母上④
母上が眠るベッドの脇で俺は大事に抱えていた中瓶を取り出した。
「それは……アムリタの輝水!? いったいそれをどこで!?」
お師匠様が中瓶を鑑定したようだ。
つまり直ぐにバレてしまったということ。
「母上をどうしても治したくて、探し出してきたんです」
ベッドの上に上がって母上の寝顔を俺は見た。
母上のとても綺麗な顔──。
きっとお師匠様と出会わなければ母上が初恋の相手だったかも知れない。
まあ、エウフェミア・デルフィニーが初恋相手だった可能性もあったわけだけど。
まだ、血の気が通っていて、桜色のふっくらした唇を俺はじっと見つめる。
「いきます」
俺は口にいっぱい、アムリタの輝水を含んで、母上の口へと注いだ。
口移しである。
母上の喉が鳴り、飲み込んだことを確認。
俺と母上ではんぶんこだ。
満身創痍で手足が上手く動かせない俺もアムリタの輝水を飲んだ。
身体中の痛みが引き、疲れがどっと押し寄せた。
もう耐えられない。
俺はそのまま意識を闇に落としてしまった。
◇◇◇
魔物に噛まれたのだろうぐちゃぐちゃになって血塗れだったサクヤの左腕。
左足だって肉が削がれてまともに動かないだろう。
脇腹も抉れている。
そんな状態だと言うのにサクヤは大事そうに抱えて持ってきた右腕の中の中瓶。
背中の腰帯にはミスリル製のショートソード。
いったいどこで何をしてきたのか。それにこんな状態になってまで一体何のために──そして、
(人間って気持ちだけでここまでできるものなの?)
こんな小さな少年がこんな状態になるまで帰ってこなかった想いと理由。
ブラン・ジャスマインは愛弟子のサクヤが戻ってきた時。
不覚にも泣きそうになった。
ブランの記憶ではもう幾年月と涙を流した記憶はない。
それどころかサクヤと過ごした一年。
他人とこれほどまでに長く過ごしたことすら随分と久しい。
だからなのか、サクヤが行方不明となり、五日ぶりに姿を見たとき。
身体中が血塗れで歩くことすらムリだと思えるほどなのに自力で帰ってきた彼の姿を目にしたとき。
右腕に大事そうに何かを抱えたサクヤを見て、ブランは感極まって涙を流しそうだった。
だけど、ブランは涙を流すことはない。
そんな自分が居た堪れなくても、ブランは自然と身体が動いた。
いろんなことを置き去りにして、ただ、自分自身の感情のままにサクヤを抱き締めた。
「サクヤ殿下ッ!」
同じくサクヤを待っていたマイラ・ダンデリオンもサクヤに抱き着いた。
「殿下ぁっ!」
マイラは泣いた。
涙をボロボロと流して、顔をぐちゃぐちゃにして、恥も外聞もない泣き顔をサクヤとブランに晒す。
こういう時に涙は流れるんだとブランは脳裏を掠めたが、そんなことよりも、サクヤを慮り、まずは無事に戻ってきたことに安心したことを伝えた。
「サクヤ殿下。どうして? 本当に心配だったんだよ。良かった……。本当に良かった……」
痛みを堪えているのか青褪めた顔のサクヤだったが、頬をブランに擦り付けて帰ってきたことを実感したらしい。
右手に抱える中瓶と左手はしびれて感覚を失っていてだらりと垂れて血が滲んでる。
そんな姿のサクヤにブランは心が痛み、回復魔法で回復しようとした。
「傷だらけじゃないか……。回復してあげるよ」
「待ってください。ボク、母上のところに急いでるんです。一緒に来てもらえませんか?」
サクヤはもうひと踏ん張りと言わんばかりに、回復を断って母親の──ニルダ・ピオニアの下に行こうとブランとマイラを誘う。
片足の自由が効かないからびっこを引いて不器用に歩く姿にブランは手を貸したくなって──
「分かった。でも、そのケガでは動くのもやっとだろう? わたくしが抱っこしてあげよう」
と、そう言ってサクヤを抱こうと手を伸ばすと脇に差し掛かったところでサクヤが痛みで顔を歪めた。
相当にムリをしている。だけど、本人が助けて欲しいと言うまで見守るべきなのかも知れない。
ブランは迷って、後ろから見守ることを選んだ。
ニルダの私室にはもう五日も目を覚まさないニルダがベッドに横たわり、傍らにはライラ・ルベールというリリウム教キャンディダム教院所属の
ライラはブランと同じ日に登城してブランの鑑定とライラの治療で容態を保っていたが現在の症状は芳しくない。
ライラの魔法で騙し騙し保っていたがニルダの体力がもう追いつかなかった。
サクヤはニルダの部屋に入ると直ぐにベッドに上がり右手の中瓶を口で開けて、口移しでニルダに呑ませた。
ブランはその様子を見て中瓶を再度鑑定。
アムリタの輝水──。
その効果は完全治療。
状態異常も含めて汎ゆる怪我──欠損なども含めた回復。それに魔力も完全に。
こんな治療薬が一体どこに?
アムリタの輝水の中瓶はニルダとサクヤが飲み合うと空になり光の粒子となって消え去った。
同時に気力の限界を越えていたサクヤはそのまま寝息をたてて眠りについた。
「アムリタの輝水……という完全治療薬みたい」
ブランの言葉にライラとマイラは、そんなもの聞いたこと無いとでも言いたそうな顔をする。
もう消えてしまったものをこれ以上追求することはできない。
しかし、目の前で起きたことがブランは信じられないという目で見続けた。
サクヤの左腕、脇、左足が完全に治っている。
血の気を失って青褪めていた顔も血色が良く健康的な肌色に戻っていた。
そして、ニルダが目を開く。
「んん……あ……」
色っぽい呻き声を発して身体を起こしたニルダ。
まるで今までの身体のだるさが嘘みたいに感じるほど爽快感。
死んだのかなとさえ勘違いした。
「あれ……私?」
周囲を見渡すとライラ、ブラン、マイラと視界に移り隣にはボロボロの格好で血みどろに汚れたサクヤが寝息をたてて眠っている。
ライラとマイラは驚いて
「「ニルダ様」」
と声を揃え、ブランはニルダを鑑定。
「どうやら完治したようですね」
ニルダが患っていた状態異常がなくなっていた。
「……サクヤ!?」
目が覚めてきたニルダはサクヤの尋常じゃない姿に取り乱す。
「サクヤ!?」
「ニルダ様。サクヤ殿下がニルダ様に飲ませた薬で治ったようです。サクヤ様は命を賭して薬を入手したようですが、薬は使用後に消えてなくなりました」
ブランが説明すると「私も見ました」とマイラとライラが続いた。
「サクヤ殿下もニルダ様のお薬を飲んで傷は完治しておりますがおそらく気力が限界で休まれてるのかと思います」
ブランは続けてサクヤが帰ってきた時の様子を説明し、何をしてきたのか──予想を交えてニルダに話す。
「そう──私、サクヤのおかげで死なずに済んだのね……」
「こんな状態になっても、死力を尽くしてまでも、サクヤ殿下はニルダ様を救いたかったのでしょう」
サクヤの着ていた服は血塗れで、ニルダにアムリタの輝水を飲ませるまでは自らも血を流し続けていた。
だからニルダのベッドのシーツなどはサクヤの血で真っ赤に染まっている。
それもまだ、乾いてもおらず固まってもおらず。
「死ぬ覚悟はあったけど、私、サクヤに泣きついてしまったの……。やっぱり死にたくなかった。サクヤとシミオンの人生をもっと追いかけていきたかった──。それをサクヤが叶えてくれたのね」
ニルダは隣で眠っているサクヤの頭を撫でる。
愛おしい──そんな気持ちで胸がいっぱいになった。
「サクヤがここまで育ったのは、一年間、しっかりとサクヤを見てくれたブラン様のお陰なんでしょう。心から感謝いたします」
「いいえ。わたくしなんて、サクヤ殿下に教えたのはほんの少し、サクヤ殿下の人となりです。わたくしはサクヤ殿下にムリをさせてしまいましたから、むしろその責任を問われるべきでしょう」
ブランは帰ってきたばかりのサクヤの姿を思い出して、心が痛み居た堪れない。
泣きたいのに涙が出ない。どれだけ心配で心を傷めていたのかサクヤに知ってほしいとさえ思った。
でも、人間としての感情を思ったように表に出すことができない呪われた白の魔女。
教え子をこんな目に遭わせてしまった責任を感じていた。
「責任──と、仰るのでしたらサクヤのことずっと見ていてください。講師として、身近な大人の女性として。サクヤは自分が他人を守るばかりで彼を守ったり甘えさせたりしてくれる大人がおりません。私とマイラがおりますが、私は母親ですし、マイラは婚期がございますからいつまでもサクヤに仕えるわけにはいかないでしょう。それに、サクヤにはきっと、ブラン様が必要です。ですから、責任を──ということでしたらサクヤの傍にいてあげてください」
「──承知いたしました。そういうことでしたら、誠心誠意、サクヤ殿下の専属講師として任を全うさせていただきましょう」
「ええ。お願いいたします」
ブランはサクヤの講師を下りることを考えたが、ニルダに引き止められた。
とはいえ、ブランも悪い気はしていない。まだ、サクヤを見ていたいと思っていたからである。
ニルダはマイラと周囲の使用人を呼び、サクヤの身体を拭かせて着替えさせた。
サクヤは熟睡するとなかなか目が覚めないタイプ。だが、今回はこれでもかと大きく動かしても全く起きる気配がなかった。
サクヤの着替えを済ませて、次はシーツなどの一式を急いで交換させる。
ニルダの機転は夫のナサニエルを考慮したものである。
融通の利かない彼が血だらけのサクヤとベッドを見たらただでは済まない。
そして、ニルダの命を救った薬はサクヤが見つけ出してブランと一緒に届けたことにする──と、口裏を合わせた。
後始末を終えて、これまで伝えきれていなかった事の経緯をブランはニルダに説明。ブランが把握していない部分はマイラが補って──。
「サクヤからもお話を聞かなければならないのでしょうけれど、そうですか……」
全て聞き終えたニルダ。
スヤスヤ眠る我が子の頭を撫でて大きく息を吐く。
「この子は本当に……でも、ありがとう」
サクヤに救われた命なら、残りの人生をサクヤのために費やそう。
ニルダは言葉にせずに心の中で誓った。
その第一歩がブランである。サクヤにはこのブランという女性が必要だとニルダは考えている。
だから彼女を引き止めたのだが──ニルダ自身、この謎の多いブランを知りたいという気持ちもあった。
「わたくしもぜひ、サクヤ殿下からお話を聞きたいものです」
「そうでしょう? ゆっくりと時間をつくって問い詰めましょう」
まるで聖女の笑みである。
ニルダは愛おしいサクヤの額にキスをした。
そのタイミングで部屋の外から男の声。
「ナサニエルだ。入るぞ」
二十代後半の美丈夫。
背は高く壮健な姿の持ち主。
その美貌は周辺各国の美姫たちが褒め称えるほどのものである。
しかし、性格的に融通が利かず気の利かない男でもあった。
「ぬっ! 貴様か! ブラン・ジャスマイン……」
サクヤの父親、ナサニエルはブランを見るなり訝しげに眉間にシワを寄せて一瞥。
それから、目が覚めたという妻、ニルダへと目を向けた。
「おお! 目覚めたのか! これは良かった。俺はもう駄目かと思って……」
ニルダの手を握り、その手を額にくっつけて俯いた。
「ええ。サクヤとブラン様のおかげでこの通り。症状も消えて嘘みたいに身体が軽いんです」
ニルダの言葉に、ナサニエルは妻の隣で寝息をたてるサクヤを見る。
「サクヤも……一時はもう諦めかけていたが、無事に戻ってきてくれて安心した」
「はい。サクヤが私を救いたいと願って、そして、ブラン様が連れてきてくださったんです」
「そうだったのか……」
ニルダは経緯を大きく端折ったがナサニエルは二人の無事が分かり安堵した。
「ブラン・ジャスマイン。世話になったな。そういうことなら講師の件は引き続く宜しく頼む。サクヤのことをしっかり見てくれ」
ナサニエルの声にブランは膝をついて応じる。
それを見やったナサニエルは立ち上がって、ニルダに伝えた。
「この一年、お前がするべきだった公務を全てヌリアが代わって行っていた。故に正妃を正式にヌリアとするための手続きを行っていたのだが──」
「それでしたら構いません。このままヌリア様を正妃としていただいたほうが民は納得なさるでしょう? 私は病弱でここ何年も、休んでおりましたし──」
「すまない。こういった事態だったために早急な対応が必要だったところもあった。目覚めたばかりでこんな話をして済まなかった。後でゆっくりと話しをさせてもらいたい」
「はい。お待ちしております」
ナサニエルは目覚めたニルダとサクヤの無事を確認して公務に戻る。
この場はこれにて解散。
マイラとブランはサクヤを連れてサクヤの私室に戻った。
この日、アムリタの輝水で完全回復したニルダ。
一日の終りに訪ねてきて話の続きとナサニエルの誘いに乗ったニルダは、本来の体力でナサニエルに応じてしまい、翌朝のナサニエルは干物のように干乾びていた。
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