第32話 死神


 俺は数日の間、時島に聞いた『紫野は、人殺しだ』という言葉に悩まされる事になった。あの紫野が? いつも明るい紫野が? まさか、としか思えない。しかし以前、本人に尋ねた時は、『秘密』だと言われた。


 ここはやはり直接聞いてみた方が良い気がする。ただの好奇心だけではない。少なくとも、意識的には心配なのだ。紫野はそれくらい大切な友達なのだと、自分の中で言い訳する。言い訳しているのだから、好奇心が無かったと言ったら嘘だ。


 あくる日俺は、紫野の家に遊びに行く事にした。バイト終わりの時間をそれとなく聞いて、押しかけたのだ。

 紫野は、その日は璃寛茶色の浴衣を着ていた。


「――左鳥? どうしたんだ?」


 呼び鈴を押すと、まだ帰ってきたばかりの様子の紫野が、すぐに出てきた。

 忙しい所に悪いなとは思ったが、そのまま家の中に入れてもらう。俺は形ばかり買ってきたアイスを理由に、即座に部屋の中に入れて貰うという手を使った。


「聞きたい事があってさ」

「なんだよ? 改まって」

「紫野って……――その、何のバイトをしてるんだ?」


 ずると紫野がアイスを銜えたまま、浴衣姿で俺を不思議そうに見た。

 俺はと言えば、持参したペットボトルのお茶を握り締めていた。

 紫野は、そんな俺静かに見ている。


「時島は何て?」

「え?」

「何か聞いたんだろ?」


 気まずさが浮かびあがってきて、俺はお茶を飲み込んだ。冷たい温度のおかげで、少しだけ動揺が収まったような気がする。それが救いだった。そして――俺は嘘をついた。


「別に何も聞いてないよ。ただ、浴衣を着てるのが不思議でさ」

「ああ、そりゃそうか。今日のは、居酒屋のイベントだ」

「え?」

「心霊現象、期待した?」


 紫野が楽しそうな顔でニヤリと笑った。


「お前、その格好で帰ってきたのかよ」


 一気に脱力した俺がそう言うと、不意に紫野がアイスを噛んだ。音が響く。


「他にも色々なバイトをしてるんだ。左鳥になら、もう話しても良いかもな。引かないなら」

「引くわけがないだろ」

「じゃあ明日、S記念病院の正面玄関に、朝の十一時な」

「病院?」

「ちゃんと話す。明日は――練色の浴衣で行くから」


 そして、そういう事になった。


 なお俺は、もう一つ紫野に話があったが、それは止めた。体が熱くなる事を相談して、何か薬を貰いたかったのだが、言い出せる空気では無かった。紫野は笑っていたが、それは上辺だけであるようにも感じていた。


 翌朝――俺はS記念病院へと向かった。


 S記念病院は、T市郊外にあった。総合病院だ。以前に遠藤梓が運ばれた病院でもある。白が基調となっている四角い建造物だ。総合玄関で待っていると、紫野が姿を表した。本当に浴衣姿だった。


「じゃ、行くか」


 見舞いに行くにしろ、病院のバイトにしろ、どちらにしろ不自然な格好であるのは間違いない。しかし受付を素通りしても、誰も何も言わない。俺だけが呼び止められた。


「どなたにご面会ですか?」


 面会予定の相手などいないから困惑していると、紫野が俺の手を握って笑った。


「葉山さんのお見舞いです」


 すると受付の人が、不意にぼんやりとするように瞼を細めた。何事だろうかと思っていると、ただポツリと、「そうですか」と、だけ言って通してくれた。


「あの受付の人、紫野の顔見知りだったのか?」

「違う。俺の姿が、ぼんやりとしか視えてないんだよ。意識も曖昧になる」

「は?」

「そういう作用のお香があるんだよ」


 そう言えば、紫野の部屋はいつもアロマの良い香りがするなと思い出した。オイルやお香が焚いてあるのだ。

 ――この頃は、一人暮らしの大学生の部屋では、そう言うものが流行していたから不思議に思う事は、それまでに一度も無かった。


 それから連れて行かれた病室は、個室だった。


「おお、来てくれたのか」

「はじめまして。N県の草壁です」


 初めましてと言う声と、紫野の言った名字に、俺は何度か目を瞠った。偽名なのか、例えば離婚して名字が代わったのかだとか、そんな事を考えていたと思う。


 相手は壮年の男性で、枕元には、葉山という名前が書いてあった。


 俺は、その時――ベッドの側にぼんやりと立っている、黒い影に気がついた。思わず凝視するが、人影は、ぼやけたままだった。動かない。ただ、手らしき部分が練色に光っていた。よくよく見れば、葉山さんの体の周囲もぼんやりと、練色に覆われているような気がした。オーラとでも言えば良いのかもしれないが、俺にそんなものが見えるとは思えなかった。紫野が側にいるからだろうか?


「目を伏せて下さい――私の声はすぐに聞こえなくなります」


 一人称を変えた紫野がそう言うと、静かに葉山さんが目を伏せた。


「見てろよ、左鳥」


 紫野はそう言って俺を見ると、ぼんやりとした人影に手を伸ばした。練色に輝いている光へとだ。そして何かを受け取るようにした時、紫野の掌の上に、練色の蝋燭が現れた。


 練色の蝋燭は、もう燃え尽きかけていて、紫野の手にする燭台の上で溶けていた。

 紫野が息を吹きかけその火を吹き消した時、黒い人影も唐突に消えた。


 それから紫野は蝋燭を細かく砕き始めた。紫野の手の中で粉々になった蝋燭は、すぐにバラバラになった。それを和紙に包むと、さらに粉状になるまで紫野は砕く。俺は呆然と見守っていたのだが、紫野はどこか慈愛に満ちた表情で――微笑んでいた。


「葉山さん、目を開けて下さい」


 紫野は三角に包装した和紙を、葉山さんに渡した。


「決意がついたら、どうぞ」

「有難う」


 それから紫野は俺の手を握ると病室を出た。二人で歩きながら紫野を見る。


「なんだったんだ? 今の」

「死神の蝋燭だ」

「え?」

「俺の曽祖父の――草壁家は、死神の蝋燭を砕いて、寿命を縮める方法を受け継いでいるんだよ」

「っ」

「――あれを飲めば、あの人はすぐに死ぬ。飲まなくても、もう蝋燭が無いから近々亡くなる。この浴衣は、な。その蝋燭を視るために、色を合わせてるんだよ」

「それって……」

「あの人は肝臓癌だ。もう長くない。自殺の一番の原因は、病気だって知ってるか? 健康問題だな」

「知ってるけど――え?」

「安楽死を望む人間は、思いの外多いんだよ。草壁の家は、昔から薬の一部として、死を売ってきたんだ。これが俺のバイトだよ。死神の蝋燭なんて、誰にも視えないからな、薬とは言えないのかもしれない。勿論、誰に検出されることもない。ただみんな、ぽっくり逝くだけだ」


 紫野が淡々とそう言った後、俺達は病院を後にした。

 ただ俺は確かに、ぼんやりとした黒いものを視た。死神はいるのかもしれない。

 だが俺には、紫野が人殺しなのかどうかは、判断がつかなかった。





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