――第四章(過去)――
■<1>最後
幼い二人の髪を、潮風が攫う。
手を繋いだ双子の息子を見て、白野拓人は微笑を湛えた。
「もうすぐ日本だ」
父の言葉に、黒髪の少年は瞳を輝かせた。長い睫も大きな瞳も漆黒だ。白磁の頬を染めて海の向こうを眺めている。表情豊かな双子の弟は、隣に並ぶ兄の手をギュッと握った。
「それで、日本に着いたら何をしたいんだ?」
白野が問うと、黒い目を彼に向け、次男の梓が高揚した面持ちで笑った。
「俺も凛と一緒だ」
梓の声に小さく頷き、白野はもう一人の息子へ視線を向けた。
顔立ちこそそっくりだが、双子の兄である凛は、金色の髪に碧い瞳をしている。
梓とは異なり、凛は少年らしくない無表情だ。ただまっすぐに水面を眺めている。
「凛は、学校に行きたいんだよな?」
「……」
父の声に顔を上げた凛は、小さく頷いた。口数の少ない長男。白野は、そんな凛の頭を撫でる。すると梓が唇を尖らせた。その姿に苦笑して、白野は梓の髪も撫でる。
「これからは、自由だからな」
今年で七歳になる二人の息子が、これからどんな成長をするのか。それが白野の楽しみでもあった。三人の新たな生活が始まる。そう信じて疑いもしなかった。客船から見る海は、とても美しい。もう、忌まわしい事件の記憶からは、解放されるのだ。
――その数時間後。客船はテロリストにより爆破された。
日本の地を踏んだ時、白野は次男の梓の手を握りしめていた。二人だけだった。
後の報道で、死者行方不明者が三十八人に上ると発表され、その中には長男――凛の名前もあった。
職場の学校から帰宅し、白野は暗い室内でクレヨンを持っている梓を見た。無理に笑顔を浮かべる。画用紙に広がる、下手な絵。子供らしいと言えば、子供らしい絵ではある。
「ただいま。遅くなって悪かったな」
電気をつけながら声をかけると、梓が満面の笑みを浮かべた。その顔を見ると、心が痛む。嫌でも凛のことを思い出すからだ。涙腺がゆるみそうになったから、白野は天井を見上げた。涙など、零してみせる気はなかった。
――何故、凛が。
そんな思いが消えない。凛は遺体こそ見つかっていないが、生存を絶望視されている行方不明者の一人として扱われている。
「ねぇ、凛はいつ帰ってくるの?」
梓の声で、白野は我に返った。息を飲んだ白野は、思わず梓を抱きしめた。幼い我が子の頭に顎をのせ、きつくきつく目を伏せる。
――何故、梓ではなくて、凛が。
咄嗟に過ぎった思考に、白野自身が辛くなる。あるいは、行方不明となったのが梓ならばと、どこかで考えている己を、嫌でも自覚させられた。その事実に自己嫌悪で吐きそうになる。梓の事も愛しいのは間違いないのだ。けれど。
「……梓。凛は……」
死んだんだ。そう続けようとして出来なかった。口に出して実感することが怖かった。
――梓が死ねば良かったのに。
何かが白野の耳の奥で呟いた。それが自分自身の本音に違いないと白野は理解していた。天才児だった凛と――化物の梓。だが――そんな思考は認められない。白野は、紛れもなく、梓のことも愛していたからだ。だから、唾液を嚥下してからゆっくりと続けた。
「凛は、死んだんだ」
白野は必死だった。これからは、梓と二人で生きていくのだと、改めて考えた。
しかし、梓は白野の腕の中で僅かに首を捻った。
「どうしてそんな事を言うの? 凛は生きてるよ」
「梓……」
「凛は、お腹がすいたって言ってるよ。凛、夕食までには帰ってくるかな?」
朗らかな笑顔を浮かべた梓を見て、白野はきつく目を伏せたまま歯を噛みしめた。
「梓、凛はもう帰ってこないんだ」
「嘘つき。なんでそんな事を言うの?」
「それが、現実だ。いいか、凛のことは忘れるんだ。凛はもう、いないんだよ」
「いるもん。凛はいるもん!」
辺りに乾いた音が響いた。気づけば白野は、梓の頬を叩いていた。ハッとした白野が息を飲んだ時、梓は頬を抑えて目を見開いていた。大きな瞳が、次第に潤んでいく。白野は再び梓を抱きしめた。今度こそは泣き顔を見られたくなかったからだ。
「梓。もう、凛の話はするな」
白野の腕の中で梓は声を上げて泣いた。白野は、かける言葉を、もう何も見つけることは出来なかったのだった。
――白野が、梓を母親の実家である結城家へと引き取らせたのは、その数ヵ月後の事だった。以後、結城梓が高等部に進学してくるまで、父子は顔を合わせる事は無かった。
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