ep40.「ただいま磐眞くん、ママ帰ったわよぉ~」

 あれから河合の声が頭から離れない。おぞましい、中学時代の記憶がよみがえる。


 あれが幻聴であってたまるか。

 あの声には聞き覚えがあった。中学時代に石橋と関わった誰かだ。声を聴いたことがある気がするのに誰だか思い出せないのは、自分がこの記憶に蓋をして逃げ続けていたからだ。

 あの恐ろしい体験を二度としないために、手段を選ばずに人の秘密を踏み荒らしてきた。

 その結果が──このざまだ。


 帰宅してから制服も脱がず、自室でずっと同じ考えに囚われていた石橋は、自分に聞こえるように舌打ちする。


 ――河合? 河合雁也? 

 そんな名前の生徒はいただろうか? 

 覚えていないだけ? 

 忘れてしまっただけ?


「落ち着け石橋、石橋磐眞。こういうときこそ冷静に判断しろ。何、顔でも見りゃすぐ思い出すさ……」


 自分に言い聞かせながら、彼は中学時代の卒業アルバムを見ようとした。確か勉強机の下、段ボール箱の中に眠っていたはずだ。


 箱を引っ張り出そうとする手が震える。深呼吸をする。


 ――ゆっくりと瞬きをして――目を開けると、手にはアルバムの空箱だけが握られていた。

 目線だけを動かすと、部屋の隅に放り投げられたアルバムが転がっていた。おかげで装丁の角がへこんでいる。

 そういえば自分は中学を卒業してから、一度もこれを開いたことがなかった。


「……誰にだって初めてはある。初めて見るアルバムの表紙を開くのに手こずるのも無理ない……」


 言い聞かせて、もう一度深呼吸。その表紙を開こうとする。


 ――目を開ける。

 机の引き出しが開いていた。いつ開けた? 

 足元を見る。彫刻刀の刺さったアルバムの表紙が見えた。印字のフォントまでズタズタだ。


「おいおいしっかりしろよ。ただ開いて顔を確認するだけ。ただの紙とインクとラミネートだ。奴らは飛び出してこない。声も聞こえない。この紙束に悪意はないんだ……」


 今度は先ほどよりも時間をかけて深呼吸する。

 ――目を開ける。


 自分の指の腹が切れて血が出ていた。

 見下ろせば、大ぶりな裁ちバサミで無残に切り裂かれたアルバムが横たわっていた。ところどころに紙片も散っている。


「…………ああ、そうだな場所が悪い。寝室でこんなもん見ちゃこれからベッドに入るたびに思い出して悪夢三昧だ。明るくて広い場所に移動しよう……」


 汚物を拾い上げるように指先でその紙束をつまんで持って、場所を移動する。

 ダイニングに来た。電気の紐を引っ張って照明を最大まで明るくする。

 そっと深呼吸をして、テーブルの上にそれを置き、椅子を引いて――。


 ――――――ビィーーーーーー!


 けたたましい火災報知器の音にはっとした。

 自分は椅子に座っていた。

 足元には金属製のバケツ。中には燃えている分厚い紙の束、元は卒業アルバムと言われたものの骸が炎に溺れていた。


「うわああ何やってんだッ!!」


 認識するや否や立ち上がり、石橋はキッチンボウルに水を入れてバケツの中を消火した。

 煤の混じった汚い水たまりに沈む、黒こげのアルバムの残骸。破片を拾い上げたとしても、もう中は確認できないだろう。


「ああ……本当何やってんだ…………」


 もう、確認できない。

 卒業生に河合という名前の男がいたかどうか、よしんば苗字が変わったとして、雁也という名を持つ男子生徒がいたかどうか、真相は煤になってしまった。


 ――これからもっと、苦しんでもらうぜ……。


 自分の幻聴でなければ河合は確かにそう言った。まるで以前の石橋を知っているかのような言い方だ。そして自分の記憶違いでなければ、あれは中学時代に聞いたことのある声だった。


 そもそも彼はなぜ自分を苦しめようとする? 

 玖珠の言った通り、己斐西を脅かした石橋を恨んでいるから? 

 それともやはり、中学時代の石橋と何か関連が……?


 ガチャン、と鍵の開く音で、石橋は堂々巡りの思考を中断した。


「ただいま磐眞くん、ママ帰ったわよぉ~」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る