第三章 レースカーテンの未明
ep10.「…………あんたの作戦内容によるかな」
六月七日、火曜日。
窓から差し込む光がまだ白い、朝のことだった。
片や学級委員の仕事のために、片や部活の朝練のために、その二人だけが早朝の教室にいた。
「荒っぽいことは全部私がやる。己斐西さんには、石橋の油断を誘う手伝いをしてほしいだけ。悪い話じゃないと思うんだけどな」
目の前で背筋を伸ばし、そう自信満々にほほ笑む喜屋武は美しかった。最初から磨く必要のない宝石は、こんな風に堂々としているものなのだろうか。
飾り気のないポニーテールと、化粧品の化学反応なんて知らないきめ細やかな白肌を見つめながら、少し考えて己斐西は答えた。リップグロスに艶めく唇を開いて。
「…………あんたの作戦内容によるかな」
***
「綺麗な花だね、香りも良い。将来は庭つきの家でこんな花をたくさん育てたいね」
男の声に我に返り、急いでにこやかな笑顔に作って隣の彼を見上げた。
六月十日――つまり石橋がラブレターを受け取った同日――の午後九時五十二分のことだった。
通りがかったジュエリー店の玄関に飾られた花を指さして、男は穏やかに笑っていた。その細められた瞳の中に、しっかりと己斐西唯恋だけを捉えて。
男の指さす花を横目で見て、己斐西は明るすぎない声で答えた。
「かわいーよね。……だけどこれ、根を触るのも水やりすぎんのも嫌うらしいから、育てるの難しいんじゃないかな。名前は――」
「ルピナス、だろ? 覚えてるよ。だって前に唯恋に教えてもらったんだから」
好意を隠そうともしないこの男は、己斐西にとって客でしかない。彼にとっても同様に、己斐西はただのサービス業である。己斐西は彼に彼の気に入る少女を演じてみせ、彼はそれに報酬を支払う。履歴の残らないスマホアプリで知り合った間柄だった。世間では“パパ活”だの“援助交際”だのという呼び方をされていることは知っていた。
こんなアルバイトをしている高校生は、きっとクラスメイトの中で自分一人だけだろう。もちろん褒められる仕事ではない。見つかれば終わりだ。それでも時給数百円から税金を差し引かれながら働くよりよほど効率が良い。己斐西には金が必要なのだ。自分の夢を自分の力でつかみ取るための、資金が必要だったから、己斐西は敢えてリスキーなこの仕事を選んでいた。
「将来は一緒に庭をつくって、唯恋から僕の知らない花の名前をたくさん聞いて過ごしたいよ。あと、二年の辛抱だ」
「二年?」
「うちのバカ息子が大学を卒業するまでの時間だよ。いや、奇跡だよねこれって。だって後二年したら唯恋は十八歳になるわけだろ? 誰にもはばからず結婚できる。そのときに俺は息子が一人立ちして、父親として、夫としての責務を捨てても良いタイミングがちょうどやってくるんだよ。やっぱり僕らが出会ったのって運命なんだ。タイミングが良すぎる。そうだろ?」
己斐西はつい苦笑いを浮かべた。この客は役に入り込みやすいのが少し面倒だった。きっとテレビ番組の裏に脚本家がいることに気づきづらいタイプだ。
「あはは、お上手だこと。本気にしちゃうじゃんか」
「本気だよ僕は。唯恋だってそうだろ? 僕といるときが一番心が安らぐって言ってたじゃない」
「そりゃ真柴さんは落ち着いてるし博識だし、一緒にいる時間は何より素敵だよ。でもウチ、略奪愛の気はないよ。最初からお互いにそーゆー約束だったしね」
真柴には妻子がいることを、彼のスマホの壁紙を見て知っていた。己斐西はわざと自分のスマホを取り出し、ホーム画面の時計を見て言う。
「あー、そろそろ帰んねーとだ。もういたいけなJKが出歩いて良い時間じゃねーわ。それじゃね真柴さん、また今度――」
「ねえ唯恋」
踵を返そうとした瞬間に、スマホを持っていた腕を掴まれる。年上の男の存外に強い力に怖気が走るが、決して顔には出さなかった。己斐西はこの反応を待っていたからだ。
計画していた通りに真柴はスマホを睨みつけて、心底憎らしそうに言った。
「さっきの壁紙の子、誰?」
――下準備は、整った。
思わず己斐西は笑った。長い長いドミノ倒しが成功したときのような爽快感だった。
己斐西のスマホの壁紙に設定されていたのは、若干のふと眉とセンター分けの髪型が特徴的な、眠たそうな瞳をした男子生徒だ。彼が自分のスマホと己斐西のスマホを間違えて、ロック画面を解除しようとしたときに撮影された写真だった。
喜屋武に言われた通り、慣れないラブレターなど書いて、石橋の靴箱にねじ込んで、告白まがいの呼び出しを成功させたかいがあったというものだ。
己斐西は用意していた答えを、リップグロスに艶めく唇に乗せて告げる。
「今のウチの推し」
次の月曜日、己斐西は石橋とデートをする。
放課後、夜になるまで彼とこのあたりをぶらついて、たった今不愉快な顔をしたばかりの真柴の勤務先の前を通る。彼がちょうど、家を目指して歩くだろう時間帯を狙って、だ。
嫉妬に狂ったこの男が、自分と歩く見知らぬ男子高校生を見て、何をしでかしてくれるかは分かったものではない。
あわよくば、殺してしまうかも……。
***
六月七日の朝、自分を見つけて声をかけて来た喜屋武の出だしはこうだった。
「己斐西さん、ちょっといい? 実は昨日の夜、見ちゃってさ。あの――駅前の商業ビルから出てきたところ」
とことん最近の自分はついていない――真っ先にそう思った。
四日前には石橋に真柴からの通知画面を見られ、今度はあろうことか喜屋武照沙にまで見つかってしまっていたとは――。
校則を守り健全を愛し、些細な違反行為ですら見逃さず目ざとく糾弾するのが、己斐西の認識する喜屋武という女だった。校則違反ギリギリの派手な髪色やネイルを彼女にそれとなく注意された回数は、すでに片手の指を超えている。社会の教科係などせず風紀委員の方が似合いだとクラスメイトは嘲笑していた。おそらく彼女の美貌への嫉妬も含めての嘲笑だろう。
そんな女が、あろうことか自分の仕事を知ってしまったとは。
「……あの……急にごめん。我ながらデリカシーがなさすぎる切り出し方だったよね」
己斐西の落胆ぶりを見てどう思ったか、喜屋武は慰めるように他言しないとその場で口約束をしてくれたが、人など、いつ、どこで前言を翻すか分かったものではない。
どうこいつの口を封じるか――己斐西は特に悩むこともなくアイデアをひらめいた。
「……喜屋武さんは、女の子の味方、だよね……?」
案の定、喜屋武は「もちろん」と声を上げ身を乗り出した。喜屋武は学年――いや学校内の誰よりも群を抜いて美しかった。きめの細かな白肌も、艶のある夜空のような黒髪も、目尻の吊った切れ長の瞳も、全てが素のままで綺麗だった。
そんな喜屋武が男からどう下卑た視線を向けられてきたかは容易に想像がついた。だから喜屋武がしつこく己斐西のスカート丈について文句を言ってくるのも、彼女が男を嫌い女を守ろうとする生粋のフェミニストだからだと確信していた。
その喜屋武を焚きつけ、石橋を悪役に思わせれば、きっと彼女は出しゃばってくれるだろう。
「実はさ、そのパパから届いたメッセージの通知画面、ある人に見られちゃったんだよね。もちろんメッセージだけでバレるわけないし、そもそも直接的な言葉は使われてなかったわけだし、ウチが一方的に不安になってるだけなんだけどさ。その人に口止めすんのも変だしどうしようかなって。いや、無害そうな人ではあるんだけどさ……」
「もしかして、石橋磐眞だったりする?」
悲劇っぽく語る最中、喜屋武の口から出た名前に己斐西は驚いた。まさか先を越されるとは。
ひょっとしたら、喜屋武は以前から石橋を嫌っているのか? なら焚きつける手間が省けるが……。
己斐西の顔を見て肯定と受け取ったらしい喜屋武が、身を乗り出して口早に語りだす。
「わかるよ、私には分かる。ああいう大人しくて目立ちそうにないようなやつが、陰でコソコソ人のこと盗み見てニヤニヤしてること。きっと己斐西さんや私、ううん玖珠さんとか、とにかくいろんな女子のことをストーカーして、自分の下劣な妄想に登場させて一人で楽しんでるんだ。ああ、最悪! 薄気味悪いったらない……」
なるほど、喜屋武はすでに石橋のことを、忌むべき女の敵とでも思っているようだ。喜屋武の“根っからの男嫌い”という先入観が、石橋という存在に妙なフィルターをかけているらしい。
喜屋武はそこで「共闘しないか」と己斐西に持ちかけて来た。共闘――何とも正義好きな喜屋武が言いそうな言葉だ。
少し考えて、一応その場で乗っかってみることにした。
「…………あんたの作戦内容によるかな。確かに石橋君はなんか鋭そうだから、できるなら口封じをしたいよ。だけど喜屋武さんの作戦が確実っていう保証もない。ウチの負うリスクもわかんない。だから教えて、何をしようとしてんの?」
「私と己斐西さんの二人で、同時にラブレターを出すんだよ。どうせ他人の盗み見や妄想みたいな歪んだ趣味しかない、モテない僻んだぼっち野郎のこと。クラスの女子二人に同時に告られでもすれば、取り乱して正常な判断もできなくなるに違いない。油断したところを、私が痛めつけて説教して分からせる。それだけ」
正直言って、喜屋武の語った内容は全くお粗末な作戦だと思った。
しかし、まあ――今の己斐西にとってはかなり都合が良かった。
己斐西は確信している。先日、自分のスマホ画面を見られたとき――きっと石橋は真柴からのメッセージ通知を見たに違いない。何としても口を封じなければ、自分の進路が危ぶまれてしまう。
もともと石橋を傷めつけて口を封じるのが自分の作戦だったが、喜屋武がここまで言ってくれているなら、自分の手で石橋の口を封じた後、全ての罪を喜屋武になすりつければ良い。
万が一に真柴が石橋に襲いかからなかったとしても、他にも己斐西はすでに策を打っていた。あらゆる手を尽くして石橋を傷めつけ、口を封じて見せる。
それらが終わった後で石橋がどう被害者ぶって誰に何を訴えようとしたところで、己斐西には喜屋武がついている。すべては喜屋武照沙が黒幕で、石橋を痛めつけるためにラブレターなど書かされたと証言すれば、己斐西は少なくとも今後の進路に影響はない。
喜屋武は愚直だ。彼女の石橋への――この世の全ての男への憎悪を隠し通せるとは思えないから、石橋へ与えられる暴力の主犯は喜屋武だと誰もが思うだろう。
実に都合が良いことだった。
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