遥か彼方のユメセカイ

夜咲怜

プロローグ

 帰路きろをゆっくりと歩いて行く。

 空には真っ黒な雨雲が全体を埋め尽くしており、一時間ほど前から本格的に雨も降り始めていた。少しずつ街の景色が暗闇に染まり ——頼れるのは所々に設置されている街頭の灯りや、立ち並ぶ店と走る車のライトの明かりだけ。

 見慣れた景色を横目に映しながら、ピタリと目の前の横断歩道の前で足を止めた——なんとも運の悪いことに、ちょうど信号機が赤に切り変わった所だった。

 横断歩道の先頭にじっと立ち、ぼんやりと青信号に変わるのを待つ。

 水しぶきを上げて走る車の音が、傘を打つ雨粒の音がしきりに耳に響いてくる。


 ふと朧気おぼろげに正面を見ていた瞳が、車と車の間隙かんげきを縫って見える、対面といめんに立つ少女の姿を捉えた。頭上に傘は差しておらず——その代わりに全身をレインコートで包んでいる。片手にはビニール袋で保護したカバンを持ち、もう片方の手にはなぜか雨傘をたずさえていた。

 雨傘とレインコートなんて、どちらか一つだけで良さそうだけれど——そのことが少しばかり気になって、少女に気取きどられないように何度か視線を向けていた。

 だからこれは、単なる偶然だった。

 少女は左手に身に付けている腕時計を、何度も何度も頻繁ひんぱんに確認している——それも腕時計の時間を見るたびに、どこか焦ったような様相で、今にも飛び出して行きそうな雰囲気をまとっていた。

 確かにこの交差点の信号機は、赤から青へと切り変わるのに、少しばかり長い時間が掛かかるけれど——記憶が正しければ、だいたい二分と三十秒くらいだったかな。

 けれどもその待ち時間も、間もなく迎えるころだろう——少女から視線をらし、あと少しで変わる信号機を真っ直ぐに見つめる。

 青色から黄色へ、そして赤色へと変わった。


 ——その瞬間だった。


 自動車用の信号機が赤に変化したのとほぼ同時に、けれども歩行者用の信号機はいまだ赤のままで——つまり青信号に切り変わるのを待つことなく、向かいに立っていた少女は、横断歩道をただ一心不乱に駆け出していた。

 およそ周囲が見えていない。

 だからこそ少女は気付かなかったのだろう——信号機が赤色に切り変わった瞬間に、けれど停止線で止まれそうにない軽トラックが、少しのブレーキを踏むこと無く、そのまま交差点を走り抜けようとしていた。


 ——それは数秒にも満たない出来事だった。


 運転手が急ブレーキを踏むも間に合うはずもなく、トラックはすさまじい音を立てて衝突した。

 レインコートの少女ではない。

 少年だった。

 ほとんど無意識のうちに体が動き出し、少女を元いた場所へと突き飛ばしていた。

 あと一歩ばかり遅ければ、間に合うことはなかっただろう。

 身をていしてかばった体は世の理のごとく、さきの横断歩道が遠く感じるほどに、何度も体を地面を強く打ち付け、吹き飛ばされていた。

 全身が耐えがたい痛みに震え、体の所々から流血が止まらない。

 一目見てしまえば、誰もが理解する致命傷だった。

 思考もほとんど働いていない——少女の安否すら、まるで気にする余裕はない。

 そもそも視界がかすんで、何も瞳に映すことが出来ない。

 まだ意識だけは辛うじて保ってはいるが、それも時間の問題——すぐにでも意識が途切れ、そして深い眠りに落ちてしまうだろう。

 だからこの事態がどう収束したのか、処理されたのかは分からない。


 けれど。

 

 三日ほどの時間が経過して。

 次に目覚めたそこは、病院のベッドの上だった。

 真っ白い天井。

 生きながらえていた。

 まるで何事も無かったかのように。

 それが始業式の三日前のことだった。

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遥か彼方のユメセカイ 夜咲怜 @yozaki-toki

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