第48話 霊障


 書く事が何も無い。俺は多分……つかれているんだろう。

 疲労の方だ。

 別に俺が書かなくとも、誰も困らないのだが、何というか……なぁ。


「どうしたんだ? 左鳥」

「へ?」

「ぼんやりして――霊障ってわけでも無さそうだけどな」


 時島の声に、ふと考える。『霊障』……?


 そもそも、様々な事が巻き起こっているが、端緒に戻れば、俺は怖い話を集めていたわけで……時島とも、もっとそう言う話をすれば良いではないか。何も恋愛的な意味で緊張して黙ったりする必要はない。霊障について聞いてみよう。って待て、俺は、緊張していたのか?


 いや、敢えて、今はそれを忘れよう。

 今は夏だ。

 怖い話にも最適ではないか。


「なぁ、時島――っ……!」


 聞こうとした瞬間、俺は唇を奪われた。


 漸く口が離れると、透明な唾液が、俺達の間に線を引いていた。


「な、何するんだよ!」

「悪い。左鳥が、俺を見て赤くなったから、つい」

「え」


 俺は赤くなっていたのか……。

 まずいまずい。このままじゃ思考が恋愛に傾いてしまう。


「あ、あのさ、時島」

「何だ? 明日から一緒に海に行くんだから、今日は失恋したくないぞ」

「ッ――あっと、そう言う話じゃなくて、『霊障』って、どんなの?」

「ああ――……思い出したくないかもしれないが、蛇に絞められた時、痕が体に出ただろう? ああいうものだ」


 ……そうか。気づいてみれば、もう俺は立派に、インタビューする側ではなく、される側……経験者になっているのか。そう思い、なんだか空笑いしてしまった。


 ――ちなみに、数年後、俺は霊障に悩まされるのだが、それはいつか記そう。


「ところで時島は、霊障に悩まされた事があるか?」


 俺が聞くと、時島が長い沈黙を挟んだ後、じっと俺を見た。

 その眼光に、背筋がゾクリとした。

 体が冷える。


 一瞬だけ、本当に一瞬だけ、蛇に見えた気がした。


「――ああ。今も、な」


 時島はそう口にすると、紫野から貰ったのだろう薬を一つ取り出した。

 和紙の包みの中に、薄い黄色の錠剤が入っている。


「左鳥……俺は、抑える。だから、せめて逃げないで欲しい」


 時島はそう口にすると、薬を飲んだ。

 ――逃げる? 何から? 何処へ?


 分からなかったが、俺の行動は決まっているように思えた。


「うん。俺は逃げないよ」


 ――ああ、『今』になって振り返れば嗤ってしまうほど白々しい台詞だ。

 頷いた俺を、時島が抱きしめた。


 ただこの時は、『今』そこに、時島の温もりがあれば、本当にそれだけで良い気がしていた。筋に触れる時島の髪が擽ったい。


 そんな事を考えていたら、時島に左手を取られた。そして薬指の付け根に、触れるだけのキスをされた。


「左鳥、愛してる」


 結局――やはり俺は、何も答えられなかった。



 さて、海の思い出を書く前に、この夏までに見聞あるいは体験した話を少し書こう。

色々なことがあった、まずは――……あれ、おかしいな。何も書く事が出てこない。


 ――午前四時半になった。夏の空は白い。


 久しぶりに何もせず、ただ時島に抱きしめられて眠っていた。考えてみれば、男同士が、ただ抱き合って眠るというのもいかがなものか。


 それでも不思議と、その腕の中から出たいとは思わないのだ。

 時島の胸板に額を押しつける。

 その時、時島の瞼が動いたので、反射的に目を伏せた。


 時島は両腕に力を込めると、俺を抱きしめ直した。額にキスされた時には、恥ずかしくなってしまい、もう目を開けられない。俺は眠っているフリをする。


 それから時島は欠伸をし、片手を伸ばした。卓上からペットボトルを引き寄せるような気配がした。目を閉じているから定かではないが、そこには、未開封のアイスコーヒーがあったはずだ。


 何かを飲み込む度に時島の喉が動いていた。その音に、ドキリとした。――起きていると気づかれているだろうか? ただ何も言わず、俺を腕枕し直した時島は、器用に何かを飲みながら、静かに横になっていた。


 その後も、朝の六時まで、俺は時島の腕の中にいた。

 目こそ閉じてはいたが、完全に起きていた。

 起きていたからこそ、六時になったら目を開けようと思っていたのだ。


 そして――時計が六時を告げる。


「おはよう、時島」

「起こしたか?」

「ううん。起きた。喉、乾いた」


 そう口にして、卓上を見て、俺は息を呑んだ。

 珈琲のペットボトルは、開封されていない。

 周囲を見渡してみるが、他にペットボトルらしきものは無かった。


「冷蔵庫から水を持ってくる」

「待って時島。時島、さっき何か飲んでなかった?」


 すると虚を突かれたような顔をしてから、じっと時島が俺を見た。

 視線を返すと、顔を逸らされる。


「……別に」

「……」


 明らかに、濁された。

 そうされれば逆に気になる。


「俺もそっちを飲みたいな」

「――止めておけ」

「で、何飲んでたんだ?」

「……左鳥の――タ」

「れ?」

「魂、だ」

「え?」

「……お前の香りに我慢が出来無かった」


 香り? 我慢? 何の?


 普段だったら、何を馬鹿な事を、冗談は止めろと、言ったかも知れない。だが、俺は実際に飲む音を聞いた。だからなのか、背筋が冷えた。霊魂? それを飲まれると、一体どうなるんだろう? 魂とは何だ……!?


 朝食には、時島がオムレツを作ってくれた。

 シャワーから出た俺は、水を飲みながら、時島を見る。

 時島は、サラダにドレッシングをかけていた。

 今日は洋食だ。


 外からは救急車の音がする。本日の幸先は悪い。だが空は晴れ渡っている。夏本番だ。


「時島は、どこか行きたい所あるか? 夏休み」

「そうだな、また山神地区に行きたい」

「っ」

「嫌か?」


 体を乗っ取られるんだから、嫌に決まっている。だが、思い出すと熱が腰の辺で燻り始めた。触って欲しい。――って待て待て待て。朝から俺は何を考えているんだ。


 ただ、既に答えは出ていた。


「嫌じゃないよ」


 こうして俺達の夏の行き先の一つが決定した。

 なおこの日は、妙に体が気怠くて、終始貧血のような状態だったのだが……俺はただの夏バテだと思う事にした。





 ――懐かしい。





 夏の暑い日。貧血を起こして立ち眩む。

 ――これは夏休みに入ってすぐの記憶で、紫野が夏風邪を引いた日の出来事でもある。

 魂を飲むなんて……イヤイヤイヤ、冗談に違いない。俺がホラー話のネタ集めをしていると知っている時島の、手の込んだ作り話だろう。


 頭を振り、ドラッグストアへと、俺はその日、立ち寄った。

 紫野に頼まれた食料品を買いながら、俺は溜息をつく。見舞いに行く最中だった。

 ――俺は、もしかしたら、時島の事が好きなのだろうか?


 すぐには答えが出てこない。その理由は多分、例えばそれが紫野や高階さんの腕の中であっても、胸が騒がしくなる俺がいるからだ。我ながら最低だ。優柔不断として片づけるにしては……ヤりすぎだと思う。


「左鳥?」


 家に行くと紫野が、アイスを銜えて、出迎えてくれた。思ったより元気そうで安心した。


「ものすごく顔色が悪いぞ……時島に何かされただろ?」

「え? ……いや、その……」

「甘くするとつけあがるぞ。あいつも、俺みたいに」

「何言ってんだよ」


 取り敢えず俺は、空笑いを返しておいた。

 ――紫野は優しい。

 さて、元気そうに見える紫野だったが、熱が三十八度もあった。


「ちゃんと寝てろよ」

「おぅ。じゃあ看病よろしくな」


 クスクスと笑いながら、紫野がベッドに横になる。薬はお手製のものがあるらしい。

 なんでも紫野によると、濡れタオルには非常に効果があるとの事で、俺はタオルを絞って、何度も変えた。


「抹茶プリンが食べたい」

「買ってないから」

「じゃあ左鳥を食べる」

「じゃあ、って、なんだよ、じゃあって」

「直球で言うより恥ずかしい台詞にして、熱を自分で上げて、上げきって、下げる計画」

「それ楽しい?」

「本音を言うなら、単に添い寝して欲しいだけだな」


 それから俺達は――……怖い話を始めたのだった。





 紫野の話は、次の通りだった。

 霊感の強い高校時代の友人、間中さんの話だ。


 間中さんはある日、F県I湖の出ると噂の場所に、バイト先の大学生を含めた五人で行く事になったらしい。車に乗っている間中嫌な予感がしていて、湖に着くと更にそれが酷くなった。湖は家族連れや恋人同士、遊びに来ている集団で溢れかえっていたらしいが、どうしても嫌な予感が拭えない。それでも尿意は訪れるもので、いやいやながらもトイレに向かったそうだ。すると大勢が並んでいて、思いの外混雑していた。思わず安堵の息を漏らしたのだという。


「楽しかったね」


 帰りの車でそう言うと、運転していた先輩が笑った。


「ああ、俺達の貸し切りだったもんね」

「本当、誰一人いなかったからね」

「すごい楽しかった」

「また行こうな」


 友人達のその言葉に、間中さんは凍りついたという。

 ――湖にいた人々は全て、間中さんにしか見えてはいなかったのだ。


「って、聞いた」

「ゾクッとした」


 俺がありきたりな感想を返すと、紫野が布団から起き上がった。

 すっかり体調は良さそうに見える。しかし、上辺だけだろう。紫野は意外と無理をするタイプだ。


「もう一つあるんだ」

「なになに?」


 紫野の話は続いた。

 今度は以前のバイト先の先輩の話らしい。


 先輩が大学生になったばかりの頃、サークルのみんなでアスレチックに遊びに行ったのだという。そして一緒に行った一人が、ロープを吊るして高い所から下へと向かう遊具に乗っている姿を動画で取っていたらしい。


 すると一瞬画面がぶれた。

 終わった後、何事かと、動画を再生する。

 すると途中で、黒いシルクハット姿の男が映り込んでいたらしいのだ。


 一瞬だけの事だったらしいが、しっかりと笑っているのが見て取れたらしい。

 その三日後、ロープで遊んでいた青年は交通事故で亡くなったそうだ。

 ――更にその動画を見ると、見たすぐ後、亡くなる人間が多かったようだ。


 紫野の先輩もまた、自動車事故に遭ったらしいが、一命を取り留めたのだという。

 紫野の話は、いつも怖い。

 俺が記すと怖くないが、紫野の話しぶりを聞いている分には、本当に恐ろしかった。


「そういえば、俺、リゾートバイトすることになったんだよ」


 紫野がそんな事を言い出したのは、怖い話が終わって暫くしてからの事だった。


「リゾートバイト?」

「そ。海だぞ海」

「海かぁ。何やるんだ?」

「海の家をやってる旅館で住み込み。働く所が、海の家になるか、旅館になるかは、まだ決まってないんだけどな」

「紫野も本当によくバイトするよな」

「また左鳥の事をどこかに連れて行ってやりたいからさ」

「……あ、有難う」

「なんだよ。照れるな、照れるな」


 確かに俺は照れていた。あまりにも紫野が率直だったからだ。


「左鳥? まさか風邪が移ったか? 本気で顔赤いぞ」

「や、違う」

「そっか?」


 顔を背けて視線を揺らし、俺は紫野には気づかれないように溜息をついた。

 紫野の事を嫌いになれない自分がいる。


「遊びに来いよ。なんなら、時島も連れて」

「分かった。話してみる。多分行く」


 その日は、そんな話をしてから、俺も眠った。





 ――本日は、雨が降っている。憂鬱な目覚めだ。時刻は二十時を過ぎている。俺は体育座りをした。ああ、お腹が痛い。


 人生に嫌気が差す事は誰にだってあると思う。

 勿論俺にもある。

 きっとそれはありがちで、世に溢れた感情だ。

 けれど己の中では紛れもなく重要な位置に陣取るその感情のやり場に、俺は窮した。


 ――なんでこんな時間に起きてしまったのだろう。

 ああ……。


「左鳥?」


 明日から俺達は海に行く。

 想像しただけで、体力的に辛い。


 寝不足で浴びる日光ほど忌々しいものはない。声をかけてきた時島をぼんやりと見上げた。起こしてくれれば良かったのに。分かっている、これはただの八つ当たりだ。今起きたのでは、徹夜以外で出発できる気がしない……。


 それから二人で食事をした。今日は鳥の唐揚げだった。

 ――この時からもう既に、嫌な予感に襲われていたのかもしれない。


 何かが俺にきっと囁いていたのだ。


 行くべきではない、と。



 翌日向かった海は、実に綺麗な青色だった。

 空も快晴で、これと言って目立つ雲もない。一つだけ入道雲があるから、本来の意味合いの快晴とは違うのかもしれないが、俺の中では綺麗な青空だった。


 綺麗な青の協奏曲。

 そんな事を考えながら、紫野のバイト先に向かった。

 旅館とは名ばかりで、そこは古びれたホテルに見えた。


 くすんだピンクとも茶ともつかない外観。

 海に面した高台にあって、すぐそばには、旧旅館も残っていた。そちらは木製の民宿じみていたが、現在では立ち入りが出来無いらしい。倉庫になっているそうだ。


「紫野」


 時島が紫野に声をかけた。すると紫野が笑った。


「ああ、来たのか。なんか思ったよりも暇なのに、休みが無い」

「中々、濃い旅館だな」

「だろ、時島。怖い話にはうってつけ――なんて笑ってる場合じゃなかったんだけどな」


 二人のやりとりに、俺は、ただ首を捻るしかない。

 すると古い方の跡地に、こっそりと紫野が俺達を案内した。


「っ」


 そこでは幾羽ものカモメが死んでいた。血の臭気に思わず手で鼻を押さえる。

 そばにあった棚の上から、その時紫野が古びた紙を取り出した。

 そこには紙自体は古いのに真っ赤な鮮血で、文字が書かれていた。


 ――『私ハ必ズ舞イ戻ル』と記されている。


 何なんだよ、これは……。


「紫野、何これ?」


 思わず俺は、口に出した。すると紫野が腕を組んだ。


「二人が来る直前に俺も見つけたんだ。オーナーに言いに行く。お前らの事も紹介したいから一緒に行こう」


 紫野は平然としていた。時島も険しい顔をしているものの、動揺した様子は無い。

 ただ俺だけが、馬鹿みたいにドクンドクンと煩い鼓動の音に翻弄されていた。

 それが俺達の、海での一夏の始まりだった。


 この旅館は、オーナーと女将さんの他は、従業員は皆、リゾートバイトで来ているそうだった。紫野の他には、その場には二人いた。


 オーナーは富澤さん、女将さんは夏枝さん。

 バイトの女の子が宇喜多さんで、男の子が大藤君と言った。


 富澤さんは、黒い短髪に少しつり上がった瞳をした、よく日に焼けた四十代くらいの人物で、白いTシャツに黒いエプロン姿だった。よく筋肉がついている。


 女将さんは痩せ型で、懐妊中だと聞いた。茶色い長い髪を後ろで縛っている。少し緩やかな波がかかった髪だ。

 宇喜多さんは近隣の街の高校生だという。ふっくらとした体型だった。巨乳だった……!

 大藤くんは、金髪の髪をしたイケメンだった。羨ましい。


 俺と時島は、紫野の友人として紹介された。ただすぐに、カモメの血の話題で持ちきりになった。


「ま、まぁ、悪戯でしょう」


 富澤さんが笑ったが、女将さんは顔面蒼白になり、他のバイトの二人は、よく事態が分かっていないようだった。

 その後、時島と俺は、客室に向かった。俺達にあてがわれた部屋は洋室で、壁には水色とピンク色の壁紙が貼ってあった。白いベッドが二つ。窓際には小さな机があった。


 姿見が大きくて、浴衣が置いてある。

 大浴場は地下にあるとの話だった。俺は早速浴衣に着替えた。

 すると時島が口元を手で押さえた。


「どうかしたのか?」

「浴衣……良いな」

「え?」

「脱がせたくなる」

「っ」


 息を呑んだ時には、俺は時島に押し倒されていた。手首を掴まれ、ベッドに縫い付けられる。真剣な時島の瞳に、胸が疼いた。俺は自分から目を伏せて、時島の唇を無意識に待った。柔らかい感触がすぐに降ってくる。俺は誘うように、自分から唇を開いた。優しく舌が入ってきて、絡め取られる。


 ベッドが軋む音がした。

 そのまま帯を解かれ、胸元から手が忍び込んできた。


 掌を胸に当てられる。自分とは違う温度にゾクリとした瞬間、乳頭を撫でられた。


「左鳥、辛かったら言ってくれ」

「……っ、平気だから」


 それからそのまま俺達は同じベッドに寝転がった。

 暫しの間、二人で睦み合う。場所が違うだけで、いつもより新鮮に感じた。







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