ep12.「なあ、石橋に告白したって、マジ?」
「石橋君っ」
「うわっ」
六月十三日、月曜日。
放課後、椅子に座ってのろのろと鞄に教科書を詰めていた後ろ姿に近づき、両肩を叩くとびっくりしたような声を出された。
だが本当は驚いていないのだろう。わざわざ教室から人がいなくなるのを待って、己斐西の方から話しかけるのを待っていたのだ。受け身で、鋭く、狡猾な男だ。やはりきちんと灸をすえて、己斐西の秘密を他言しないと誓わせなくてはならない。
「あはは、何驚いたフリしてんの。話しかけられるって知ってたっしょ?」
「いやまあ……でも昨日のことがぼくの都合の良い妄想という可能性も捨てきれなくってさ。だって己斐西さんから僕に……ね? やっぱり現実だったんだ」
「そりゃもーリアルよ、超現実。ね、今から一緒に繰り出すのも良いんだけど、せっかくだし待ち合わせしねぇ? 駅前で五時半に待ち合わせて、遊んで歩いてご飯食べて帰んの。ど? その方がデートっぽくない?」
「待ち合わせ、ね……。良いよ。僕が少し早めに君を待っていて、君は約束通りの時間に、ごめん待った? って言いながら小走りで来るんだよね」
「そうそう、ウチはたっぷりめかし込んで、ヒールで走りにくそうにさ。――って、あはは、ウケる! 石橋君けっこー冗談言うよね。いや今日のデート楽しみだわー」
きっと石橋は告白を嬉しいだなんて思っていないだろう。喜屋武は石橋が女子からの告白で舞い上がって鼻の下を伸ばすと踏んでいたが、己斐西はそうは思えなかった。
――どうせ他人の盗み見や妄想みたいな歪んだ趣味しかない、モテない僻んだぼっち野郎のこと……。
喜屋武のこの口ぶりからして、こいつが己斐西の秘密を知ったのはきっと偶然ではない。おそらく石橋は何らかの目的で、己斐西だけではなく大勢の人間を観察し、何かを盗み見ようとしているに違いない。そしておそらくその目的は、下卑た妄想で女子を汚したり、弱みを握って人を貶めたりすることではないだろう。
己斐西は石橋磐眞のことを二年生になって初めて知った。顔が広いと自負しているこの自分が、だ。“ミステリアス”では済まされない、何か底知れない彼だけに理解できる目的があるような気がして、己斐西はそれが心底恐ろしかった。
自分の進路のためだけではない。石橋という、得体のしれない不気味な相手に対する防衛手段のためにも、今日自分はこいつを下さなくてはならない。
「じゃあウチ、職員室に日誌出さなきゃだから。また後でね」
人を脅して楽しむような奴には見えないが――そもそも石橋の目的はなんだっていい。とにかく石橋が口を滑らせないことの確信と、彼が知ってしまったという事実の封殺が必要なのだ。
喜屋武には悪いが彼女に期待はしていなかった。石橋と立ち向かうために背中を押しては貰ったとは思うが、それだけだ。
石橋には真柴を利用して傷めつけ、己斐西の秘密を口外しないと誓わせる。
その後で喜屋武が石橋に暴力を振るうつもりがあったことを教師に告げ口し、学校内での信頼を落とす。そうすれば、万が一に喜屋武が己斐西の仕事のことを誰かに話しても相手にはされないだろう。そして被害を受けた石橋が何かを訴えても、己斐西は喜屋武のせいにできる。
つまり二虎競食の計というやつだ。己斐西の今の不安要素は、自分の秘密を知っている喜屋武と石橋の二人の存在。こいつらを相打ちさせ、己斐西の人生から消す。
己斐西は誰も信頼などしていなかった。この世に信頼できるものなど、限られたごくわずかなのだ。
***
職員室で担任に日誌を手渡してから一度教室に戻ると、すでに石橋はいなかった。彼はこれから、ほとんど親しくないクラスメイトとのデートに向けて、どんな準備をするのだろう。
無人の教室で一人、スクールバックに荷物をまとめてから、窓の外に目を向けると、中庭の花壇に見慣れた姿が見えた。じょうろを持って忙しなく動き回るお団子頭を見つけて、つい口元が緩む。
決戦の前に、一度頭をリセットするのもいいかもしれない。己斐西が友人に会いに行こうと窓に背を向けると、音もたてず――本当にいつ入って来ていたのか――河合がすぐ間近に立っていた。
「なあ、石橋に告白したって、マジ?」
河合は言うや否や、己斐西のすぐ隣の窓に片手をついて目の前に立ちふさがった。いわゆる“壁ドン”――いやこの場合は“窓ドン”というやつだろうか。女子から人気のある男子生徒にこんな風に立ちふさがられても、己斐西は何だかおかしくなって、軽く笑ってしまうだけだった。
「あー……なに、河合君そういうの気になるの?」
「なるよ、なってる。だって俺、己斐西のことずっと見てたから。可愛いなって、さ」
囁くように言う河合の声は、どこもかしこも怪しさ満点だ。全く真剣さが感じられない。そのわざとらしいまでに整った顔立ちで、演技めいた口調でそう言われても、何もときめくものなどない。
己斐西は呆れて鼻を鳴らし、顔の隣で邪魔をしている腕に手をかけた。
「ふーん……。あのさ、悪いけどあんた、本気度が足りないよ。ウチの言えたことじゃないけど、チャラいし軽薄っていうか……。本気で好きとかそういう言葉、そんな簡単にポイポイ言える? 少なくともウチは無理だな」
真っすぐに見つめると、カラーコンタクトに覆われた瞳がじっと己斐西を見つめた後に、観念したように笑って腕を引いた。
「こりゃ手厳しいな。はは。俺照れ屋なもんだからこんな言い方しかできなかったんだけど、何なら花束でも用意してりゃ良かった?」
「そーいうとこだよ。今時花束で喜ぶのは少女漫画の主人公だけ。……それから、ウチは誰にも告白なんかしてない。あんたの勘違いでしょ? 今は男とか食傷気味だからさ」
早口に言って、逃げるように教室から去った。河合は同じクラスの学級委員として一緒に仕事をしてきたが、未だに苦手な人物だった。派手な外見も、薄っぺらな言動も――まるで、自分を見ているようで嫌になる。いわゆる同族嫌悪というやつだ。
きっと河合が己斐西にこんな風に言い寄ってきたのも、ただの暇つぶしか、実験的なものに過ぎないだろう。本当に己斐西を好きなわけではないはずだ。
本当の自分を見て、それでもまだ好きだと言ってくれる人間など、己斐西はたった一人しか知らない。
***
途中で要らぬハプニングに時間を取られたが、中庭へ向かうとまだ求めていた姿はそこにいてくれた。
日差しを受けながらぼんやりと雑草を引っこ抜く後ろ姿に駈け寄り、一面の白い花畑に己斐西はつい歓声をあげる。
「やっぱここにいた――うわ、咲いてるじゃん咲いてるじゃん! 超綺麗!」
たった一人で真剣に花壇の世話をする、健気で不思議な園芸部。安斎がずっとこの鈴蘭畑のためにかいがいしく世話をしていることを、もう去年から己斐西は知っていた。
真白に広がる一面の鈴蘭を、己斐西は腕を高く挙げてスマホで上から撮影した。撮れた写真を見て笑みがこぼれる。
「いや正直舐めてたわー、ただ花が咲くだけで何をそんなにはしゃぐことあんのかと思ってたけど……いやこれは綺麗だわ。間違いなくバズるでしょ――」
「唯恋さん」
囁くようで意外と通る声が自分を呼んだ。己斐西はこの声が好きだった。いつも雑談をする派手目のクラスメイトとも、夜の街でのデート相手とも違う、浮世離れした彼女の声にいつも安心させられていた。
その安斎が今日は、土に着いていた膝を手で払って立ち上がり、どこか浮かない顔で訊ねてきた。
「あの……石橋君に告白したって本当ですか?」
つい笑顔が固まった。
先ほどの河合も知っていた。一体、どこから漏れたのか――いや、石橋とはベランダで話をした。外から誰かが見ていても不思議ではないだろう。
面倒に思いながら、首を振って笑ってごまかした。
「あー……いや、ややこしい話だけど、厳密に言えば告白じゃない。いろいろ事情があってそーゆー風になっちゃったってだけで、ウチは石橋君を好きじゃないし、多分石橋君もウチを好きじゃない」
「そう、ですか……でも――」
「そーゆーあんただって!」
きょとんとする安斎に、イラついた声をぶつけずにはいられない。
「あんただってさ……今日の昼休み、ここで、石橋君と親し気に話してたじゃん。あんたこそ石橋君のこと好きなんじゃねーの?」
今日の昼休み、派手好きな女子グループと一緒に動画サイトを見ながら過ごしていたとき、己斐西は確かに窓から石橋と安斎のツーショットを見かけた。花壇に歩み寄る石橋と、まるで待っていたかのように顔をほころばせて話す安斎の顔。
思い出すだけでも何だか癪に障った。自分が最も大切にしている友人が、あろうことか目の上のたんこぶと仲良くしているなど。
言われた安斎は「え」と言って俯いて、まじめな顔で首をかしげながらぽそぽそと口を動かした。
「これが好き、ということなんでしょうか? んー……やっぱりよく分からないんです。あなたには前にもお話ししたけど、わたし、自分の気持ちを理解するのが苦手なんです。石橋君のことは興味深いと思っていて、今日昼休みにお話ししてたのもそれが理由なんですけど……好きとか恋とかが、やっぱりストンと理解できなくって……。興味深ければみんな恋かと言われればそれは違うと思うし。だからもっとよく理解したいなと常日頃思っていて……」
真面目に斜め上の回答をしだす安斎を見て、目くじらを立てていた己斐西も毒気を抜けかれ、肩を落とした。
「そーね……あんたってそういうやつよね……」
こいつには、人の常識というものが通用しないのだ。
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