天狗はかく語りき

水鳴諒

第1話

 ――時々、不思議な夢を見る。


 双眸を開けた、譲原春花は、上半身を起こしながら、今見た夢をぼんやりと思い出した。


 日溜まりの中が舞台で、木の葉の囁くような音がしていて、とても穏やかな夢の記憶。


 昔からよく見る夢で、登場人物がもう一人いる。鴉の濡れ羽色の瞳と髪をした青年が出てくる。優しい色を浮かべた眼をしていて、表情も柔和だ。夢の中ではいつも、『またこの夢だ』と理解するのに、朝になって目を覚ますと風景も人物の顔立ちも鮮明には思い出せなくなる。それが常だった。


「まぁ、夢には深い意味なんて無いのかなぁ?」


 呟きながら、春花は布団から這い出た。


 大学に入学し、三年目。二十一歳になった今年は、久方ぶりに父方の祖父の実家へと訪れた。普段暮らしている場所と比較するならば、まさに秘境のような土地である。独特の山岳信仰がある町で、小さい頃など遊びに来る度に、『珠樹天狗に攫われるぞ』と祖父に脅された思い出もある。なんでも、ブナ林の中に住んでいるという昔話があるらしい。


 今回この土地を訪ねた理由の一つは、実はその一風変わった山岳信仰について、調べるためだ。卒論の題材にする事に決めたのは秋の事で、今の内から準備を始めるべきだと指導教授に勧められた結果でもある。


「やだなぁ、卒論……一年後の今頃は、修羅場かな」


 戦々恐々としつつも、春花はその後顔を洗ってから、身支度を整えた。

 鏡を見ながら、己の耳に何気なく触れる。


 そこには、三日月のようなホクロがある。生まれつきのものだそうで、たまにピアスに間違われるが、正真正銘のホクロだ。祖父は春花が生まれた時それを聞いて、『天狗紋は縁起が良い』と語ったらしい。なんでも、珠樹天狗の番いには、天狗が月を齧ったようなホクロが備わっているというお伽話があるそうだ。それを天狗紋と呼ぶらしい。


「まぁ、天狗自体、イヌワシがモデルだという話もあるし、イヌワシは番で行動するとは言うから、天狗に番伝承があっても不思議は無いけどね。イヌワシ……って、あ、今日はブナ資料館でやってる猛禽類展に行くんだった。急がないと」


 慌ててキッチンへと向かい、簡単にパンを食べてから、歯磨きをして春花は外に出た。泊めてくれている祖父の、俊季としひでは、既に外出していた。近隣の温泉へと出かけるのが、春花の祖父の趣味だ。


 二月の風は冷たく、この土地ではまだ雪が深い。


 歩道を進みながら、コートのポケットに両手を入れた春花は、手袋を持ってくるべきだったと後悔した。靴に関しては、長靴を祖父に借りている。


 ブナ資料館は、駅前にある。この町の数少ない観光スポットらしい。


 だが地元民は特別足を運ばないとの事で、イベント時でもなければ、非常に空いているという噂を聞いた。それも祖父が教えてくれたものだ。なんでも、資料館の案内をしてくれる『岩鞍』という人物が、非常に伝承に詳しいとの事で、祖父は春花に、じっくりと話を聞くと良いと勧めたものである。



 資料館に到着したので、春花は扉を押した。すると受付の所に立っていた青年が振り返った。その胸元に『岩鞍』という名札があるのを見て取り、春花は会釈をする。青年はスーツ姿だったが、民芸品らしい首飾りを下げていた。


「こんにちは。猛禽類展の見学と、あとは電話で民話の語りをお願いしていた、譲原です」

「ああ、俊季さんのお孫さんだと伺っている。今日は、宜しくお願いします」


 岩鞍が両頬を持ち上げて、穏やかに笑った。その優しげな黒い瞳を目にした時、春花は既視感を覚えた。どこかでこの二十代後半くらいに見える青年と会った事があるように思う。尤も、狭い町であるから、すれ違った事が過去にあったとしても不思議はない。


「宜しくお願いします」

「分からない事があれば、いいえ、興味がある事があれば、何でも聞いて下さい。俺にもわかる範囲でしか、答える事は出来ませんが」

「助かります。そうだ、あの――鷹と鷲って、そもそもどう違うんですか? 初歩的ですみません」

「大きさですね」

「なるほど」

「ワシタカ展を開催中、という謳い文句では、ある意味では分かりにくいかもしれないな」


 和やかに笑いながら述べた岩鞍の声は、聞き心地が良い。

 話しやすいと感じながら、片手で岩鞍に促されたため、歩きながら春花は続いて尋ねる。


「この写真は、どちらですか?」

「これは、イヌワシですよ」

「イヌワシって確か、絶滅危惧種なんですよね?」

「ああ。絶滅危惧ⅠB類だ。環境省の分類だと、レッドゾーンとなる」

「それが、この、雪狗せっく町のブナ林に来るんですか?」

「ええ。繁殖行為が確認されています。雪狗の土地には、イヌワシに由来すると考えられる伝承も多い」


 素直に耳を傾けながら、春花は重ねて問う。


「なるほど。そういえば、鷹とか鷲って、どのくらい生きるんですか?」

「――長くて四十年ほどだな」


 すると春花を見た岩鞍が、どこか考えるような顔をした。

 その瞳が僅かに翳ったように見えて、春花は首を傾げる。


「自然界に生きるものには、逃れられない宿命の一つだ」


 だが岩鞍は軽く頭を振ると微苦笑して、すぐに穏やかに答えた。なので春花も気を取り直して続けて訊く。


「食物連鎖?」

「そうとも言えるだろうな。例えば、餌としては――」


 岩鞍が展示パネルの一角へと視線を向けた。つられて視線を春花が向けると、岩鞍が歩き出す。春花もその後を追いかけた。


 こうして見学が始まった。


 主にイヌワシの生体について写真付きで展示されている説明文を、一つ一つ丁寧に岩鞍が説明してくれる。何度も頷きながら、春花は耳を傾けていた。そう広い展示ブースではなかったのだが、熱心に話を聞いていたせいなのか、時が過ぎるのはあっという間だった。


 町内放送が午後の五時を告げた時、春花はハッとした。


「すみません、話し込んでしまって。確か、ここは午後四時が閉館ですよね?」

「平気だ。こちらこそ長々と話してしまって悪いな」

「いえ、もっと伺いたいです。それに普通のブナに関する展示物も見たいので、また明日来てもいいですか?」

「ああ、勿論。予約を入れてもらった昔話もしていない事だしな。いつでも来てくれ」


 そんなやりとりをして、この日は帰る事とした。



 陽が落ちている外は既に暗い。幸い雪は降っていなかったが、明日こそは手袋を忘れないようにしようと春花は誓った。こうして祖父の家へと帰宅した後、二人で夕食を取ってから、入浴してすぐ、春花は本日の成果をルーズリーフに走り書きする。


「折角教えてもらってるんだし、録音させてもらった方がよかったかなぁ」


 就寝前にそう呟いてから、スマホのアラームをセットする。そうしてこの日は少し早く眠った。そしてまた夢を見た。しかしその夢は、朝になれば忘れてしまうとよく知るそれで、実際翌朝起床した時には、上半身を起こしつつ、春花はぼんやりとしてしまった。


「……うーん」


 ただし昨夜の夢は、いつもと少し違った。いつも夢に出てくる青年の顔が、昨日顔を合わせた岩鞍に似ていた気がしたからだ。似ていたというよりも、そっくりで本人のようだった。


「日中残差っていう奴かな?」


 漠然と呟いてから、この日も身支度をし、軽食を口にしてから、春花は資料館へと向かった。そして歩き出してすぐ、思わず両手をポケットに突っ込んだ。


「また忘れた……」


 昨日決意したばかりだというのに、今日も手袋を忘れてしまった。しかし早く資料館に行きたい気持ちが強かったので、そのまま雪道を進む。何故なのか、もっと詳しく話を聞きたい気持ちが強い。


「おはようございます」


 こうして資料館に向かうと、本日も岩鞍の姿があった。春花を見ると、岩鞍が両頬を持ち上げて、穏やかに笑った。


「おはよう」

「今日も寒いですね……」

「この土地ではマシな方だぞ?」

「本当に? 私の手なんて凍りそうなんですけど」

「手袋は?」

「忘れました!」


 春花がポケットから出した両手を見せると、岩鞍が困ったような顔をした。それから春花に歩み寄ると、不意にその右手に触れた。


「冷たいな」

「岩鞍さんは手が温かいですね」

「いいや、俺は普通だ」


 岩鞍が両手で、春花の右手をギュッと握る。温めようとしてくれているのだとは分かったが、なんだか気恥ずかしくなり、春花は微苦笑した。


「明日は手袋をはめてくるから大丈夫」

「……ああ。それを勧める」

「今日は、ブナについての展示を見せて下さい!」


 話を変えた春花から手を放すと、ゆっくりと岩鞍が頷いた。



 それから岩鞍は、そっと春花の肩に手で触れ、上階に続く階段を見た。理由は不明だが、岩鞍に触れられると、どことなく懐かしいような気がしてきて、春花の胸の奥が温かくなる。不思議と、心がトクンと疼く感じがする。


「あちらにある」


 こうして本日も岩鞍に案内してもらい、春花はブナやこの土地の四季について学んだ。本日は開館してすぐに訪れたため、午前中いっぱい話を聞いてから、正午を迎えた。丁度ブナ林についての話が一段落した所だったので、春花は問う。


「岩鞍さんは、お昼休みとかはあるんですか?」

「寧ろ、客がいない時はほとんどが休憩時間だぞ?」

「あ、今日は私がいる! え、えっと、午後もお話が聞きたいんですけど!」

「勿論構わない」

「でもちゃんとお昼ご飯は食べないと。お弁当ですか?」

「――普段は、近くの定食屋に出向く事もある」

「そこって今日もやってますか? 私は食べるあてが無いから」

「やっているはずだ。一緒に行くか?」

「え? いいんですか?」

「ああ。案内する」


 こうしてその後は、二人で資料館の外に出た。冬の風が険しくて、慌ててまた春花はポケットに手を入れようとしたが、その時岩鞍が苦笑して手袋を春花に渡した。


「え? これは?」

「使ってくれ」

「岩鞍さんの手が冷えるんじゃ?」

「俺は慣れているから平気だ」

「……じゃあ、片方だけ貸して下さい。もう一つは岩鞍さんが使って」

「それでは片手が冷たいだろう?」

「手を繋げば温かいです!」


 我ながら名案だと考えた春花は、左手に手袋をはめ、右手で岩鞍の左手を手に取った。すると岩鞍が驚いたような顔をしてから、短く吹き出した。そのまま二人で手を繋いで歩き、定食屋まで向かった。


 名物だというソースかつ丼を注文してから、お茶を飲みつつ二人でテーブル席で待つ。その間もずっと話していた。何故なのか、岩鞍と話していると楽しさと懐かしさのようなものを感じる気がして、春花は時間が経つのが惜しく思える。


「岩鞍さんは、どうしてブナ資料館で働く事にしたの?」

「理由は二つある」

「ほう」

「一つは、探し物ものをするために町中で過ごしたかったからだ」

「探しもの?」

「ああ」


 微笑して頷いた岩鞍が、首から下げている民芸品の首飾りに触れた。


「それは見つかったんですか?」

「まぁな」

「ふぅん。二つ目は?」

「いつまでも、あるブナの大樹の記憶を、語り継ぎたいと思ったからだ。人々の記憶に刻みたかった」

「それで昔話もしているの?」

「ある意味では、そうなるな」


 そんなやりとりをしていると、ソースかつ丼が運ばれてきた。

 柔らかな肉とジューシーなソースがよく合うご当地の名物に、春花が舌鼓をうつ。

 食後はまた、手を繋いで、二人で展示館へと戻った。

 そして春花は、ふと初日にも見たイヌワシの剥製を一瞥した。


「そういえば、私聞いた事があるんだけど、鷲や鷹って『自分で嘴や爪を岩にぶつけて折る』って本当なんですか? 老化して肥大化した時に、一度折って再生を待つ、とかって」

「それはデマだ」


 即答した岩鞍が、それから吹き出したのを、春花は見ていた。


 なんだか気恥ずかしくなってしまった。本当に己が知らない事ばかりだと、春花は考える。もっと下調べをしてくるべきだったと改めて後悔した。


「なるほど」

「ただ――雪狗山の天狗になる為には、山頂付近の、神宿磐かみすくいわで、修行中のイヌワシが嘴と爪を折るという伝承がある」

「え?」

「兎に角、昔話が多い土地だからな、そちらもなんでも聞いてくれ」


 岩鞍の楽しそうな声音に、大きく春花は頷いた。


「そういえば祖父から、珠樹天狗という名前を聞いたんだった。どんなお話なんですか?」


 何気なく春花が告げると、追憶に耽るような眼差しをしてから、悠然と岩鞍が笑った。


「ああ。そうだな――ざっと昔、ある所に……」


 こうして岩鞍が語り始めた。



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