第41話 庵の賢者



 翌朝、速い電車に乗り座っていると、隣の席で弟が言った。


「このまま、まっすぐ、椚原に行こう。今日も休みだから着いて行けるし」

「え、良いけど……どうして? 元々行く予定だったんだろ? 今日じゃない日に」

「なんだかすぐに行きたくなってさ。よく分かんないんだけど」


 結局そのまま俺達は、椚原村へと直行した。

 出迎えてくれたのは祖父だったのだが――俺の顔を見た瞬間、目を見開き硬直した。


 急速に顔色が悪くなっていき、手が震えている。俺の視線に対し、その震えを押し殺すように祖父が拳をきつく握った。


「――山んながに、草嗣そうしあんにゃがいる。そごさ行くぞ」


 あんにゃとは、兄者――年上の男性の事を言う。親しい先輩のような意味合いだ。


 祖父はそう言うと、すぐに車の用意をした。


 弟はそのまま屋内へと促されたのだが、俺は問答無用で外に残され、お茶を出して貰う暇すらなかった。乱暴に、車に乗るように言われた。すぐに車が走り出す。通常はゆっくりと運転をする祖父が、珍しいことにスピードを出していた。しばらく走ってから、俺は見た事の無い峠への入り口で、祖父は右折した。ここは冬には通行止めになるほどの坂が連なっていると、後で聞いた。


 連絡などした様子も無かったのに、祖父の車が到着した時、門の前には一人の青年が立っていた。『あんにゃ』と聞いていたから老人がいるのを想像していたので、首を捻る。若い。


「草嗣あんにゃ、孫を見てくれ!!」


 そこにいたのは、青年だった。高階さんよりも少し下、俺よりも少し年上くらいに思えるので、二十代半ばだろうか。甚兵衛姿で、頭には白いタオルを巻いている。線のような細い目をしていた。口元には、柔和な笑顔が浮かんでいる。


「分かりました。四日後に、また」

「お願いします」


 祖父はそう言って何度も頭を下げると、俺を残して車に乗った。突然の出来事に呆然としていると、車が走り出した。さすがにこの峠の一番上からでは、歩いて帰るなど俺には無理だ。


「え、ちょっと……」

「四日後にまたいらっしゃいますよ」

「え、ええ……え? 四日って……」

「それまでは気兼ねなくこちらで、お体とお心をお休め下さい」


 そう言うと、草嗣さんが門の扉を開けた。中には伸び放題の草木が広がっていて、その奥に藁葺き屋根の、小さな庵があった。――『庵を結ぶ賢者』と俺に言った、遠藤の声が甦る。まさかこの青年がそうなのだろうか? いや、まさかなと、俺は思った。


「私は、この庵で暮らしている、柏木草嗣と申します。いつも近隣の村や町の皆様に助けられております」

「は、はじめまして……霧生左鳥です」

「四日の間、貴方を隆鷺さんからお預かりいたしますね」


 隆鷺は、祖父の名字だ。あの集落の大半の姓は、隆鷺だ。祖父と親しいのかそうではないのか、判断がつかない。まぁ預かってもらうほどの仲なのならば親しい方だとは思うが。


 ただ『あんにゃ』というのも、若いのに奇妙な呼ばれ方であるし、何故ただでさえ僻地のこの界隈の中でも、更に辺鄙なこの場所に居を構えているのかも不明だ。


 そもそもどうして、俺がここに残されたのかも分からない。分からない事づくめだった。


 それに俺は、夜熱くなる体が、きちんと四日間、堪えられるか不安だった。昨晩は右京がいたし誰とも体を重ねていない。ここ最近、四日を超えて、誰とも肌を重ねない日は無かった。椚原からもすぐに帰るつもりで来ていた。


 もしも俺が、この草嗣さんを相手に襲いかかってしまったら……そんな不安に駆られる。俺の体はそこまで堕落していた。堕落しきっていた。見ず知らずの人を誘ってしまいそうなほどに。最早男同士二人でいる恐怖など、もう何処にも無い。


「私は大丈夫ですが――……貴方には、少しお辛い日々になるかも知れませんね」

「え?」

「例えば食事などは、この時期でも、春に採れた山菜を解凍して食べていますので」


 冷凍庫はあるんだな、と、ぼんやり俺は考えていた。

 実際その日の夜の、食事は質素だった。


 一階しかないその庵には、奥にもう一部屋寝室らしき物がある他は、何も無かった。俺の布団はどこに敷かれるのだろうか。そればかりが気になっていて、まともに味など分からなかったものである。


 ――しかし、俺が布団で眠る事は無かった。


「着替えて下さい」


 手渡された白い着物に俺は着替えた。時島家で着せられた儀式の時の物によく似ていたせいか、俺は変な気持ちになった。あるいは、元から変だったのだとは思う。


 このまま、草嗣さんを押し倒して跨ってしまいたい――そんな感覚になってくる。許される事では無いと分かっているのに。


 大人しくその場で着替える。草嗣さんは、俺の体に何一つ興味を示さなかった。

 そこで男同士というのは一般的では無いのだと、改めて俺は思い直した。

 なのに熱くなる体が恨めしい。


「お苦しいでしょうが、我慢して下さいね」

「――はい?」


 草嗣さんが、赤い紐を手に歩み寄ってきた。


「え?」


 そして、俺を強制的に縛り上げた。突然の事に呆然として目を見開くと、縛られたまま正座させられ、柱の後ろに手を回され拘束された。身動きが取れなくなる。


「な、何を……」


 しかしこの行動に、最低最悪なことに、俺は期待して唾液を嚥下した。

 だが、草嗣さんはその後俺から距離を取った。


「私には、一時的に止める事しか出来無いでしょう。蛇神は気位も高く制御が難しい」


 何故蛇の事を知っているのだろうか。そう思って目を見開いた時、俺を安心させるように草嗣さんが微笑した。


「それでも必ず、体は楽にして差し上げられるでしょう」


 草嗣さんはそれだけ言うと、自分の寝室へと向かって行った。残された俺は、呆然とするしかない。

 ――そのまま、夜が更けていく。

 俺は縛られたまま、どんどん這い上がってくる熱に、浮かされ始めた。


 まさか自分が昂ぶっているとは知られたくなくて、必死で声を堪えたが、次第に腰まで動き出してしまう。いつもよりも強い衝動だった。一ヶ月ほど堪えた時の気持ちによく似ている。しかも今すぐにでも触られなければ、あの頃とは異なり、俺は正気を失うと感じていた。俺の体は、もうどうしようもない快感を知っているからだ。だがいくら身動きしようとしても、紐で縛られているため、体が動かない。そのまま俺は眠れぬ夜を過ごし――いつの間にか意識を喪失した。快楽を訴えすぎた体からは、理性と共に意識が消え去ったのだ。最後に記憶しているのは、自分の声だけだ。



 ――はっきりと俺が目を覚ましたのは、三日後の事である。


「よく頑張りましたね」


 無意識に深呼吸をしていると、そう言われて赤い紐を解かれた。

 窓の外の暗さから、夜だと俺には分かった。しかし俺の体は、熱くない。


「さぁ、これを」


 それから、小さな丸薬を差し出された。草嗣さんは、それから札を小さく折り始めた。

 すぐ側にお茶があったので、薬を飲んでみると、とても苦かった。

 思わず眉間に皺を寄せていると、今度は小さくなった紙を渡された。


「これも飲んで下さい」

「え、紙ですよ? 紙を?」

「前時代的な迷信ですが、蛇よけに」

「……」


 この土地の人々が時島家の事など知るはずも無いから、やはり蛇という言葉が出てきたのが不思議だった。それもあり沈黙しつつ、俺は草嗣さんの様子を窺う。俺の隣に正座した彼は、ただ穏やかに笑っていた。蛇神……そう考えながら、俺は静かに紙を飲んだ。


 すると、細く草嗣さんが吐息した。


「これで暫しの間は大丈夫でしょう。完全な対策とは言えませんが。ただし、蛇には気をつけて下さい。あくまでもこれは、一時的な解放に過ぎませんから」


 翌日、祖父が迎えに来たので、俺は車に乗り――そのまま降鷺の家の中に入る事もなく駅へと連れて行かれた。祖父はいつもの通りの人柄に戻っていた。ただし一切、庵の事や、俺の身に起きていた出来事については触れてこない。俺から尋ねようとしたら、「言うな」と言われた。こうして俺は都内へと戻った。


 ――なんと話して良いのか分からなかったので、田舎で薬を貰って飲んだとだけ告げると、時島が頷いた。来ていた紫野も頷いた。二人とも何も言わなかった。


 俺はここに来るまでの間に、妙に体が楽になった事だけは感じていた。

 ただし結局……俺達の関係は変わらなかった。


 最低でも週に一度は時島と肌を重ねているし、紫野とも肉体関係を持っている。その上、月に一度は高階さんとも会っているのだ。もっとも高階さんの場合は、月に一度くらい不定期に向こうから連絡が来るという形で、二週に一度の事もある。


 ――もう俺の体は駄目なのかも知れない。蛇神の力を抑えても。




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