――第三章――
■5:勉強
翌朝は、茨木さんが起こしてくれた。夢ではなかったのだ。
それから朝食を食べ、僕は早速勉強をすることにした。
今の僕なら、努力なしで、天才になれる。頭の回転という意味なら、きっと本物の天才にはかなわないだろうけど、秀才レベルにはなれるはずだ。
茨木さんは様々な資料を用意してくれたし、もともと書斎にはたくさんの文献があった。
医学書を読んだりしたら、技術も身に付いた。一応、そのはずだ。やったことはないけど、やり方が書いてある本だったし、頭の中にはやり方がバッチリ入っているし、執刀するイメージもある。まぁ医師免許をもっていないから、使う機会はないだろうけどさ。そもそも僕は、あんまり血は得意じゃなかった……。
ほかにも、法律や気象予報士の知識なんかも覚えた。僕のイメージの中の難関資格の勉強をしたのだ。最新の研究論文なんかもたくさん読んだ。読んだというか、手で触った。多分熟読しても難解すぎて分からないだろうけど、手で触ると頭の中に入ってくるのだ。なんて便利なんだろう。
心理学とか社会学とか経済学だとか今まで勉強したことのないジャンルもやったし、数学は小学校の算数のテキストから覚え直した。各国語もわかるようになった。護身術やピアのなんかも勉強した。空き時間には小説を読んでみたりもした。
改めて振り返ると、僕って本当に勉強も何もかもできないし教養もなかったんだなぁ。
勉強ができればすごいとは思わないけど、勉強する努力ができる人を僕は尊敬する。そればかりは、現時点で全く身についていない。僕の長所に努力家という一文が刻まれることはないだろう。
それ以後、生活も、びっくりするほど健康的になり、三回食べては、きちんと寝ている。
掃除をしなくてもお部屋はきれいにしてもらえるし、服だってクローゼットにたくさん入っている。何不自由ない生活とは、まさにこのことだろう。
ヒキコモリ生活にも不自由は感じていなかったけど、ここはまさに天国だ。
ただ結局、茨木さんと少し会話をする以外は、誰とも話さない日々で、僕は勉強ばかりをしている。勉強というか、本や紙に触るだけなんだけどさ。頭の中に入ってきたことを、何度か脳裏で反芻したりしていると、簡単に一日が終わる。その間、茨木さんは余計なことを一切言わず、部屋の外にいる。決まった時間に僕に声をかけてくれるだけだ。掃除などは、僕が書斎にこもっている間に、使用人の人々がやってくれているようだけど、直接顔を合わせることはほとんどない。食事の席では、壁際にシェフさんと茨木さんと侍女さんが立っているが、ほかの人をまじまじと見る機会は、そのくらいだ。
さて、僕の短所は、飽きっぽいことだ。僕は、しばらくして、勉強に飽きた。
気づけば、もう窓の外は春で、桜が満開だ。
桜なんて久しぶりに見た。僕が少し前まで住んでいたアパートのそばにはなかったのだ。 なんだかもう、あの部屋に居たのが、すごく前のことのような気がする。
だけどあの頃も今も、僕にはひとつだけ変わらないことがある。
やっぱり現実世界よりも空想世界の方が楽なのだ。
たくさん勉強して、いくら知識を身につけても、そう思う。覚えたことを、僕は実際に使ってみたいと考えることがない。空想世界で、お医者さんになってみたり、学校の先生になってみたりして、満足しているのだ。以前との違いは、空想にリアリティが増したことくらいだ。僕の存在は、世界にとって、何の役にも立っていないのである。
前に茨木さんは、僕に『世界をより良い方向に導いて欲しい』というような事を言っていた。しかし僕には、何をしていいのかわからないし、導ける気もしない。茨木さんは、一体僕に、何を望んでいたんだろう。今の僕の行動を、どう考えているのだろうか。
聞いてみたいような気もする。
彼は仕事でここにいるわけだけど、そもそも僕の世話をすること自体、本意なのか不本意なのかもわからない。だから、僕には何も期待していない可能性もある。そして僕は知っている。僕には、人の期待にこたえられるような器はないのだ。期待されてもこたえられないだろう。そもそも僕に何らかの期待をする人自体がいないに等しい。それに僕は、期待されたいとも思わない。そうなれば、プレッシャーを感じてしまう。
そういうわけだから、聞くのも怖い。
「スミス様、どうかなさいましたか?」
ぼんやりと窓の外を見ていた僕は、声をかけられ我に返った。
もうお茶の時間らしく、ティカップを用意して茨木さんがやってきたのだ。
きっとここ数日、僕がなんの勉強もしていないことを彼は知っているけれど、特に何も言わなかった。だから逆に、こんなふうに言葉をかけられたのが珍しかった。
「桜が……その……綺麗だなと思って」
「満開ですからね。直接外でご覧になりますか? 本日のティセットは外にご用意させていただきますよ」
「いや! いいです、そんな!」
「僭越ですが、こちらにいらしてから、まだ一度も外に出ておられませんよね。この屋敷は、庭も美しいですよ。足をお運び下されば、庭師も喜びます」
「そ、そっか……そういえば庭師さんがいるって言ってたね」
「ええ。スミス様に喜んでいただこうと、精一杯励んでいるようですよ」
「じゃあ行ってみます」
「承知致しました」
こうしてこの日、僕ははじめて館の外に出ることになった。
桜の木々のそばに、白いクロスがかけられた丸いテーブルが用意されていて、いちごタルトと紅茶を差し出された。窓からは桜しか見えなかったけれど、そばには庭園があって、庭師らしき人が作業をしている。時折僕の方を見て、ニコニコ笑っていた。
僕のために頑張って働いてくれている。
そう考えると、ほんのりと胸が温かくなった反面――脳裏に考えないようにしていた事柄がよぎった。
「あのさ、茨木」
「別のケーキの方がよろしかったですか?」
「そうじゃなくて、これってさ……僕さ、介護されてる感じだよね」
「は? 介護?」
「三食お世話をしてもらって、いろいろ教えてもらって、気分転換に外に連れてきてもらって……足腰が丈夫だから入浴介護はないけど。世界貴族使用人って、結構すごいF型表現者なんだよね? 僕の介護みたいなことをしていて不満はないの?」
一度口を開いたら、思わず訊いてしまった。僕の言葉に、茨木は虚をつかれたような顔をした。最近僕は、彼を呼び捨てにするようになった。彼に頼まれたからだ。
「私は介護職を非常に大切な職業だと考えていますが、現在自分自身がスミス様の介護をしているという自覚はございません。そのようにお感じになられたとしたら、私の不手際です。申し訳ございません」
「謝らないで、違う、違うんだ、こっちこそ申し訳なくて」
「スミス様にお仕えすることは、私が望んだことです」
「望んだ? どうして?」
「利己的な理由です。私のようなAランクのF型表現者には、就職先には四パターンしか存在しない。一つ目は、各国の政府関係者です。二つ目は、指定犯罪者としての一生。三つ目は、いずれかの世界貴族の庇護下に入りどこかの国の独自認定貴族になること。最後の四つ目が、世界貴族使用人です。使用人は、仕える相手を選ぶことはできませんので、スミス様のもとへ参りましたのは、サイコサファイアの指示に従ったのですが、今現在スミス様の使用人であることに満足いたしております」
「よくわからないけど、まず犯罪者ってどういうこと?」
「F型表現者の内、世界貴族に従わない者は、反乱分子である可能性が非常に高く、人類の滅亡を含む犯罪行為に手を染めている場合が多いのです。よって、どこにも属さず非能力者と共に暮らす場合は、潜在的犯罪者として指定され、生涯監視下で暮らす事になるのです。多くの権利を剥奪され、隙を見せれば投獄されます」
「怖いですね……自由がないってこと? え、みんな世界貴族には従わないとならないの?」
「世界貴族には、民衆を従える権利と義務があります。世界貴族が存在してくださるからこその自由があるんです。怖いという概念を持つ者もいるかもしれませんが、私はそうは思いません」
丸暗記したセリフで、模範解答を述べたように聞こえた。茨木の表情が全く動かなかったからかもしれない。それでもいつもよりは、私的な話が続いていると感じられる。思えば僕は、彼のことをほとんど知らない。彼というより、世界貴族や世界貴族使用人のことを知らないのだ。
「犯罪者として暮らすのは辛いかもしれないね。でもさ、一つ目の政府関係者とか、三つ目の独自貴族――日本の華族とかは良さそうなんじゃない?」
「率直に申し上げて、現在の各国政府や首脳陣は、傀儡であり、誰ひとりとして世界貴族に逆らうことはできません。自己采配がいっさいできない仕事ならば、私にとっては自由がないに等しいんです。華族も同様です。世界貴族の言いなりですから。その上彼らは、自国で威張り散らすことも多く、お世辞にも人道的とは言えません」
「正直さ、茨木って世界貴族が嫌い? 言いなりになりたくないってことだよね?」
「仕事に私情は挟みません。世界貴族の皆様は、私の尊敬すべき上司です。決して嫌いではありません。なにより世界貴族使用人は、先ほど述べた方々よりも直接的に世界貴族の皆様に従います。一番言いなりとなる立場だといっていいでしょう」
「別に言いなりにさせたいとは思わないけど、確かにそうだよね。じゃあどうして? どこが利己的なの?」
「世界貴族使用人のみ、決して極刑に処されることがないからです。投獄されることも滅多にございません。またプライベートの時間も保証されております。連盟に申請すれば、休暇を頂くこともできます。ある程度の自由があるわけですし、場合によってはお許し頂ける範囲で仕える方に進言もできます。また貴族の皆様からご不満が上がった場合も、配置転換の処分以外はうけません。ようするに私は、死にたくないし刑務所で一生を過ごすこともゴメンだということです。犯罪者の烙印を押されることなど論外です」
頷きながら、僕は紅茶を飲んだ。死にたくないというのは、なんとなくわかる。死にたいと思う人は、あんまり世界にはいない。自殺率は年々高くなっているらしいけど、僕が以前に見た資料の限りだと、下がっていた時期もあるようだったし。それに、刑務所というのも、罪を犯して入るのではなく、世界貴族の気分で服役させられるのは嫌だろう。
世界貴族が『この人は犯罪者だ』と口にしたら、多分冤罪であろうとも、それが事実になってしまう気がする。そうじゃなかったら、みんなを従えたりできないのではないだろうか。だけど、それってどうなんだろう。
「あのさ、恐怖政治だよね? 絶対王政というか」
「世界貴族内に王位を持つ方はおりませんが、そのように批判し、テロに手を染める犯罪者は多数おります」
「犯罪者になっちゃうんだ……やっぱり貴族制度なんて、批判が出ないほうがおかしいと思うんだけど……」
「思想の自由を尊重する国は、まだいくつか残っておりますが、公的にテロリストを擁護している国家や共同体はありません。なぜならば、F型表現者の虐殺や、場合によっては非能力者をも殺害する事件が後を絶たないからです」
「殺伐としてるんだ……ええと、貴族制度なしに、F型表現者と普通の人が平和に暮らすことは無理なの?」
「旧西暦時代は共存しておりましたが、今後は困難であると考えられております」
「えっ、昔からいたの? そんな話聞いたこともないけど」
「秘匿されておりましたので。第一、フォンス能力――超能力者の存在に懐疑的な人間が圧倒的多数の時代でしたからね」
「いつ公にされたの?」
「神聖歴元年です。外思念弁別機制の発見と、ゼノ=ラッセル症候群およびルブルム型パーソナリティ障害の蔓延により、現在の世界が到来いたしました」
そういえば、僕は歴史書には触れていなかった。その事実が悔やまれる。一応日本史には触れたのだが、現代社会のような分野は一度も見ていなかったのだ。僕が見ていたのは卑弥呼の頃から幕末くらいまでだ。
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