ep93.「ヘイ、熱いねお二人さん。――悪いが邪魔するよ」
六月十六日、昼休み。
同じ部の後輩たちとの昼食を早めに切り上げ、武道場の前の水道に腰かけ、喜屋武は茫然と空を見上げていた。
もう梅雨入りしたんだったか、まだだったか。どのみち、もうじき暑くなるな――。
天気のことを考えようとしたが、玖珠からきっぱりとフラれてしまったことと、今朝己斐西から指摘された、自分の非道な行いのことが頭を離れなかった。
「こんにちは、喜屋武さん」
そこへ、安斎が現れた。またじょうろを持っている。きっと水を汲みに来たのだ。
水道を明け渡すべく、喜屋武は脇に避けた。
「ああ、安斎さん、こんにちは……」
「元気ないですね。大丈夫ですか?」
「ん……はは。あんま、大丈夫じゃないかも……」
石橋は停学で不在だし、河合も謹慎で不在だ。
喜屋武の嫌う男はおらず、玖珠とは今朝も会話をして、本来なら喜ぶべき状況のはずだった。
玖珠はあんなことをした自分にも明るく接してくれるが、話す内容は石橋のことばかりだった。きっと玖珠は本当に、石橋を友人として大切に思っているのだろう。
そして自分は、そんな石橋に酷いことをした。
きっと玖珠は今後も喜屋武を好きになることはないし、友人としての立ち位置も、石橋を超えられそうにない。
それでもまだ浅ましく玖珠を好きでいることに、喜屋武は行き詰まりを感じてどうしようもなくなっていた。
「……わたしみたいな人じゃ、あなたの悲しみは癒してあげられないんでしょうね」
ふと、安斎がそんなことを呟いた。
え、と上ずった声が出る。
――まさか、そんな。都合の良い考えが頭をよぎろうとする。
しかし安斎は以前にもこうして、喜屋武に好意的な態度を寄せてきてはいなかっただろうか。
今まさにこうしているように、気恥ずかしそうに俯いて、ちらりと上目にこちらを見上げながら。
いや――しかしだ、自意識過剰という線も捨てきれない。
安斎のようなチャーミングな女子が、男ではなく、自分の方に傾こうとしているなど……。
何も言えず固まる喜屋武に、煮え切らないという顔で、それでも言いづらそうに安斎は口にする。
「ずっと、綺麗だなって思って見てたんです。あなたのこと。だから仲良くなりたいなって思ってました。……でも喜屋武さん美人だし、優しくて賢いし、わたしじゃ、仲良くするには釣り合いませんよね……?」
アンニュイな流し目でそこまで言われてしまっては、流石の喜屋武も答えないわけにはいかなかった。
確かに安斎は以前、喜屋武が男嫌いであることを許容し、そして自分を綺麗だと言ってくれた。
つまりそれの意味するところといえば、一つしか――ない!
「そ、そ、そそ、そんな、こと……」
「ヘイ、熱いねお二人さん。――悪いが邪魔するよ」
喜屋武は心底驚いて飛びあがった。
今この場を、最も見られたくない人物の声がして、恐る恐る振り返り、やはりそこに玖珠璃瑠葉が立っていたことに絶望した。
「く、玖珠さん。あの……」
「ごめんよ安斎さん、ちょっと喜屋武さん借りてく。もう返しには来ないと思うけど」
ずかずかと歩み寄って来た玖珠が吐き捨てるように告げ、彼女は答えも聞かずに喜屋武の手首を掴む。
「まっ」安斎が止める前に喜屋武が口を挟んだ。
「待ってよ玖珠さん。私は今安斎さんと話してたんだ。こんなの、彼女に失礼じゃ――」
「失礼? ああそう。じゃあ喜屋武さん」
一度は手を離され、喜屋武はほっとした。しかし次の瞬間、乱暴な手つきでネクタイを掴まれ、再び瞠目する。
真っすぐに自分を射抜く、何よりも魅力的な玖珠の瞳。
「あたしと、安斎さん。どっちの言うこと聞きたいかここで選べよ」
そしてその、冷ややかな口調の美しさ、たるや……。
耳まで真っ赤になって押し黙る喜屋武のネクタイから手を離し、片手を上げて玖珠が安斎を振り返った。
「じゃ、安斎さん。失敬するよ」
「……ええ。どうぞお構いなく」
半ば肩を掴んで引っ張られていく喜屋武の後ろ姿は、耳もうなじも真っ赤になっていて、骨抜きという言葉がよく似合うほどふらふらしていた。
安斎はその姿を見送り、浮かべていた微笑を消し、カーディガンの袖を引っ張ってため息をついた。
「……ほんと、喜屋武さん使えないな……」
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