第52話 SIDE:時島

 ――左鳥は、綺麗だ。


 時島は、待ち合わせをしている東京駅のホームに降りた時、改めて思った。


 物憂げな表情を俯きがちにしていた左鳥は、それから我に返ったように視線を彷徨わせている。それが、己の到着を待っていたから、自分の姿を探していたからのものである事を実感し、時島は喜ばずにはいられなかった。


 大学時代は、左鳥の顔を見ると、ホッとしている自身が確かにいたのに。

 距離が遠くなると、安堵とは異なる――会う度に胸が高鳴る現実を、時島は自覚させられていった。


 視線が合うと、左鳥が微笑した。その笑みに心が疼いたけれど、それを押し殺すように時島もまた小さく笑った。

 実家に戻り、数ヶ月が過ぎようとしていた。ここの所は、あまり東京に足を運んでいない。


 理由が無いわけでは無かった。いくらでも作り出せる。けれど、不思議と左鳥に言い訳をする気持ちは起きなかった。ただ、足が自然と遠のいただけだったからだ。理由は分からない。ただ、左鳥に嫌われる事が怖かった。左鳥に会って、二度と手放せなくなる自分も怖かったのかもしれない。


「左鳥」


 名を呼ぶだけで生まれる透明感。氷のような左鳥の気配が、硝子のように変わるひと時。


 それだけで、時島の胸には満足感が満ちる。ああ、左鳥は自分の声で、表情を明るく変えてくれる――今は、まだ。左鳥の事を考えると、自分が自分ではなくなりそうで、時島は怖かった。


「時島、元気にしてたか?」

「左鳥、すぐにホテルに行きたいんだ」

「あ、ああ」


 そして、『抱きしめたいんだ』と続けようとして……それが出来無かった。


 ただ左鳥は時島の言葉に、微笑しただけだった。けれどその表情が、どうしようもなく寂しそうで、悲しそうで。時島にはそう見えた。


 左鳥を暴きながら、ホテルの一室で時島は痛む胸を押さえた。瞬きをする度に、蛇の瞳が映っている気がする。けれど蛇にすら、神にすら、左鳥を渡したくないと思う自分が確かにそこにはいた。絡み付いてくるような左鳥の中を味わい、息苦しさに上がった吐息を吐く。もう左鳥が限界だろう事は、張り詰めた前など見なくても分かっていた。けれど、それでも、どうしても――もう少しで良いから繋がっていたい。そんな我儘で、いつも左鳥に無理をさせていた。分かっていた。分かっていたのに。抑制が効かない。


「時島、時島!!」


 己の名を呼ばれる度に切なくなって、それが嬉しくて。

 それから、二人で眠った。


 比較的いつもの――そして掛け替えの無い一夜の記憶。


 まさかそれが最後になるだなんて、時島は考えてもいなかった。


 左鳥とは、毎日連絡を取るわけでは無かった。けれどそれを、便りがないのは元気な証拠だと、思い込もうとしていた。そんな自分自身に、時島は気づいてもいた。それでも自分から連絡をする気にはなれない。返信が無かった時の事を考えると怖かったからだ。だから、『東京に行く日時』というような具体的な用件が無ければ、連絡をする事は無い。丁度メッセージアプリが流行し始めた頃だったが、使った事すらなかった。


 紫野から連絡が来たのは、そんな時の事である。電話だった。


『もしもし、時島』

「なんだ? 久しぶりだな。左鳥に何かあったのか?」

『何かあったら、お前の方が先に知るはずだよな?』


 紫野の声に、唇を噛みそうになって、時島は受話器越しだというのに顔を背けた。

 そうであって欲しかった――誰よりも、一番に左鳥の事を知りたかった。けれど、恐らくそうではない。己よりも、物理的に住居の距離が近い紫野のほうが、詳しい気がした。


 左鳥の心が見えなくなりだしたのは、大学四年生の頃だったと思う。

 何を思い、何を考えているのか、時折分からなくなるのだ。辛い思いをさせてはいないかと考えたのは最初の内だけで、あとはひたすら嫌われる事に恐怖した。それが幸せすぎる悩みだとは、時島には思えなかった。


『左鳥に連絡が取れない』

「――何?」

『時島は、最後に連絡を取ったのいつだ?』

「それは……」


 咄嗟に出てこなくて、時島はそんな自分に狼狽えた。


『……俺が知る限り、二週間前にはもういなかった。マンションに。帰ってこない。携帯は繋がらない』

「まさか」

『まさか? 時島……左鳥とは、きちんと連絡を取ってたんだろうな?』

「……」

『左鳥の気持ち、考えた事あるのか?』

「……」

『とにかく、いないんだよ。探してる。居場所が分かったら、連絡をくれ』


 紫野はそう言うと電話を切った。

 その後の通話終了を告げる機械音だけが、時島の耳に暫くの間残響していた。

 以降、まさか長い期間、左鳥の顔を見る事が出来無くなるとは、この時の時島は、まだ考えてもいなかった。


 ただ、震えていただけだ。


 ――手放してしまった? そんな恐怖に身を巣喰われ、ただ一人で険しい顔をしていた。蛇に嘲笑されているような気分だった。しかし同時に、初めて蛇神の家に生まれて良かったと思った事もある。


「蛇神は、決して産子を逃がさない」


 呟きながら、一人で時島は笑った。あるいは、泣きそうになっていたのを誤魔化したのかもしれない。

 ――絶対に左鳥を、己の手から逃がしてはやれない。

 最早、左鳥が全てだった。





 時島がまとまった時間を取って上京したのは、晩秋の事だった。

 紫野に呼び出されたからだ。


 その頃には、時島も、左鳥が実家に帰っているのだと聞いていたから、少しだけ心の平静を保つ事が出来ていた。だが、『帰っている』のではなく、『帰った』のだという事実を――引っ越した事を、長らく時島は知らなかった。もう左鳥の顔を一年近く見ていないという現実も直視したく無かった。けれど思い出の中の左鳥の笑顔だけでは、もう満たされない。


「久しぶりだな、時島」


 待ち合わせ場所で明るく笑った紫野の事が、なんとなく許せなかった。左鳥がいなくなってしまったのに、何故笑っているのか理解出来無かった。


「そんなに怖い顔するなよ。お前、昔から俺に対してあたりがきついっていうか、怖すぎる。そんなんじゃ左鳥に逃げられるぞ。いや、もう、逃げられたあとか」

「黙れ」

「俺はお前らを素直に応援したり出来無かったからな、本音を言うなら」


 スーツの上に纏ったコートのポケットへ、紫野が手を入れた。


「少なくとも、右京君にそんな姿を見せるなよ」

「……右京はいつ来るんだ?」

「もう待ち合わせ場所に着いてる。感謝しろよ、お前の事を待っててやったんだからな、俺は」

「悪いな」

「い、いや……素直に言われてもなぁ」


 その後向かったのは、ありきたりな喫茶店で、よく訪れた学生時代が、時島は懐かしくなった。


「お久しぶりです、紫野さん、時島さん」


 そこには、何度か顔を合わせた事がある左鳥の弟が座っていた。その事実に、懐かしさよりも先に時島は、ああ、少しだけ雰囲気が似ているけれど、左鳥とは比べ物にならないと、一人で考えていた。


 紫野と二人で、右京の前の椅子を引きながら、嘆息する。

 それから雑談を開始した二人を見守りながら、少しして……時島はカップを持つ己の手が震えている事に気がついた。――ああ、何を明るく気楽そうに笑っているのだ。ここには、左鳥がいないのに。それは、我ながら理不尽な怒りだった。


「左鳥は」


 唐突に沈黙を破った時島を、二人が見た。

 けれど時島は、何を尋ねれば良いのか分からなくなって、唾液を嚥下した。


「左鳥は、元気か?」


 漸く時島が捻り出したその言葉に対し、呆れたように紫野が溜息をつく。

 すると右京が困ったように笑った。


「全く元気には見えないです。日に日に顔色が悪くなっているらしくて……夏からは、ずっとお寺に泊まってます。そのおかげで、現状維持になったみたいですけど……それでもたまに実家に帰ろうとしては、止められてるって聞くし」

「寺?」

「実家のそば……ってほど、近くもないんですけど、東京に比べたら近くに、ちょっとしたお寺があるんです」


 時島に対して、答えながら右京が微笑した。

 そういう表情は、やはり兄弟だと感じさせる。似ていた。


「なんで左鳥は寺に?」


 紫野が聞くと、右京が視線を落としながら、指を組んだ。その手には、婚約指輪がはまっている。


「平家の七人塚って知ってますか?」

「平家の落人伝承の?」


 紫野が返すと、静かに右京が頷いた。


「俺達の実家の方にも、七人塚――俺達の方には、六部塚が七人分あるんです。平家の落人の末裔が七人、六部――修験者になって、そこで亡くなったっていう」

「六部塚なら、あれだろ、稀人殺しみたいな話だ。路銀を持ってるのを見て、庄屋が殺しちゃう話」

「そうです紫野さん。で、俺達の方では、平家の末裔の修験者を七人殺した、っていう事になってるんです。だから地元では、独特に、七部塚って呼ばれてます」

「それと左鳥に何の関係があるんだ?」


 いてもたってもいられなくて時島が言葉を挟むと、紫野が今度はあからさまに溜息をついた。


「右京君、続けてくれ」

「は、はい……その……詳しい事は左鳥には、『聞かないで欲しいんです』……ええと、左鳥は高校に入ってすぐの頃、そこへ肝試しに行ったんです。それで――左鳥だけが助かったんです」

「左鳥だけが助かった? 何人で行って?」

「分からないんです。それを境に連絡が取れなくなってる人は七人居るから――確実に亡くなってる人は六人はいます。俺が知ってるだけでも。紫野さん、だからその、これは、馬鹿みたいな話なんですけど、呪いなんです」

「馬鹿みたいだとは思わない。俺も時島も。呪いって、亡くなった奴らのか?」

「いいえ――七部の呪いです。本当は、七人じゃなくて、八人いたらしくて。その八人目がその塚を立てたらしいんです。八人目は、いつまでも自分の体の中で仲間が生きているようにと願って、七人の体を食べたっていう伝承が残ってます。だから塚には、頭蓋骨しか入ってないって。実際、発掘調査された事があって、中には、頭蓋骨が入ってたみたいなんですけど――それは伝承よりも……ずっと新しくて、明治のものだったみたいで。ちょっとした騒ぎになりました」


 右京の声に、時島が低い声を出す。


「――定期的に誰かが憑かれて、埋めてるな」

「え?」


 聞き返した右京を見て、紫野が軽く手を振った。


「なんでもない、右京君。それで? まさか、『今回』の『八人目』は、左鳥だったのか?」

「八人目?」

「気にしないでくれ、今度は時島じゃなく、俺が失言をしたな――ええと、それよりも、それとお寺がどう関係するんだ?」


 改めて紫野が問う。すると右京が手を組み、テーブルの上に載せた。


「ええと、その……左鳥はその頃から、『鐘の音』が聞こえるって話す時があって――多分呪われちゃって……お寺にいると、ちょっとだけその音が聞こえなくなるみたいで……寺生まれの左鳥の友達が、呪いから守ってくれてるらしくて……ごめんなさい、上手く説明出来ません……ただその一件から、左鳥はひとつ勘違いをしているんです」

「勘違い?」

「一人だけ、遺体も出ていない行方不明の晶さんっていう人がいるんだけど……その人の歯型が、残されていた遺体についていて――食べたみたいだという話になったのを、左鳥は自分が食べてしまったと思っているみたいで」


 紫野と右京のやり取りを聞きながら、時島が険しい表情をした。


 ――鐘の音。


 それは左鳥の心が見えなくなりだした大学四年生の頃、何度か、いいや、何度も聞いた。


 左鳥の口からではない。

 左鳥を追い立てる鐘の音を、時島は聞いた事があったのだ。


 けれど『呪い』だなんて、全く思わなかった。何故ならばその鐘の音は、左鳥を言祝いでいるようだったからだ。


「左鳥が危ないんです。もうすぐ刻限になるから」

「刻限?」


 紫野が聞き返す。


「刻限が迫ってるんです。呪われた時、左鳥は、迎えに来る日時を聞いたって言ってて。それが今年なんです。寺にいるから、まだ守られているけど、それもいつまでもつか。最後の一人を食べに来る刻限です」


 右京が心なしか不安そうに続けると、頷きながら紫野が言った。


「左鳥をこっちに呼び戻せないか?」

「無理です。お寺から出るのも精一杯なのに……勿論出ないようにって言ってるのは、俺達とそこの住職さん達なんですけど――左鳥の今の体力じゃ、自力で動くのは、多分無理です。入院とか、そういう問題じゃなくて。なんていったら良いのかな。食べるし眠るのに、本当、なんて言えば良いんだろう」


 それを聞いた時、時島は立ち上がっていた。


「寺の連絡先は分かるか? 教えて欲しい」


 時島の声に、右京が紙を差し出した。電話番号が書いてあった。


「そう言われる気がしてたんです」


 受け取り礼を言ってから、時島は携帯だけを手に、外へと出た。この新しいスマホを左鳥にはまだ見せていないなと思えば、寂しさが込み上げてくる。


 コールする手が震える。


 それでも、秋風の下、時島は電話をかけずにはいられなかった。


『もしもし? 悪い、番号登録してないけど誰?』

「――っ」

『もしもし?』

「……左鳥は、その」

『――ああ……なるほど』


 電話の向こうで、驚いた気配がした。泰雅の声を聞いていると、直感が騒ぎ立てる。嫌な記憶を思い出していた。左鳥は自分がいない間、いつも誰かの肌を求めていたのだ。今は恐らく、この電話の相手と眠っているのだろう。そう悟った。


『左鳥は、元気ですよ』

「っ」

『って言ったら、信じるか? 信じねぇよな』


 電話の向こうで、苦笑するように、けれど――どこか誂うように泰雅が言う。


『あれだろ、左鳥の『アゲマン』。御法度の七部塚の呪いの話を聞いたのか』

「……左鳥の具合はどうなんだ?」

『最悪だ。左鳥が助かるんなら、俺はなんだってしても良いと思ってる』

「電話をかわってくれ」

『そうしたいけど、無理だ。寝てる』

「お前の腕の中でか?」

『そうだったら、どんなに良いだろうな――残念ながら、もう三日目を覚まさない。まぁ覚ます事には覚ますんだけどな……お前の名前を呼んでるぞ、時島さん』

「!」

『ずっと学生時代の夢を見てるみたいなんだよ。それを書かなきゃならないそうだ。死ぬ前に』

「左鳥は……」

『意識がある時は、書いてる。書くのが先じゃない、恐らく夢に突き動かされて、憑かれたみたいに書いてる。案外お前がやらせてるんじゃないのか。無意識に。ただそれで、左鳥は繋がってるんだよ。なんとか、現実に』


 確かに時島は、何度も、そう何度も、左鳥に忘れて欲しくは無いと、忘れないで欲しいと、願った。だから、それが生霊という形をとって左鳥に憑いたと聞いても驚かない。


『迎えに来てやってくれ――現実に』

「ああ。連れて帰る」

『あくまでも現実にだ。東京には、連れ帰らせない』

「連れて帰る」

『……いつ来る?』

「……冬までもつか?」


 それまでに、片付けなければならない事が、いくつも時島にはあった。

 本当は、何もかも捨てて、左鳥の側に行きたかったけれど。


『分かった。もたせる』

「……そうか。感謝する」

『礼は不要だ。左鳥は俺にとっても大切だからな。俺は、緋堂という』

「時島だ。左鳥を、頼む」


 それが、時島と泰雅の初めてのコンタクトとなった。

 以後二人は、何度か連絡を取る事となる。

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