第3話

 ――狗鷲は、自分で嘴や爪を岩にぶつけて折るというのは、ただのデマだ。

 だが、こと『天狗』に限っては、事実である。


 まずは、人の姿を象り、崖を登る事から、試練は始まる。人の形の手の爪は、すぐに折れ、剥がれ、指先は真っ赤に染まる。痛覚は当然ある。そうして秋口から冬までの間、長い崖を、羽を用いずに登り切り、初雪が山を染める頃合いまでには、神宿様と呼ばれる岩の前に立つ。この雪狗山の一番神格の位が高い神の前に。


「参ったか」

「はい」

「それでは、春に至るまでの間、その嘴と残りの爪を折るように。新緑と共にそれが治癒し再生したならば、そなたもまた真の天狗神となる」

「頑張ります」


 当然、嘴と爪が無ければ、人型であろうが狗鷲の姿であろうが、餌をとる事は叶わない。飢餓に耐える事もまた、試練と修行の一環だ。


 それ以降、神宿様は沈黙した。次に口を開くのは、試練が終わった時だと、父天狗から聞いていた夜野は、最後に首から垂らした飾りの勾玉を握った後、狗鷲の姿を象る。そうして、神宿様に嘴をぶつけて折り始めた。強い痛みがあったのは最初だけだったが、その刺激だけでも、心までもが折れそうになってくる。けれど――どうしても、珠樹に再び会いたいからと、無心に嘴を岩にぶつけた。少しずつ少しずつ、嘴が抉られ、削られていく。


 この試練、失敗すれば、待ち受けるのは、ただの死だ。


 素質があっても神になる事が叶わなければ、獣の狗鷲同様に、その命は尽きる。

 それを分かってはいたけれど、全力で夜野は励んだ。珠樹の事だけを考えながら。


「必ず戻って、番になるんだ。いつか、なんかじゃなく、春になったら……」


 そんな想いで嘴と爪を折り切り、そこからは大雪の最中、空腹と極寒に耐える日々を迎えた。彼の羽は、雪にまみれ、凍り付いた。それでもその瞳には、希望の煌めきがある。瞬きをする度に、脳裏を珠樹の笑顔が過ぎる。狗鷲の頭部から下げたままの首飾りが、時折吹雪に揺られて音を立てた。


 そうして一冬が過ぎるのを、時に意識が遠のきそうになりながらも、夜野は待った。



 雪狗山がある一帯の冬は険しく、雪解けは五月だ。場所によっては、山頂付近は雪が一年中残る事もある。朦朧とした意識で、巨大な鳥の体躯を神宿様の前で横たえ、傍から見ていると、生きているのか死んでいるのか不明瞭な状態となった夜野に対し――声がかかったのは、梅雨の手前の事だった。


「夜野、そなた。生きておるか?」

「……っ」

「息はあるようだな、これは認めるしかあるまい」

「あ……」

「その見事な嘴、爪、そして神々しい羽――立派な新天狗となりおって」


 神宿様の声だと理解し、ゆっくりと夜野は体を起こした。まだぐらつく意識の状態ではあったが、気づくと人の姿を象っていた彼は、ぼんやりと己の右手を見た。そこには、再生した爪が見えた。それにハッとして、首から下がる勾玉を握る。


「俺は、天狗に?」

「ああ。もうそなたは、一人の立派な天狗神だ。新たなる神を迎える際、一つ願いを叶える事としているが、何か望みはあるか?」

「――俺は、俺は……珠樹に、ブナの木の神に、番となってもらいたい」

「……」

「ずっと、珠樹と共にいたい」

「ほう。天狗紋は既につけておったのか?」

「はい」

「そうか。しかしながら、神とて寿命はある。序列により、岩である余や、天狗――即ち、余の一番の遣いであり、山で二番目に力の強い夜野や夕陽とは異なり、木の神には、寿命がある」

「長くても四百年と聞いております」

「――ずっと、か。一つ、余に可能な提案があるとするならば、この雪狗の一帯には、輪廻転生の力が働いている。よって、夜野が天狗紋をつけた者が輪廻転生した際、必ず目印として、同じ場所に同じ形の印を生じさせると約束しようか。そうであれば、その者が、同じ魂を持つ者であると、ひと目で分かるであろう? そなたは何分、不老不死に等しいからのう」

「はい。有難うございます。それで構いません、俺が必ず都度見つけ出し、迎えに行くので」

「では、降りるが良い。山の神々も、皆が祝福しておるぞ」


 こうして神宿様に見送られ、久しぶりに夜野は狗鷲の羽を出現させた。


 そして、大空を舞う。目指す先は、愛しいブナの大樹のもとだ。真っ先に報告したい。


 焦る気持ちを抑えきれないまま、早く会いたいという一心で、夜野は珠樹の所を目指した。そこが彼女の家でもあったからだ。いいや、これからは二人の家、か。そうなれば良いと、いつかの約束が果たされたのだと、今後は番になるのだと、幸せな気持ちで夜野は羽ばたいた。


「――っ」


 そして、懐かしいはずの風景が、そこに無い事を知った。

 珠樹がいるはずだった場所には、真っ二つになった幹の残骸があるだけだった。


 何が起きているのか、当初夜野には理解が出来なかった。手を伸ばしてみれば、残っている一部の幹と根も、枯れていた。触れた指先と硬直していた体が、次第に震え始める。


 そうして立ち尽くした夜野の前に、夕陽と木魂が並んで立った。


「夜野。お前が試練に向かったその日だったよ。姉さんに、雷が落ちた」


 木魂はそう述べると項垂れた。

 その傍らで、夕陽が難しい顔をしている。


「落雷で真っ二つに割れて、すぐ訪れた冬の間に、珠樹は枯れてしまったんだ。死は、避けられない事だった」


 父の言葉に、表情も声も失って、夜野は立ち尽くす。

 ――いつかの約束。

 番になるというその約束は、珠樹と夜野の間では、果たされなかった。これが、結末だ。



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