―― 第三章:本当にあった怖い話。――
第14話 アレ
紫野と飲んでから帰宅すると、もう午前一時に近かった。
だが、時島の姿が無い。
ベッドに寝ているわけでもなく、もう一つの部屋にいるわけでもなく、シャワーに入っている様子も無ければ、キッチンやトイレにもいる気配が無い。
――こんな時間に、何処に行ったのだろう?
首を傾げつつも、思い当たる場所が、俺には一つだけあった。
紫野は入る事を許されているが、俺には「絶対に入るな」と時島が言う、例の奥の部屋だ。しかもその部屋の中から音がした気がする。だから俺は扉の前まで行き、静かに声をかけてみる事にした。
「時島ー?」
しかし、返事は無かった。だとすると、中から聞こえた物音は何なのだろう?
まさか、泥棒?
最近この辺では被害が多発していると言うから、そうなのかもしれない。
だが本当に泥棒か分からない以上、いきなり警察に通報する事も躊躇われた。確かめなければならないだろうが……どうしよう。「入るな」と言う時島の声が甦る。
迷った末、結局俺は和室の扉に手をかけた。恐る恐る中を見る。暗いので、電気をつけようと、俺は壁のスイッチを探した。そして、息を呑んだ。
「っ」
その瞬間、中から黒い人影が飛び出してきたのだ。
それは俺の体を通り抜けるように通過した。呆気に取られて反射的に振り返った瞬間、顔も何も無い――ただ黒い『それ』が、両手で俺の首を締めた。形だけは人型だ。
冷たい手が俺の首に食い込み、鈍い痛みと息苦しさに襲われる。そのまま俺は転倒した。絨毯に後頭部を打ち付ける。手の力はどんどん強まっていく。影は俺に馬乗りになって、動きを封じてきた。必死で俺は首に、己の指を当てる。
その黒い『ナニカ』も怖かったが、馬乗りになられているという――その体勢にも、恐怖を感じる。タクシー運転手の事を思い出しいた。
ガクガクと俺は震えた時、肩に噛みつかれた。どうやらその黒い物体には、口があったらしい。噛み切られるような、痛みに身が竦む。
――何だよ、コレ。
恐怖から思考が混乱し始めた時、服の下に冷たい手が入ってきた。
「嫌だ、止めろ!」
俺は必死に叫んだ。しかしその手は止まらず、俺の体に触れる。いよいよ恐怖が強くなり、俺は動けなくなる。目をきつく伏せ、一所懸命に呼吸しようとするのに、過呼吸でも起こしたかのように酸素が入ってこなくなる。
その内に――俺の体は、カッと熱くなった。認めたく無かった。俺の吐いた息は、熱い。
「あ、あ……嫌だ、止めてくれ」
気づけば俺は、泣きながら懇願していた。
「消えろ」
その瞬間、時島の険しい声がして、パシンと手を叩く音がした。
ほぼ同時に、俺の体の上にあった重みが消える。
「大丈夫か、左鳥」
「……」
何も言えないでいると、時島に抱き起こされた。俺は震えたままで、時島の腕に縋り付く。すると恐る恐るというように、時島が俺の背に手をまわした。
「俺の事も怖いか? それなら、離れるから」
「……怖くない、怖くないよ。それよりも、さっきの方が怖かった」
時島が今度は、更に強く俺を抱きしめてくれた。俺は、時島の温度の優しさに、涙した。
――なおこの時、紫野が時島の事を好きらしい事は、すっかり忘れていた。後日悪い事をしてしまったと感じたものである。
それから俺は、涙で滲む瞳を、時島に向けた。
「アレは、何だったんだ?」
「いつか話す。それよりも体が……辛いんじゃないのか?」
その言葉に俺は、こんな時だというのに萎えていない自身を認識した。
「ヌいてやるから……その、怖がらせるような事は絶対にしない」
まだ曖昧模糊としていた思考で、俺はその時頷いてしまった。
その後俺は、寝てしまったようだった。
結局あの黒いモノが何だったのかを、俺は今でも明確には聞いていない。
俺の肩には数日間、ヘビに噛まれたような歯形が残っていたのだった。
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