第4話 『彷徨える生殖器』


例えば、その小説の中の描写である。



 その『彷徨える生殖器』の主人公である小林清司准教授が、まだ中学三年生の時の話なのだが、丁度、数学の授業の時、小林少年が昼食後、ついウトウト寝入ってしまうのだが、それを見ていた数学の担任の先生が問題以外の細かな回答を全部黒板から消した後、ワザと小林少年にこの問題を解け、と意地悪で指名したのである。



 その問題は、超難問であり、また小林少年は、数学はあまり得意では無い。



 多分、黒板の前で右往左往する姿を、同級生の皆は思ったであろうし、数学の先生はこれを機会に、いつもの居眠りを注意するつもりでいたのだ。



 しかし、主人公の小林少年は、うたた寝する直前にチラと見た黒板の回答を瞬間的に暗記、黒板の前にスタスタと進んで行った小林少年は、一字一句間違う事なくその難問の回答を黒板に記述したのだが、実は、これと同じような事が、植田教授が中学三年生の時の数学の時間に実際にあったのだ。



 この事もあって、植田教授は、自分の通っているX中学校始まって以来の秀才の噂を立てられる事になるのだが、しかしこの事を知っているのは、どんなに多く見積もっても、当時の中学校の3年生や数学の担任の先生しか、い無い筈である。



 ちなみに、あの神田川梓は、東京都の出身だった筈だから、かような事実を知っている訳など毛頭無いのだ。



 ともかくも、植田教授にとって、あの神田川梓は正に天敵となった。



 例の、痴漢事件も自分には全く記憶に無いのだが、これを純粋に心理学的・精神医学的に解釈し直してみれば、あの時、自分はナルコプレシーの状態に陥り、そのまま夢遊病者のような行動で、彼女の下着の中を触ったのかもしれ無いのだ……。



 ただ、この事は、植田教授(その時は准教授だった)には、記憶に全く残ってい無いのだ。

 と言って、例の事件とはまたその心理状態や事実の現れ方は違うのだが、どちらにしても、神田川梓は自分の知ら無いもう一つの自分の本当の本質を、既にあの痴漢事件の時に見抜いていたのかもしれ無いのだ。



 ……そういう意味からすると、『彷徨える生殖器』は実に危険な小説であった。



 万一、この小説を捜査陣の刑事の誰かが読んだとしたら、この前の母子殺害事件の犯人の容疑者の一人に、自分が浮かんで来る事になってしまうでは無いか?



 その小説では、主人公の小林清司准教授は夢うつつの状態で連続強姦(不同意性交)殺人を行っていくという粗筋となっている。特に、最初の事件は、小さな市の町外れにある一軒家で行われているから、なお更の事である。



 母親の撲殺と、小学校の少女への強姦(不同意性交)殺人だ!



 正に、その時の小説の描写は、まるで神田川梓が隠しカメラか何かで見ていたかのように、正確に、その時の様子を再現しているのだ。そして、次の日の大雨でほとんどの証拠物が流された事も、そのものズバリでなのである。



 植田教授は、その小説『彷徨える生殖器』を出版した大手出版社G社に、自分のかっての大学の同級生の吉川明が編集者として入社している事を思い出し、久々に旧交を温めるような感じで、神田川梓の特にその単行本の執筆前後の状況を聞いてみたが、彼が言うには普段と変わら無い様子で執筆活動をしていたと言う。



 ……彼の言葉から推測すれば、北陸の植田教授の元に足繁く調査には来ていなかった事になる。確かに、植田教授が今住んでいる市は北陸の片田舎であって、神田川梓のような美人推理作家が、仮に極秘で調査に来たとしても、即、住民達の噂話に挙がるだろう。



 とすれば、極少数の人間しか知ら無いような、自分の小さい時からのエピソードを、一体、どうやって手に入れたというのか?



 一つだけ考えられるのは、神田川梓は、例の痴漢事件の被害者だから、その時の植田教授(当時は准教授)の目付きや行動から、ナルコプレシーや夢遊病を疑い、あの小説を書きあげたのだろうか?……無論、植田教授をモデルにしている事は絶対に間違いが無い。



 ただ、その解釈には説得力はあるものの、何度も言うように、自分の小さい時からの数々のエピソードまで、そのものズバリ言い当てるのは、まず、不可能な筈なのだ。



 万一、そこまで想像力で書けるとすれば、信じたくは無いが神田川梓には一種の千里眼、現在の超心理学で言う所の透視能力の持ち主だと言う事になってしまうであろう。



 勿論、植田教授自身、中学2年生の時に、彼が見た夢のお告げで五千万円の宝くじを当てた経験がある。だから、あながち超能力を否定するものでも無い。だが、宝くじが当たったのは単なる偶然だとも言えるのだ。つまり、この小説の中身を空想や想像力だけで書く事は、ほとんど不可能のように思えたのだ。



 そこで、植田教授は地元の、中学や高校時代の同級生に、1~2年程前に、自分の事を聞いて廻った若い美人女性がい無いか、確かめの電話をしてみた。しかし、6人の同級生に聞いてみたものの、誰も思い当たら無いと言う。



 しかし、この電話で、愕然とした事もあった。



 中学生時代、特に仲の良かった友人の河合俊介に電話をした所、河合はこの神田川梓の小説『彷徨える生殖器』を既に読んでいて、そして興奮して、次のように言ったのだ。



「なあ、ウエちゃん(植田教授の中学時代の仇名あだな)、あの小説、特に主人公の犯人の前半部分の描写、まるで、ウエちゃんそのもののように書いてあるよなあ……。



 今でも思い出すよ。確か、ウエちゃんが数学の授業中にうたた寝した頃を見計らって、あの赤鬼(当時の数学の先生は赤井と言う名字で怒ると真っ赤になる事から、生徒達から赤鬼と呼ばれていた)が、回答を黒板から全部消してから、得意げにウエちゃんを指名した所、ウエちゃんより数学が得意だったあの藤田一郎さえ解けなかった超難問を、黒板の前に行って、ウエちゃん、スラスラと問題の解答を書いたやろう。



 あの時のウエちゃんの様子は、俺たち同級生の中でも今でも語り草になっている程なんやが、一体、どうしてウエちゃんそっくりの人物像を、強姦(不同意性交)殺人犯の主人公としたんやろう?



 そう言えば、神田川梓は、ウエちゃんが東京の大学で准教授の時に在学し、その後中退した事になっているから、何か、ウエちゃんに恨みがあって、どこからか、このようなウエちゃんに絡むようなエピソードの数々を誰かに聞いて、小説に盛り込んだんやろうか? ……それにしても、どこからこのようなネタを仕込んだのやろう。



 まあ、不可解な小説には違いが無いなあ。何しろ根性の悪い奴が、あの小説を読めば、この石川県で起きた2年前の例の事件の真犯人は、ウエちゃんであると読めるじゃ無いか!ホント、不思議な小説やなあ……」



 しかし、私の同級生の河合の言う事はズバリ当たっていたのだ。

 確かに、あの事件は、睡眠中の不可思議な状態の中で、寸分の狂いもなく実行された。そして、その真犯人とは、このまま、状況証拠だけを追い求めていけば、今のこの自分に間違いが無いのだ。



 もし、石川県警の刑事の中で、あの小説をじっくり読んで、ひとつひとつ聞き込みを続けていけば、やがては、自分に辿り付くのに間違いが無い。



 かと言って、今更、どうのこうのと言ってみた所で、その小説は、江戸川乱歩賞を受賞し、今現在、本屋に山積みにされているのだ。全部を買い占める事などできもし無い相談だ。



 唯一、植田教授が助かったのは、あの東京の大学での痴漢事件だけがどういう訳かその小説には載っていなかった事だ。万一、その話まで記載されていれば、県警は東京まで出向いて行って、当時の学長や副学長に探りを入れるだろう。そうすれば、学者など気が小さい人が多いのだ。間違いなく学長などは当時の話をするであろう。



 ……そうなると、植田教授へ向けられる警察の目付きは180度変わるに違い無いのだが、あの痴漢事件の描写だけはすっぽりと抜け落ちていたため、何とか、このまま、時間が過ぎるのをただ待つしか無い。



 植田教授の関心は、徐々に、自分が捕まる事よりも、一体、神田川梓がどのようにして、植田教授の小さい時からの色々な話エピソードを手に入れたかのほうに移っていった。



 誰か、この自分に悪意を感じている同級生等の手引きがあったから、例の痴漢事件で頭にきていた神田川梓が想像力を働かせて、いかにも植田教授を真犯人に仕立てたような、あの小説を書いたのか?……しかし、そんな七面倒くさい事をしなくても、ズバリ、植田教授が怪しいと県警に密告すれば、それで事足りる筈では無いか?



 いや、それとも本当に、彼女自身の想像力だけで、あれだけの数々のエピソードを書き当てたのか?



 そのどちらにしろ、まずは、この点をハッキリしなければなら無い。特に、あの犯行時の描写など、まるで側で見ていたかのような書きぶりである。彼女は本物の超能力者なのだろうか?



 しかも、植田教授自身、既に「夢の中で」母子強姦(不同意性交)殺人を行った身なのだ。そして、それと同様の事件も現実に起きている。自ら動き廻る訳にはいか無い。

 ここは、自分のありとあらゆる知恵と知識と人脈を駆使して、この難問に向かって行かなけばなら無いのだ。



 ともかく、いかにその小説の内容が自分を指しているとしても、それは自分の小さい時からの個々のエピソードを知っている人間にしかその話は理解でき無いのである。



 ましてやその小説の犯人が、ナルコプレシーと夢遊病の患者であり、更に強力な瞬間記憶力を有しているなど、そんな奇妙奇天烈な人間がこの世にいるとは、普通の人間ではとても考え無いだろう。



 だから、百歩譲って、県警の刑事の誰かがその小説を読んだからといって、即、植田教授に目が向けられる事は無い筈だ。この点だけはしっかり押さえておいて、さて、問題はあの神田川梓とどう接するかである。



 かと言って、今、彼女に会いたいと言っても例の事件以来、犬猿の仲の二人である。簡単に会ってくれ無いのは間違いが無い。



 しかし、何とかして、事の真相を聞きださ無い限り、植田教授にしては、安心して眠る事さえできなくなってきていた。






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