第二章 ロッシュリミットに乾杯
ep6.「――最ッ、高だよッ!!」
六月十三日月曜日、朝七時十五分。
石橋は玖珠が早朝に文芸部の部室として使われている、図書準備室で執筆作業に励んでいることを知っていた。文芸部員は玖珠一人だけではないが、わざわざ学校内の一室で、一人きりになって執筆したがるのは彼女だけだった。
ただし石橋がそれを知ったのは、彼が隣の図書室で委員会の仕事をしていたからではなく――玖珠が書いたと思われるWEB小説がきっかけだった。
こんな朝早くに玖珠が学校で執筆しているのは、文芸部の部誌のためではない。
石橋は図書準備室の扉を堂々とノックして、返事も待たずに中に踏み込んだ。
「おはよう玖珠さん、先週はどうも」
「えっ……えっ? 石橋君? なんで……てかノックの意味……」
闖入者に驚く玖珠に構わず歩み寄り、慌ててノートPCを閉じる彼女に切り出した。
「単刀直入に聞くけどさ、金曜のあれは嘘だよね。本当は玖珠さんはラブレターなんて書いちゃいないし、僕に告白する気もなかった。そうだろ?」
「へ? い、いやぁ。何のことかさっぱり……」
「申し訳ないけど僕も余裕言ってる暇はなくって。白状してほしいな」
「はは、ごめんよ石橋君。君のことはほんと人として大好きだけど、そんな根拠のない言いがかりは……」
「頼むよ、吐いてくれ」
玖珠の細い腕を取って、おもむろに注射器の針を押し当てた。玖珠の見開かれた瞳が、驚愕から困惑の色に変わるのが分かった。彼女が悲鳴を上げないタイプで助かった。
針が皮膚を包む薄皮を破く一歩手前まで力を入れ、石橋は交渉を始めた。
「僕は心穏やかな学生生活を送るために、これでも結構努力してきたんだ。それを今まさに誰かが明確な意思を持って、邪魔しようとしてる。君もその一人なんだ玖珠さん。どうして、何の目的で僕に嘘をついて告白なんてしてきたのか教えてくれないかな?」
「っ…………っさ……」
「さ?」
俯いて小刻みに玖珠の体が震える。これでは手元が狂って本当に針を刺してしまうではないか――。
本気で打つつもりはなかったので、少しだけ注射器を引こうとした瞬間、
「――最ッ、高だよッ!!」
真っ赤になって涙ぐむ玖珠が、あろうことか石橋の手首を逆の手で握り込んで笑っていた。震える声が泣き出すような口調で興奮をあらわにする。
「あああ……ほんと大好きだよ石橋君……君はいつもそういつだってそうッ! あたしの予想を軽々飛び越えてくれるんだ……いいね最高だ。へへっ……興奮、しちゃうなァ……?」
予想を斜め上に突き抜けて何か人としての大切な壁をぶち抜くような玖珠の言動に、正直に言って石橋はかなり引いていた。ひょっとすると自分は、ヤバい奴にヤバい絡み方をしてしまったのではないか――。
一度は紅潮した玖珠の頬が、次には青ざめていた。
――かなりまずい。玖珠璃瑠葉はまずい人間だ。
「ふ、ふへ。話しても良いよォ? 良いけどさぁ……まずはそう、あたしとお友だちになって欲しいんだァ……」
「お、お友だち……?」
「そうお友だちィ」
玖珠の手に力が入る。
――人は激情を感じた際に、顔を赤くするタイプと青くするタイプの二種類に分けられる。赤くなるのは交感神経が活発化し、我を見失って衝動的な暴挙に出るタイプだ。
対して顔が青くなるのは、副交感神経が優位になり、極めて理性的に物事を判断し、突ける隙がなくなるタイプ。
つまり今、石橋の手首を握ってニタニタ笑っている玖珠璃瑠葉は、激情に駆られて無意味に暴れるタイプではなく、冷静にプッツンしてなすべきことを完遂するタイプなのだ。
「あたしには分かる、石橋君は何かとてつもないヤバいことをたくさん抱えてる。そういう、ヤバイスリルのスメルを感じるのさ! だからそれをぜひともッ、あたしにおすそ分けしてほしいッ! あたしはスリルに生かされスリルを吸って生きる人間。脅威にさらされてこそ命の波動を実感できる! だから君みたいに人知れずヤバいもんを隠そうとしてる人がたまんなく大好きなんだ。頼むぜ大親友、この哀れなスリル欠乏症に、君の抱える非日常を恵んでくれよ……」
「なるほど、スリルジャンキーね……平穏を愛する僕には到底理解できない趣味だ……」
「いいやむしろッ、あたしらはとても近いところにいる! スリルを避けようとして自らスリルに飛び込む石橋磐眞と、それに底知れぬスリルを感じるあたし、玖珠璃瑠葉! だから君がなぜあたしの嘘をこんなデンジャラスなハッタリをかましてまで暴きたがっているのか、なぜこうまでして穏やかな孤立を死守しようとするのかッ……あたしはじぃっくり知りたいんだ。なぁに心配ご無用、君の邪魔はしない。むしろ君はあたしを上手く利用すれば、君は君の目標を果たすためのツール、つまり下僕が増えるんだぜ……? こんなお得なキャンペーンは今しかないと言っておくよ」
このとき石橋は、和田にすごまれたときよりも恐ろしい気分を味わっていた。間違いなく彼の人生における、手に負えない変人の優勝候補の一人だと思った。
まくしたてるような玖珠の声を可能な限り飲み込みながら、やっとの思いで石橋は発言する。
「いろいろ……つっこみたいんだけどまず聞きたい。僕のデンジャラスなハッタリっていうのは何のこと?」
「これさ、この注射器。こりゃインスリン注射だ。糖尿病の人が使うやつ。残念ながらあたしはこれに見覚えがある少数派の人間でね。いとこが患ってんだ……。よしんばあたしに予備知識がなけりゃ、見慣れない注射器突き付けられてビビり上がる場面だろうが、あたしはこいつを知ってたから、石橋君の期待する脅しにはなり得なかったってわけだ」
「なるほど、それは残念――だけど、君は今興奮してるんだよね? スリルに興奮するという玖珠さんが、いったいなぜただのインスリン注射器にスリルを感じて興奮してるわけ……?」
待ってましたと言わんばかりに、玖珠は片手で何かを掬い上げるような手振りで語りだしだ。
「そりゃあこの世に絶対100%の確実なんてあり得ないからだよッ! もし石橋君が注射器の中身を毒物に入れ替えてたら? もしあたしにインスリンへのアレルギーが現れたら? もしこの注射器がデコイで、実はあんたがもっとヤバい武器を隠し持っていたとしたら!? ――はアーたまんねえぜ、考えただけで無限にスリルが湧き出てきやがるよ、わくわくしちゃうよなァ!?」
言い放って玖珠は身震いしてみせた。昨年から執拗に自分などに話しかけてくる変な女だと思っていたが、こいつはかなりアブノーマルな性癖をお持ちのようだ。
石橋は恐怖を飛び越えむしろある種の愉快さを覚えながら、ゆっくりと呼吸を落ち着けて答える。
「……わかったよ、非常に不本意だがここは君とお友だちになろう。どうせ玖珠さんには知っていることを教えてほしいと思っていたから、親しくなれるなら越したことはない。だからまずは、その、恐縮だけど……この手を離していただけるかい……?」
「ああ、いいよ。でも友だちにクーリングオフなんてナシだ。明日になって絶交なんて言っても認めないから」
「君相手なら消費者庁も裸足で逃げ出すだろうよ」
離された手首をさすりながら――掴まれた部分が赤くなっていた――玖珠とテーブルを挟んだ向かい側の椅子に座った。
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