淮南王(わいなんおう)の叛乱

杉浦ヒナタ

第1話 序章~瘴気の底に沈む~

 馬車から降りると、生温く湿った空気が重く身体にまとわりついてきた。


「やっぱり淮南わいなんとは違うんだな」

 少年は大きく目を見開き、その場でくるくると回りながら、周囲の風景を興味深く観察した。


 大陸の東南にあって淮河わいがに沿って広がる広闊こうかつな淮南国とは異なり、どちらを見ても峻険な山々が目に入ってきた。

 古びた街を取り囲んだ緑は深く濃く、見上げた空は灰色がかった薄雲に覆われていた。


「地の果てのような所だとは聞いていたけど、本当だ」

 少年は両親、そして弟たちと長い旅をして、やっと目的地のしょくに着いたのだった。



 だがこの旅の途中、父親とは一度も会っていない。

 父親だけは、少年たちとは別の頑丈そうな造りの馬車に乗り、その中から一歩も出ることがなかった。

 少年たちも父親の顔を見に行く事はできなかった。馬車は常に武装した兵士によって囲まれていたからだ。


「淮南王の馬車には、たとえ王子であっても近付く事は許さん」

 今にも剣を抜かんばかりの勢いで、何度も少年は追い返されていた。


 しかし今日は父の馬車の周囲には誰も居なかった。扉も少し開いている。

 扉の隙間から、見慣れた服の袖が出ているのを見つけ、少年は足を早めた。

「父上、あんです」

 声を掛けても返事はない。いぶかしんだ少年は馬車を覗き込んだ。


 少年の父、淮南王 劉長りゅうちょうはそこに居た。座ったままの姿勢で、折れたように垂れた頭だけが、扉の方を、少年の方を向いている。

 肉がおち、どす黒く変色した顔のなかで、白濁した眼球が少年を睨みつけている。

「えっ?」


 吐き気と恐怖をもたらす腐敗臭が少年の鼻をついた。

 彼の父、淮南王は車の中で死んでいた。しかも相当に時間が経ている。

「……どうして」


 少年はそのまま意識を失った。


 ☆


 少年の父、淮南王劉長は漢の創始者 劉邦りゅうほうの庶子である。趙国を訪れた劉邦と、王の女官だった趙美人ちょうびじんとの間に生まれた。


 従来であれば、この幼児はそのまま一国を与えられ、漢王朝の有力な藩屏となっただろう。しかし趙国の重臣らによる叛逆計画が発覚したことにより運命は暗転した。


 母親を含めた趙王の一族は獄死。唯一命を救われたのがこの劉長だった。

 劉邦の后、呂氏のもとで育てられた劉長は、呂后の死後、その傲慢で粗暴な性格を顕わにする。


 成人し淮南王となった劉長は、その日、朝廷で列候に封じられている審食其しんいきという男を訪ねた。

 呂后の側近だったこの男は、劉長の母の助命歎願を無視し、結果として死に追いやっている。劉長にとって許しがたい男だった。


「貴様に正義の鉄槌を下す」

 劉長はそう言いながら、袖口に隠していた大槌を握り直して審食其へ歩み寄った。そして悲鳴をあげ背を向け逃げ出そうとする審食其へ、劉長は振り上げた大槌を叩きつけたのだった。

 ぐしゃり、と頭蓋を砕いた大槌が審食其の両肩の間に深々とめり込んだ。


 首級を取るよう従者に命じた劉長は、倒れ伏す死骸を見下した。

「もう跡形も残っていないか」

 脳漿と血に塗れた大槌を放り出し、ふん、と鼻で笑う。

 

 これだけの狼藉をはたらいた劉長に対して、朝廷は何の処罰も与えることは出来なかった。小国、だい王から転じたばかりの文帝は政治基盤がぜい弱で、淮南国を背景にした異母弟の行動を追認するしかなかった。


 だが、それも文帝が朝廷を掌握するまでだった。

 やがて権威を確立した文帝は、官吏に命じ劉長を訴えさせた。列候の殺害、皇帝に対する不敬罪に加え、淮南国において自儘に法を制定したなどその罪は数多い。そして謀反の噂がそれを決定的なものとした。

 劉長は身分を庶民におとされたうえ、蜀へ流罪と決まった。


 そして蜀への途上、恥辱に耐えかねた劉長は食事を摂る事を拒否。自ら死を選んだのだった。


 ☆


 気が付くと、目を腫らした母親の顔があった。隣には不安そうな弟たちの顔も見える。劉安はどこかの部屋に寝かされていた。

「ああ、安……よかった」

 それだけ言うと、彼女は床に崩れ落ちた。


「お母さま。車の中に、車のなかに……」

 あわてて身体を起こして言いかけた少年の言葉を、悲痛な呻き声が遮った。

 それで、少年にもやっと理解ができた。


「父上は、亡くなったのですね」

 その声に、母親の背中がびくっと震えた。しばらくして、まるで操り人形のように身体を起こす。


「違います。お父さまは殺されたのです」

 母親は顔をあげた。もはや泣いてはいなかった。表情のない蒼白な顔。その目には静かな狂気があった。

 これまで聞いた事の無い母の冷ややかな声に、少年はごくりと唾を飲み込んだ。

「だれが、父上を……」

 やっと絞り出した少年の声がかすれている。母は答えた。


「皇帝、劉恒りゅうこう


 劉恒。いみなして漢の文帝。そして少年の父、劉長の兄である。


「仇をうちなさい、安」

 母は言った。


「あの男はもちろん、その子々孫々に至るまで絶対に許してはなりません。どんな事があっても、必ず父の仇を討つのです」

 低く呪詛するように母親は言った。


 こうして、結果としては自らの意志による餓死だとはいえ、その原因となった朝廷に対する恨みは、淮南王家に強く、深く残ったのだった。

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