ep98.「帰り、クレープ食べに行こーよ」
『ウチさ、ネイルアーティストになるのが夢だったんだ。知ってた? あはは、ほんと改めて口にしてみると、なんて陳腐な将来設計だって思うかもだけどさ……』
将来の夢の動機と聞かれて真っ先に思いつくのは、自分の母とその指先の、剥がれかけたマニキュアだ。
「良かったわねぇ、唯恋ちゃん! 中学は××の附属学校に通えることになったわよ! 制服が可愛くって、品の良い子だけが通ってる素敵な学校なの。彼があなたの向学心を買って、“投資”してくれるんですって……」
そう言って少女のようにはしゃぐ母親の後ろには、上質なコートを羽織った背の高い男が立ってじっとこちらを見ていた。
彼の名前を己斐西唯恋は覚えていない。男はその一年後にはすでに母親の隣にはいなかったからだ。
男どころか、母のそばにいたのは中学一年生の冬を迎えた自分だけだった。
『ウチ、中学は私立に通ってたんだよね。――そうそう、あの××の附属ね。だけど私立っつっても、やっぱ普通に民度低いよ。性格悪い子も普通にいて……』
電話口に語りかけながら思い出す。
己斐西の胸の中で蓋をしてきた、臭い記憶のうちの一つ。
「帰り、クレープ食べに行こーよ」
「いーねー。あ、じゃあ唯恋も誘っていい? あの子最近仲良くなったんだけどさ、かわいーし話面白いし」
「あー……己斐西さんはやめようよ。だってあの子ん家、ほんとは貧乏の借金まみれなんでしょ? お母さんが見栄っ張りなだけで、最近は学費払うのも余裕ないらしいって父さんが言ってた。多分お小遣いも貰ってないんじゃないかって話。――そんな子誘うの悪いじゃん?」
「え、マジ? 知らんかった……それは……ちょっとウケるな。いや正直、鼻についてたわけよ。自分の顔が人より可愛いの自覚してるってかさ、調子乗ってんじゃないかって思えるところはあって。……いやー天は二物を与えないねー」
談笑の一つに自分を消費する、あまり華やかとは言えない顔立ちのクラスメイトの二人。
未だに箸が転げただけでも思い出せる、己斐西の憎い記憶の一つだ。
己斐西は物心ついたときから母子家庭で育ってきた。母はめったに家におらず、知らない男を知らない数だけ誘惑しては、男から金を受け取って娘や自分を着飾るのに使ってきた。
母が働いている姿を見たことはない。
だが自分がこうして成長できているのは、母が誘惑する知らない男たちからの援助があったからなのだと、己斐西は小学校に入学する頃には悟っていた。
『……うん、そう。本当は私立なんて行ける経済状況じゃなかったんだよね。ほんとウチの母親バカで。本当の金持ち、だったら胸張って登校できてたのかな……』
たまたま資産家の男に可愛がられた母は、彼の気まぐれで手に入れた資産で己斐西を私立の附属中学へと入学させた。
著名デザイナーの手掛けた制服は可愛らしく、己斐西はそのセーラー服に袖を通すことをいつも誇りに思っていた。
同級生と比べても目鼻立ちがハッキリした自分の顔や、すらりと伸びた手足は、男女問わず評判が良かった。
容姿を褒められることは珍しくなく、己斐西はいつしかそれを自慢に思うようになっていた。
男子から告白されたことは一度や二度ではない。
あまり真っ当とは言えない家庭に育った自分に与えられるべき、数少ないギフトだと確信していたのだ。
――本当に、その親友だと思っていたクラスメイトが発言したように、調子に乗っていたのだと思う。
性格が悪いのはきっと、彼女も自分もお互い様だった。
「ねえお母さん、うち、厳しいの? 家計……」
帰宅して一番に開口した娘を見て、賃貸アパートの部屋の隅で母親は血相を変えた。
「え? ……やだ、唯恋ちゃんがそんなこと気にする必要ないのよ? どうしたのいきなり」
「だって学校で噂されてたんだよ? 己斐西の家は本当は貧乏なんだって。学費も払えてなさそうだって、森山さんが……」
「森山さん? あら、それってもしかしてS電機にお勤めの森山さんかしら……」
「は……? どういうこと……」
「あら……あらあらごめんね唯恋ちゃん、まさかあなたのお友だちのお父様だったなんて知らなくって、この前一緒にお食事――」
伸ばされた母の手を叩き落として叫んだ。
「何考えてんの気持ち悪い! 信じらんない、ほんっとキモイんだけど。どうしてお母さんまともに働いてくれないの!? 男に寄生して、全部他人任せで無計画で! ちょっとお金持ちの人と知り合えたからって、娘をいきなりバカ高い私立学校に入れるなんてどうかしてるでしょ。こんなことなら普通に公立中学に入学させてよね。貯金しなよ……」
「そんなことを言わないで唯恋ちゃん? あなただって学校の制服が可愛いって喜んでくれてたじゃない」
「制服を買えても学費が払えないんじゃ意味ないんだよ、このバカ女ッ……!」
そう怒鳴って母親に手を上げたのは、生まれて初めてのことだった。
頬を打たれて文句ひとつ言わず黙り込んだ母と、自分の手のひらに付いたファンデーションの安いラメを見て、己斐西は心の底から無力感に襲われた。
『……最低だよね、母親に手を上げるなんて。だけど元はと言えばあの人があんな無計画な……いや……違うよね……。こんなの責任転嫁だ……』
このとき自分と言う存在を、最も世界に適さない、無駄で余計な異物なのだと強く思った。
まともに対価を支払えない学校に通い、まともに子どもを育てられない母親のもとで飼われる存在。
母親いわく“お友だち”の男たちの気まぐれがないと生かされない、まるで本当は存在すべきではなかったバグのようではないか。
そして結局、母親の見苦しい寄生行為がなければ、自分は今生きてすらいられないのだと思うとさらにむなしくなった。
どうすれば自分が世界に存在しても良いと言って胸を張れるか――考えに考え抜いて、己斐西は一つの夢を抱いた。
友だちづき合いは必要最低限、その場限りのものと割り切って、己斐西は中学時代をほぼ勉強に費やした。
学級委員を買って出て内申点を稼ぎ、高校は受験して公立校へ入学した。母は最後まで「学費のことなら心配しないで」だのとのたまっていたが、己斐西は私立高校で進級する気はなかった。
『そう、そこでネイルアーティストの話になるの。専門学校通うためにお金貯めて、いろんな人とコネ作ったり社会性を磨いたりするために“あのバイト”は都合よかったわけ。ゆくゆくはサロンを開いたり……なんてさ……』
己斐西はネイルアーティストを夢見ていた。女性を指先から美しく整え、ワクワクさせる、きらめきを与える素敵な仕事だ。
いつも我流の雑なマニキュアに彩られていた、みっともない母親の指を見つめていたことも理由の一つと言えるだろう。
もちろんこれをただの夢で終わらせるつもりはなく、自分の力で、計画を立てて、順を追ってその夢を叶えるつもりだった。
手っ取り早く資金をためるために、己斐西は裕福な社会人の男に時間を注いで代わりに対価を得た。
この手法を母親と同じものだとは思わなかった。
母は体を切り売りしプライドも投げ捨てていたが、自分は違う。
プライドは守る。体も売らない。一人ひとりの男をクライアントとして割り切って、オーダーメイドで理想の女子高生になりきり、有意義な時間を提供する仕事だと認識していた。
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