ep39.「だから殴った。思い切ってね」

「さっきはかっこよかったよ玖珠さん、あんな美人の顔にも容赦なく正論パンチかましちゃって。僕なら躊躇うね」

「……だからだよ」


 駅へ向かう喜屋武を見届けてから、帰路の途中、そう言って玖珠は立ち止まった。少し遅れて立ち止まった石橋の一歩後ろで、すっかり暗くなった空を見上げて玖珠は少し自嘲気味に呟いた。


「あんな美人に付きまとわれてさ、熱烈に愛をぶつけられてみなよ。誰だって揺らぐさ。みんなが焦がれる一番星が、自分だけに執着する。そりゃあ聖人君主でもない限り、誰でも優越感が気持ちよくなる……」


 今まで見たことのない、諦めに似た暗い色を滲ませて玖珠は視線を遠くに投げる。


「だから殴った。思い切ってね。――美人ってだけで顔を傷つけることをためらうのは、人を上辺だけでしか判断せず、ただ持ち歩くと嬉しいからってだけの理由でそいつと付き合うのと同じくらいに軽薄なことだよ。そりゃあたしの正義に反するってやつだ」


 言い終えて、玖珠は視線を石橋へと戻し、歯を見せて笑った。


「全くあたしもちょろいよな。正直わりとグラついてたんだ。はは、踏みとどまれて良かった」

「……いや、やっぱり玖珠さんはかっこいいよ」

「そうかい?」

「うん。玖珠ネキって呼んでいい?」

「だめだよ」

「だめかぁ」


 どちらともなく再び並んで歩き出し、玖珠が話題を変えるようにぎこちなく口を開いた。


「それより石橋君さ、あのー。…………さっきのあれは何?」


 さっきのあれ、と言われて石橋は「ああ」と心当たりに笑った。


「あの即席オネエ作戦? あはは、我ながらずさんな嘘だとは思うけど、ああでもしなきゃ喜屋武さん、僕みたいな人種とはまともにお話ししてくれそうになかったから」

「そっちじゃなくて。いやそっちも驚いたけどそうじゃなくて――」


 まるで気まずいことを切り出すかのように言い淀んで、逡巡した後に玖珠はしっかりと目を合わせて言った。


「……あたしが倉庫で往生してた間に何かあったんでしょ? 顔見れば分かるよ。河合君と倉庫にやって来てから様子がおかしいもの。喜屋武さんにやられた足が痛むってわけでもなさそうだしさ……」


 今度は石橋が先に立ち止まり、その一歩前に玖珠が立ち止まって振り返った。その視線は逃げを許さなかった。


 やはり玖珠は鋭い。彼女の言葉は図星だった。

 喜屋武と別れてからというものの、石橋の頭には河合の存在がこびりついていた。保健室で聞いた恐ろしいあの声が頭で反響する。ずっと耳から離れない。ひどく恐ろしかった。


 玖珠は頼りがいがあるから、きっと河合のことを話すべきだ。

 頼れる友人として、あれが幻聴だったかどうかを一緒に考えてくれるだろう。どうせ黙っていればその名前が出る、だからその前に――。


「かわ――」

「安斎さん」


 玖珠を遮って出た名前に、自分でも少し驚いた。


 嘘だ。

 本当は河合が恐ろしい。

 あいつのあの声は異常だった。あんなタイミングで自分の前に現れたのも不可解だった。

 なのに口をついて出たのはその名前だった。


「安斎さん、明らかに怪しくない? 普通あの場で僕らを置いて帰る? 流血したクラスメイトが二人もいるってのに」

「は……安斎さん……?」


 玖珠が訝しげに首をかしげる。

 その間にも河合に触れられた腕が、低温やけどのような違和感を持って石橋を侵食しようとしている。


「そりゃ、安斎さんも確かに変わったところはあるけど……でもあたしはあのとき、安斎さんは石橋君が酷い顔をしてたから気を利かせて河合君と帰ってくれたんだと思ったよ。だって石橋君、前からそうだったけど河合君が傍にいると顔が青くなるんだよ。きっと生理的に苦手なんだって誰でもわかるくらいに」


 その通りだ、間違いない。

 安斎も頭が切れる。あのとき河合を引きはがしてくれた彼女の判断は、石橋にとって救いだった。


「確かに苦手だけど、にしても優先順位が違わない? だって暴力沙汰だよ。なのに妙に落ち着いてたし、それにあんな都合よくあのタイミングで現れる? 玖珠さんこそ僕が来る前、安斎さんと何かあったんじゃないの?」

「あたしは何もなかったよ。安斎さんは倉庫で騒いでるあたしの声を聞きつけて、あたしを見つけてくれて、彼女が飛んでったあたしのメガネとスマホを見つけてくれたあたりで石橋君たちが来てくれたけど、他には……ああ、そうだ……」

「やっぱり何かあった?」

「……いや、安斎さんがあたしの様子を確認してくれてたときさ、“きゃっどこ触ってるのぉ?”、“やだわたしったらそんなつもりじゃ”っていう幸せハプニングには見舞われたけど――」

「何もなかったんだね……」


 玖珠が拗ねるように口を尖らせた。


 話がひと段落して、今度こそ安斎ではない方の人間の話をすべきだと思ったが、石橋にはそれを口に出せなかった。

 河合雁也という――名前を、存在を、概念そのものを石橋の心と体が全力で拒絶していたのだ。声に乗せ喉から出すことすら恐ろしかった。


「……何もないならいいや。僕の家はあっちだけど、玖珠さん一人で帰れる?」

「足は腫れてるけど見た目ほど痛くないよ。それなら石橋君だって大丈夫?」

「僕も平気。大丈夫なら早いとこ帰ろう。じゃないとほら……ニュースでやってた殺人鬼に殺されちゃうかも」


 あはは、と声だけは笑っていたが、石橋を見つめる玖珠の顔は一切笑っていなかった。

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