第33話 水銀ガス
「はぁっ!? 何してくれんだあの狂信者! 今までタバコ吸わないで過ごした俺の気遣いを返せっ!!」
炎に包まれたワインルームでニコチンが叫んだ。
ニコチンが今日一日、タバコを吸っていなかった理由。それは休肺日などでは決してなく、高温で揮発してしまう液体金属を常に身に纏っている水銀が居たからだ。
タバコの火は非常に高温で、飛んだ灰も人間ならば火傷をするレベル。なので今回、彼なりに気を遣っていたのだ。今この瞬間、その努力は水の泡になってしまったが。
「こうなるなら我慢してねぇで最初から吸っときゃよかったわ!」
「こぉ〜のヤニカスっ!! うっ、ゲホッ!」
「おいおい、大声で騒ぐなよ。ガスにやられるぞ」
「誰の所為で……っ!」
文句を言おうとして、タリウムの身体がぐらつく。
炎で黒煙があがり酸素が薄まり、水銀ガスの毒が容赦なく襲いかかってくるこのワインルームでは、まともに立っているのも苦しくなってくる。
動けなくなる前に脱出しなくてはと、タリウムは出口へと走った。
「玉砕覚悟でボクに片膝を付かせるだなんて、本当に度胸があるわねぇ。そういうの結構好きよ? ……絞め殺したくなるぐらいにね!」
「水銀! これ以上ここにいたら被害がえらい事になるから下がれ!」
液体金属を炎に包む事に成功した教団の男は、未だ燃えている身体をずるずると這って移動し、床に付けられた扉の中へ消えてしまった。
扉の先は収納庫か、もしくは別室に繋がる隠し通路があるのだろう。
「ボクに命令しないで! それにみすみす感染者を逃す気!?」
「今は感染者より大気汚染を気にしろ! 火達磨野郎に尋問なんざ出来んし、上手いこと消火出来たとしてもガスを目一杯浴びたあいつは遠からず死ぬ! なら被害を最小限に留めるのが優先だろが!」
水銀は目に見える範囲でしか自身の毒素を操れない。
なので彼がワインルームに居る限り、部屋に撒かれた液体金属は炎に晒され続ける事となる。
「……っ! ヤニカスに諭されるのムカつくわぁ……っ!」
「別に俺の言う事なんざ無視しても構わねぇが、タリウムが限界だ!」
ニコチンはそう言うと部屋の出入り口に寄り掛かり、思うように動けなくなっているタリウムを肩に抱えた。
「俺はさっさと地上に出るぞ!」
ドカンッ!
彼は次いで拳銃で天井に穴を開け、タリウムを抱えたまま地上階に一っ飛びする。
水銀もワインルームに残る液体金属を可能な限り手中に回収すると、渋々ニコチンに続いて地上階へ飛び移った。
そして腕時計でフリッツに向け通信をする。
「フリッツ、応答なさい! フリッツ! 緊急事態発生よ!」
◇
そして現在。
「液体は極力回収して、ガスも洋館から出ないように留めているのだけれど、これが限界ね」
洋館の外で、水銀はフリッツの前でことの経緯を説明していた。
水銀ガスの知らせを受けたフリッツは、モーズとセレンを連れて直ぐに洋館の外へ出たのでガスの被害はない。元よりフェイスマスクを着用しているので身体にダメージが入る事はないだろう。
だがそれとは関係なしにフリッツは頭を抱えていた。何故なら
(消火作業に浄化作業、火事は東館地下全域。ガスに至っては範囲が洋館全域。幸い延焼もガス漏れもしていないけれど、それでも広大)
消火も浄化も、あらかじめそれらに対応した毒素を仕込んであるアイギスは、それらを散布する事によってこなす事が出来る。そこは問題ではない。
問題はアイギスを使役するエネルギー、その供給元であるフリッツの体が保つかどうか、だ。
「……っ」
洋館の体積、そこに充満していっているだろうガスの体積を頭の中で計算し、それを浄化する為の毒素の必要分……つまりアイギスの活動量をざっと割り出し、その多さに眩暈を起こしそうになるフリッツ。
しかし時間経過と共にガスは増えてゆく。今は水銀が抑えてくれているが、飽和したら洋館の外まで出て大気汚染をしてしまう。躊躇している場合ではない。
ましてここには自分だけではなく、新人のモーズがいる。フリッツは覚悟を決め、胸元に拳を叩き付けた。
(ここには後輩がいるんだ。気張れ、
そしてフリッツは再び頸からアイギスを召喚し、焦げた臭いが立ち込める洋館へと向き合う。
「これより消火及び浄化作業に入る! それが終わり次第、状況報告用の記録を取る! セレンくん、僕について来て!」
「了解しましたっ!」
「ボクも記録作業できるわよ?」
「水銀くんは涼しい場所で待機!」
「……はぁい」
フリッツと彼に呼ばれたセレンが洋館の中に入っていくのを見守って、水銀はやや重い足取りでモーズらが待機しているリムジン車の方まで下がった。
「珍しく素直だな」
もう我慢する気がなくなったニコチンがタバコを吸いながら言う。
「ボクだって自分の失態を前に我を通すほど無神経じゃないわよ。はぁ〜、まさか
がしがしと長く美しい銀髪をかき上げて嘆く水銀。
尊大で大暴に思える言動が多い彼だが、人工島アバトンを好きに動けるだけあり倫理観はちゃんとあるようだ。
「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ!」
そんな中、タリウムはリムジン車に両手を付いてずっと咳き込んでいる。今まで外した事がなかった黒いマスクを下ろした上で、だ。
タリウムのマスクの下、露わになった口にはギザギザとした鮫に似た歯が生えていて、普段より少し近寄りずらい雰囲気となっていた。
「その、タリウムは大丈夫か?」
「吸った分のガスは吐き出せたみてぇだから、ありゃ単に咽せてるだけだ」
モーズの心配にニコチンは「ほっとけ」とタバコを吸いながらサラッと冷たく言い放す。
「このヤニカス……」と、タリウムの恨み辛みがこもった小言が聞こえた気がした。
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