のクスシの名は『青洲』。
モーズの予想通り、狐面のクスシはここより遥か東に浮かぶ島国、日本よりやって来た日本人のようだ。
「そしてわたくしは《アトロピン(C17H23NO3)》。ネグラにて医療に従事しております」
《アトロピン(C17H23NO3)》。毒性は弱く、解毒薬の原料になる毒素。
そしてナス科の植物、例えばハシリドコロやベラドンナに含まれる。彼は白百合ではなく、幻覚作用のあるナス科の美しい花ダチュラ(別名エンジェルストランペット)と例えた方が正しかったようだ。
「アトロピン、昨日は手当てをして頂き感謝する。挨拶や礼を言えないままで、すまなかった」
「わたくしはお役目を果たしただけ。礼も謝罪も必要ありません」
「そうか。……それから、ニコチンの容態を訊いても?」
「安定しております、ご心配なく。仮に急変する事態が起ころうとも、わたくしが、治します」
胸元に手を当てて、アトロピンは断言をする。
「必ず」
常に開いた瞳孔と下がった目尻から眠たげな印象を受ける彼だが、その声は力強く、固い意志を感じられた。
「心強いな。どうか、彼の事をよろしく頼む」
◇
「ええっ!? 青洲さんと会って、しかも話したのかい!? 凄い体験をしたねぇ、モーズくん」
「会話という会話は殆んどしていないのだが、それほど驚く事なのだろうか?」
植物園を後にし、共同研究室に出勤したモーズがフリッツに青洲の事を話してみると、とても驚愕された。
「すげぇな。俺、あの人の声最後に聞いたの四ヶ月前だぞ」
「よ、四ヶ月……。そうだ、彼はフリーデンの様子を気にしていたぞ」
「俺のこと訊いてきたんだ? 相変わらず義理堅い人だなぁ」
同じく共同研究に出勤していたフリーデンはそう言いながら寄生菌『珊瑚』を培養したシャーレに試薬を垂らし、経過観察をしている。
「俺をラボに推薦してくれたの青洲さんなんだよ。無口で秘密主義なお方だけど、そういう所はしっかりしてんなぁ」
「あぁ、前にフリッツが話していた秘密主義とはあの人の事なのか。フリーデンは会わなくてよいのか?」
「会おうにもあのだだっ広い植物園に神出鬼没に現れるお方だからさ、見付けられないんだよ。ゲームでいうレアモンスターだよなぁ。一発で会えたモーズはめっちゃラッキーというか、幸運が訪れそう」
「そんな蝉の鳴き声(※フランスの幸運の象徴)を聞いたかのような……」
青洲と話せなかった事を気にしていたモーズだったが、そもそも邂逅しただけでも非常に運がよかったらしい。
「ふん。つまるところ、協調性のない男という事だ。ラボには居ない者と考えた方がいい」
共同研究室の隅に立つユストゥスが試験管のくるくる回し中身をかき混ぜ、薬を調合しながら言う。
「青洲さんは『秘密主義』って僕が言った通り、研究内容を教えてくれなくてね。フリーデンくんと同じく珊瑚症の進行抑制剤または緩和剤の製薬に力を入れているのは知っているのだけれど、論文で公表するまで何も話してくれないんだ」
「そうなのか。ついでと言っては何だが、ユストゥスの研究テーマも訊いても?」
「彼の研究は『珊瑚』を確実に滅菌する薬の製薬」
「うん、予想通りだな」
「それはどう言う意味だ、モーズ」
ユストゥスが寄生菌に対しやたらと殺意が高いのは昨日の遠征の際に既に感じていた事で、特別意外には思わなかった。
そしてモーズとの共同研究『ステージ5感染者の保護』に取り組むフリッツはと言うと、研修もかねてモーズをとある設備の前まで案内をしてくれた。
それはカーテンに囲われて隠されていた、筒状の、緑色の液体で満たされた培養槽。
人一人分入るサイズの培養槽は、実際に人間が入っていた。しかも老若男女、一通り揃っている。
「フリッツ、これは……」
「凄いだろう? この子達は一分の一スケールのサンプル。臨床試験用の、魂のない肉塊。人工人間。所謂
▼△▼
補足
アトロピン(C17H23NO3)
医薬品としては硫酸アトロピンとして用いられる。
ナス科の植物に含まれている身近な毒。
「美しい女性」を意味するベラドンナから抽出し、美しく見られる為にわざと瞳孔を開く散瞳点眼薬として使われていた事もある。
毒性は弱いといっても他と比べて、なだけなのでアトロピンで人を毒殺する事は可能。幻覚剤としての危険性も高い。場合によっては失明もする。
日本で世界初の全身麻酔を成功させた医者も、麻酔の主成分であったアトロピンの添加量の調整に腐心したと言われている。
ニコチン、黄燐、サリンなど多くの毒の解毒薬になるのも特徴。
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